第13話 建国祭の企み

 建国祭を翌日に控えたその日、午後の授業は休みになっていた。

 生徒たちの中には、既に前日から設営や観光客の誘導のために駆り出されている者もいる。校舎の中がいつもより静かになった代わりに、通りはいつも以上の騒がしさだ。

 一方で、イヴァンたち旗手として行列に参加する予定の生徒たちは、ヘイミルに呼び出されて職員室に集まっていた。

 「明日の衣装が届いたんですよ。丈はあわせてあるはずですが、試しに着てみてください」

目の前には、一人分ずつ箱に入れられた衣装一式がある。イヴァンにあてがわれていたのは、ぴかぴかに磨き上げられた黒いブーツに、少しばかり派手ではないかと思える色鮮やかなだぶだぶのズボン、真ん中に切れ目の入ったチュニック、腰帯。皮手袋に、変わった形の帽子もついている。

 「なんだか、変わった制服だな…」

まるで道化師だ、とイヴァンはげんなりする。

 「そんなに嫌そうな顔をしないで下さい。建国当時にあわせて作られた衣装ですから。教科書で見たことはありませんか?」

 「要するに七百年前の流行り、ってことですか。どおりで古臭いっていうか…」

他の生徒たちは、あまり文句も言わずてきぱきと衣装を身につけ、お互いを見ては笑いあっている。

 (これじゃ、仮装行列だな)

渋々ながら、イヴァンもその派手な衣装を見につける。見た目とは裏腹に風通しよく動きやすいのは助かるが、やけに色合いが派手な上に、帽子についた飾り布がひらひらするのは気に入らない。

 一般兵士として参加する他の生徒たちも似たり寄ったりの古めかしい格好をすることにはなっているが、そちらは見た目が地味なのでそれほど気にならないのだ。旗手は特に派手な服装をさせられるから、悪目立ちしてしまう。


 ヘイミルは、着替え終わった少年たちを見て満足げに手を叩く。

 「素晴らしい。ぴったりだ。皆よく似合っているよ」

 「…こんな格好で、集合場所まで行くんですか」

 「勿論です。その格好ならパレードの参加者だとすぐに分かるから、混雑していても警備の人がすぐに通してくれますよ」

イヴァンは、壁の鏡に映る自分の姿を憮然として眺めやった。とても人に見せられたものではない。故郷から来ている人がいないことを願おう。

 「衣装は箱に入れて、明日までちゃんと保管しておくように。皆、集合時間は分かっていますね? 絶対に遅れないように。」

 「はい」

 「それじゃあ、今日は解散です。皆、ゆっくり休んで、明日に備えてください。」

箱を抱えて部屋に戻ろうとしたイヴァンは、ふと、アステルが、衣装を前にして浮かない顔をしていることに気がついて足を止めた。

 「どうした? 行かないのか」

 「ああ、…なんか今になって緊張してきて」

 「なるようになるだろ、考えたってしょうがない。」

 「…相変わらずだな。」

少年は溜息をつき、首を振った。

 「明日は、うちの家族も来るから…」

 「そりゃ大変だ。こんな格好見られるなんて」

 「それもあるし…はあ」

小声で何か呟くと、アストルは溜息とともに箱を抱えて動き出す。

 何か考え込んでいる様子だったが、今はそっとしておこう、とイヴァンは思った。人前に出るのに緊張するのは、話しをしたところでどうなるわけでもない。




 部屋に戻ったイヴァンは、衣装の箱を枕元に放り出すと、さて夜まで何をしようか、と辺りを見回した。

 図書室で借りてきた本を読む気にはなれない。かといって町に出ても人ごみにうんざりするだけだし、学校内に残っている生徒たちも明日のことで頭が一杯だろう。

 窓に近づいて外の通りを見下ろすと、連れ立って歩く人々の姿があった。学校前の細い路地でさえ、いつもより人通りが多い。

 しばらく外を眺めていると、背後で、ことんと音がした。振り返ると、扉の下の隙間に何かが挟み込まれている。

 近づいて拾い上げてみると、それはメモだった。ノートの切れ端の上に見慣れない字が躍っていた。


 ”明日の件で、相談したいことがある。地下室へ来てほしい”


 「…何だこれ? 名前も書いてないな」

紙をひっくり返し、眺め回したあと、彼は部屋の外をうかがった。廊下には、誰かがいた気配も、どこかに隠れている様子もない。階段を駆け下りていく音はしなかったから、この階の誰かだろうか。とはいえ、今は三階の生徒たちもほとんど出払っていて、校内に残っているのはわずかのはずだ。

 (アステルかな?)

さっき少し悩んでいる様子だったし、多分そうだろう、とイヴァンは結論付けた。字がいつもと違うのも、きっと緊張で震えているからなのだと。

 紙をポケットに突っ込み、階段を下りていく。


 地下室は、教室棟の廊下の端にある。

 普段は使わないような教材がまとめられている場所で、地理の授業で使う大きな地図や、応急処置の授業で使う人体の模型、動物の標本などが仕舞いこまれている。入り口に鍵はかかっておらず、そこに収められている教材が必要な時だけ、教師に言いつけられた生徒たちが入るようになっていた。

 階段を下りて地下室の扉を押し開くと、古びた扉は大きな軋み音を立てた。黴臭い匂いが闇の中から押し寄せてくる。薄暗い地下室を照らすのは、運動場側の天井近くにある、鉄格子の嵌った窓からの光だけだ。

 (なんだって、こんなところに呼び出したんだ? よっぽど人に聞かれたくない話だったのかな)

手紙の主を待ちながら、イヴァンは、ぶらぶらと地下室の奥へ歩いていく。

 ここには何度か来たことはあるが、奥まで入ったことはなかった。積み上げられたガラクタの山の中には、いつからあったのか分からないような乾燥した花束の束や、もしかしたら物凄い骨董品かもしれない古びた小像などが無造作に転がっている。

 それらの上に積もったホコリなどを指でつついて確かめていた時のこと、入り口のほうで、ガタガタン! と大きな音がした。

 「…誰だ?」

返事は無い。物音は続いている。そちらに近づいて行った時、イヴァンは、半開きにしておいたはずの扉が閉ざされていることに気づいた。

 「おい、中にまだ――」

ドアノブに手をかけて、彼は気が付いた。

 ノブが動かない。

 「おい!」

怒鳴りながらドアを叩くが、返事は無い。物音も止んで、鉄扉の向こう側は完全な静寂だ。ここの扉には、鍵はついていないはずだ。なのに開かないということは――意図的に閉じ込められた、ということか。

 「…くそっ、なんだよこれ! おーい、誰かいないのか?」

叫びながら、イヴァンは鉄格子の窓に飛びついた。もっとも、どんなに叫んだところで、窓の向こうにいる誰かが聞きつけてくれる可能性は低いだろうと分かっていた。窓の外は運動場の端。おまけに明日は祭りだ。誰かが通りかかる可能性はほとんどない。

 このまま何日も閉じ込められているわけにはいかない。何しろ明日の朝には、大事な役目があるのだ。

 ということは、間に合わせるために、何としても自力で脱出しなくてはならない。


 窓と扉を見比べながら、彼は思案する。

 (窓は…、鉄格子を外せないし、外せてもあの狭さじゃ外に出るのはムリだな)

どちらかといえば扉のほうが望みがある。扉の金具を叩き壊せば、或いは、扉ごと外せるかもしれない。

 イヴァンは腰の剣に手をやったが、すぐに思い直した。このあいだ研いでもらったばかりの剣を刃毀れさせたら、あの浅黒い肌のハザル人の刀工に悪い気がする。それに、こういう仕事には鈍器のほうが適役だ。

 他に使えるものはないかと見回すと、部屋の隅に転がっている錆びた火かき棒が目に入った。それと、柄の折れた斧と。これだけあれば、なんとかなるはずだ。

 「ったく。どこの誰だか知らないが、面倒なことを――」

火かき棒を取り上げると、彼は、ひとつ息をついて覚悟を決めた。どちらにしろ、ここでじっと助けが来るのを待っているなど、真っ平だ。

 「ふんっ!」

蝶番に棒を叩きつける。がつん、と鈍い音。

 「…硬ぇな、くそっ」

あまり勢いよく叩きつけると、棒のほうが折れてしまいそうだ。金属の留め具の端に棒をつっこんで外そうとしてみるが、それも上手く行かない。斧に持ち替えて、ボロボロの刃を押し付けてみる。これも一筋縄ではいかなさそうだ。

 「はあ…くそっ。」

どうやら、地下室からの脱出は、長い戦いになりそうだった。




 朝の光に気づいて、うつらうつらしていたイヴァンは目を覚ました。

 「…やべ、いつの間にか寝てた」

腕が痺れて重たい。指の感覚はほとんどなくなっている。夜が更けるまで殴りつけていた扉の金具は、もうほとんど外れかかっている。地下室の扉は思ったより頑丈で、ようやく片方の留め金が外れたところだ。もう一方の留め金も、あと少しのはずだ。足元には、真ん中から折れて使い物にならなくなった火かき棒が転がっている。

 顔を叩いて、彼は目の前の古びた扉をにらみつけた。殴り続けた大きな音を聞いて誰も来ないということは、生徒も教師も、今日一日は出払っているのだろう。

 (にしても、見回りすら来なかったのは意外だったな…)

斧を振り上げると、彼は、朝の光の中で狙いを定め、渾身の力をこめて振り下ろす。

 ガキン! という音とともに、留め金が弾けとんだ。扉がぐらつき、隙間が空く。イヴァンは、斧を投げ捨てて扉を取り外しにかかった。ギリギリと錆びた軋む音が響き渡る。

 「この…ッ」

扉は、最後に悲鳴のような音をたててイヴァンのいた側へとゆっくり倒れてきた。慌てて横に跳んで避ける。扉ががれきの山の上に落ちるのと同時にその向こうから、つっかえ棒になっていたらしい鉄の棒や、それを押さえるために教室から運ばれてきたらしい机が雪崩のように一気に転がり落ちて来る。

 「なんだこりゃ」

呆れながら、彼はそれらを乗り越えて廊下へ這い出した。一人の仕業とも思えず、犯人の察しはなんとなくついたが、今はそのことを追求している場合ではない。

 (今、何時だ?)

行列の集合時間に遅れてしまう。喉はカラカラで空腹でもあったが、イヴァンは出来る限りの速度で自分の部屋へと急いだ。お祭りの衣装を取りに行くためだ。

 だが、――昨日、枕元に置いたはずの衣装箱が、どこにも無い。

 「無い? なんでだよ! あーもう、時間が無ぇ」

とにかく、誰かに状況を伝えなくてはならない。職員室はからっぽ。玄関へと走ると、受付の奥に座っていたいつもの黒服の女性が、ぎょっとした顔でイヴァンを見た。

 「サーレさん、どうしてここに? もう、行列の始まる時間では…それに、…」

 「閉じ込められてたんだよ、地下室に! さっきようやく脱出したとこ。それで、俺の衣装が無くなってる。一体――」

 「…それに、あなたもう、衣装を着て出かけたはずじゃなかったんですか」

女性は自分の言葉を最後まで言ってから、イヴァンが被せるように言ったことを再生して、遅れて状況を飲み込んだようだった。

 「えっ? それじゃ、あれは、あなたじゃなかったの?」

 「誰かが俺の衣装を着て、勝手に出かけたってことかよ!」

舌打ちして、イヴァンは玄関から通りへと飛び出す。後ろで、受け付けの椅子が倒れるような音と、大慌ての女性の声が響く。

 「待って、今の話…」


 通りに飛び出した彼は、そのまま人ごみに押し留められ、進めなくなった。どこからか、賑やかな音楽が響いて来る。広場のほうだ。

 (…もう始まってんのか)

完全に遅刻だ。けれど、”誰か”がイヴァンの代わりに衣装を着てパレードに参加しているはずだ。その証拠に、観衆の向こうには、広場をゆく行列の先頭で掲げられる王国の紋入りの旗が風にたなびいている。あの旗棹を掲げているのが、イヴァンを誘い出して罠にはめた犯人のはずだ。

 だが、行列に近づくことは簡単ではなかった。観客はもう既に道沿いいっぱいに陣取っている。押しのけようにも、人の列が厚すぎて前に出るのはムリだ。

 「…くそ、ここじゃどうにもならねぇ」

人ごみを掻き分けながら、彼は、街路樹の立ち並ぶ広場のほうへ進んでいった。前に出るのが無理なら、上に登ればいい。

 イヴァンは迷いなく、太い枝を広げている街路樹の幹に手をかけると、するすると上の枝まで登った。さすがに木の上までは混雑していない。狙い通り、梢の上からは、人混みを見下ろしながら優雅に行列を眺めやることが出来た。

 緑の葉の間から、ちょうど広場に入ってくる行列が見えた。先頭で誇らしげに棹を掲げているのは――思ったとおり、マルティンだ。

 (あいつ、そんなにあの役やりたかったのか)

一体どうやって、イヴァンと入れ替わりで現れたことの言い訳をしたのだろう。一緒に練習していた他の旗手役の生徒たちが疑問に思わないはずも無いのだが。

 イヴァンは、少しマルティンが哀れになってきた。そんなに旗手の役をやりたかったのなら、代わってやってもよかった。自身は、あの役を、それほどやりたいと思っていたものではないのだ。

 どちらにしろ、今から入れ替わるのは無理だ。

 梢にもたれかかりながら、イヴァンは観客として行列を眺めた。

 マルティンの後ろで、古めかしい鋲帷子のようなものを着こんで白馬に乗っているのが、きっと国王だろう。頭には金の植物が絡み合ったような形をした王冠を載せている。その後ろで栗毛と灰の馬にそれぞれ乗っているのが、多分、二人の王子たちだ。

 どちらも国王と同じ金髪で、双子のようにそっくりな顔立ちをしている。違うのは格好だけで、片方は大きな剣を背負った武人、もう片方はまるで吟遊詩人のような格好で、斜めにマントをかけている。

 その後ろに続くのは従者に扮した近衛騎士たち。分かるのはベオルフくらいだが、実に堂々と行列の真ん中を進んでいる。

 その後ろには旗を掲げたアステル。歯を食いしばって棹を一直線に掲げているのを見て、イヴァンは、思わず微笑んだ。

 (なんだ、ちゃんとうまくやれてるじゃないか)

家族が見に来る、と言っていたから、きっと今頃、アステルの家族も彼の晴れ姿を、この人ごみのどこかから見ているのだろう。

 「よう、兄ちゃん。特等席だね」

後ろの方から陽気な声が飛んできた。振り返ると、すぐそこの出窓に腰掛けて、酒瓶を傾けている赤ら顔の男たちがいる。その建物の住人らしい。

 「学生さんかい? サボっちゃいけねぇなぁ」

 「こっちにも事情があんだよ。なあ、腹へってんだけど、そこのりんご一つくれねぇかな」

 「あん? こいつか?」

酔っ払った男は、笑いながら手元のりんごを一つ、ぽいと枝越しにイヴァンに投げて寄越した。

 「ありがとな!」

 「おうよ。落っことすなよー」

ははっ、と男たちが笑う。

 「お、見ろ。来たぞ、国王様だ」

 振り返ると、ちょうど木の正面あたりに行列の先頭がやって来たところだった。隊列の中ほどにいる音楽隊が奏でる旋律に従って、行列はゆっくりと立ち止まる。確か、行列は広場を一周して、広場で三度止まるという話だったはずだ。そのあと、王宮のほうへ帰っていくのだ。

 祭りの盛り上がりも最高潮で、広場は人、人、人で押し合いへし合いだ。なにやら感極まって叫んでいる人や、縄を張られた内側に入ろうとして警備の騎士団にとめられている観客もいる。


 りんごを齧りながら眺めていたイヴァンは、ふと、そんな中で、微動だにせず行列を食い入るように見つめている人影があることに気が付いた。

 それは、上から見ていれば一目瞭然で、彼は思わず手を止めた。

 最前列にいて、騒ぎもせず、左右から人ごみにもまれていながら動きもせず、頭からすっぽりとマントを被った人物。見ていると、その人物は胸元のあたりをまさぐって、何か細長いものを取り出した。

 (…?)

イヴァンは、梢の上をそろそろと移動して、その男のよく見える位置へと近づいていった。拍手が沸き起こり、行列が動き出す。次に止まるのは、広場をもう三分の一ほど進んだところだろう。だとすれば、先頭列がちょうど男のいるあたりになる。

 列が停止する直前、マントの人物が細長いものを持ったまま、さっと手を挙げるのが見えた。それの先がきらりと光る。

 (武器?!)

とっさに、イヴァンは齧りかけていたりんごを思い切りブン投げる。

 「危ない!」

叫ぶのと同時に、梢の上に身を乗り出した。


 次の瞬間に起こった出来事は、まるで悪夢のようだった。

 パン、と乾いた音とともに、火花が散った。先頭列近くにいた馬が躍り上がるのが見える。木から飛び降りるところだったイヴァンは横目に、その馬の色が、王や王子たちの乗る色でないことだけは確かめた。

 悲鳴と怒号。地面に着地するのと同時に押し寄せてくる観客。人を押しのけるように走りながらも、イヴァンの視線はあのマントの男を捕らえていた。混乱して逃げ惑う観客の間を擦り抜け、どこかへ逃げようとしている。

 男が何をしようとしていたのかも、自分が何をすべきかも分かっている。逃がすわけにはいかない。

 人ごみを抜けたところで、イヴァンは走る速度を上げた。擦り切れたマントを翻して路地裏へ逃げ込もうとしている人物を追っているのは、彼一人だ。

 背後から迫るただならぬ気配に気づいて振り返ったマントの人物は、追っ手に気づいて慌てたような素振りを見せた。血相を変えて走る速度を上げる。風で飛ばされたフードの下から、髭面が見えた。男なのは間違いない。

 全速力で追いながら、イヴァンは腰に手をやった。――さっき見えた火花は、何かの武器だった。剣を抜くべきか、それとも。


 その時、背後から高い蹄の音が響いてきた。すぐ横に白いマントを翻した騎乗の騎士が並ぶ。

 「さきほど広場で国王陛下を狙ったのはあいつか? 少年!」

イヴァンは、頷いた。腰につけた短剣には見覚えのある金と銀を織り込んだ房飾りが揺れている。それなら、この男は近衛騎士の一人に違いない。

 追っ手に馬が加わったと見た逃亡者は、すばやく逃走経路を切り替えた。馬の入れない狭い路地に飛び込んで、そのまま駆けていこうとする。

 「そのまま、あっちに回ってくれ! この先の公園のあたりに出るはずだ」

馬を降りようとする騎士に向かって怒鳴ると、イヴァンは、躊躇せずに路地に突っ込んでいった。

 追っ手が諦めないと知った逃亡者は、何を思ったのか行き止まりの塀を登り始める。だがイヴァンのほうも、塀登りなら馴れたものだ。彼は易々と先をゆく人物に追いつくと、垂れ下がっていたマントの端を掴む。

 「よしっ」

けれど、そう上手くはいかなかった。マントごと引き摺り下ろそうとしたとたん、逃げる男はマントの紐を解いた。バランスを崩したイヴァンが両手で塀にしがみ付くと、相手はその隙に塀を乗り越えて向こう側に消えてしまった。

 慌てて追って塀を乗り越えてみると、髭面の男の姿は既に消えている。


 道の両側は建物。行く手には、公園の端が見えている。――逃げられる場所は、そこしかない。

 イヴァンは、迷わず腰から剣を抜き放った。公園に逃げ込めば逃げ切れると思っているなら、それは甘い考えだ。どこに隠れているか判らない敵を探し出すのは、彼にとっては十八番なのだから。


 警備を呼び集めているらしい笛の音が町中に響き渡っている。さっきの近衛騎士だろうか。音からして、近くにいるはずだ。時間が経てば、包囲網は縮まる。どこへも逃げられない。

 公園の緑に踏み込むと、彼は、腰を屈めて辺りを伺った。

 (獲物の逃げた気配ならわかる。いつもルナールとやってた)

草の上についた微かな足跡。なんとかして裏をかこうとする獲物と、息を潜めてそれを追い詰める逃亡者と。

 相手の武器は分からないが、何か、細長いものを持っていたのは判っている。そして遠くから国王ら重要人物のいる列の先頭を狙っていた。――おそらく飛び道具だ。

 (…いた!)

イヴァンはぴたりと足を止めた。茂みの中にしゃがみこんで、何か必死に手を動かしている。音をさせないよう忍び寄ると、彼は、素早く剣を相手の喉下に突きつけた。

 「手を挙げろ」

 「!」

男の動きが止まる。弾みで細長い棒を取り落とし、手元から黄色い粉のようなものが零れ落ちた。もう片方の手には、何か鉄で出来た筒のようなものを大事そうに握り締めている。

 (…吹き矢? 違うな)

それが武器だとしたら、見たことも無い武器だ。


 後ろで馬の足音がする。

 「少年、そこか?!」

 「はい、確保しました」

答えた、その瞬間。男が動いた。 

 とっさに、イヴァンは剣を構えた。攻撃される、と思ったのだ。そしてそれは正しかった。


 バン!


 乾いた音とともに、イヴァンの左手に構えていた剣が文字通り吹っ飛ばされた。手からもぎ取られるようにして砕かれたのだ。何が起きたのか、彼には一瞬、分からなかった。

 その一瞬をついて、男は駆け出そうとする。

 「少年、伏せろ!」

叫ぶや、後ろから踊り出してきた馬上から騎士が矢を放った。狙いは正確無比だ。足を射抜かれて、男がばたりと倒れるのが見えた。着地した馬の上から、騎士はさらに二射目を構えている。

 だが、それは弦を離れることが出来なかった。男が胸元から何かを取り出そうとするのが見えた。――矢が放たれるより早く、閃光が辺りを包み込んだのだ。

 間をおかずに爆音と、爆風が叩きつけてくる。

 「…くっ」

イヴァンは、腕で顔を覆いながら後ろ向きに転がった。風で舞い上がった土ぼこりと草と木の葉とが体じゅうに押し寄せて来る。空中に放り出されるほどの勢いだ。木か何かに叩きつけられたところで、意識が遠のいた。

 何が起きたのかわからないまま、気が遠くなる。おそらく、しばらく気を失っていたはずだ。

 「…ン、おい! イヴァン」

気が付いたのは、聞き覚えのある声がした時だった。揺さぶられて目を開けると、誰かが覗き込んでいた。

 「…ベオルフ…?」

見覚えのある男の顔が、ほっとしたようになる。

 「良かった、生きてるな。ここで一体、何があった」

 「何って…俺にも分からない…」

焦げ臭い匂い、馬のいななき。辺りには人の気配が満ちている。騎士たちが追いついて来たのだ。

 頭を打ったせいか、世界が歪んで、ぼやけて見える。その世界の中に、赤々と燃える炎と、燻っている煙のゆらめきとが見えた。嫌な臭いだ。すぐ近くでベオルフが誰かに話しかけているらしい声がする。

 「エーリッヒは? 生きてるか?」

 「は、こちらも軽傷です。」

 「犯人は」

 「爆心地に痕跡がありましたが、身元の判定は不可能な状態、とのことです。」

 「…チッ。自分ごと証拠隠滅たぁ、潔いんだか迷惑なんだか」

ベオルフの毒づく声。

 「ここにいる学生を王宮へ運んでくれ。あとで話を聞きたい。――ああ、そうだ。こいつの身元はオレがよく知ってる。騎士学校の校長殿には、あとで連絡を…」

はっきりと覚えているのは、そこまでだった。朦朧とした意識の霧の中で認識できたのは、どこかへ運ばれ、手当てを受けたことだけ。


 あとは――記憶にない。

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