第6話 王都の騎士学校
地平線に盛り上がる緑の塊。それが、王都を目にした時の第一印象だった。
近づくにつれ、塊に見えているものが緑に囲まれた小高い丘で、丘の上に町が作られているのだと分かってくると、その規模と、見たことも無い風景とにイヴァンの心は浮き足立った。
「…すっげぇ」
馬車の窓から身を乗りだすイヴァンの後ろで、レオンが咳払いする。
「イヴァン様、口が開きっぱなしですよ」
「あ、うん。けど…すげえ…」
気の効いた言葉が出てこない。
そもそも、サーレ領は西の果てで、街道ですらほとんど人の行き交うことがない。それが、大街道に入ってからというもの、ひっきりなしに馬車や荷車とすれ違い続けている。珍しく人の多い風景に目移りするのも、当然といえば当然だった。
大街道とは、広大な王国を十字に横切る大動脈と言うべき幹線道路だ。東西と南北の二本があり、十字となる大街道の交わる中心地にあるのが、いま目の前にある王都リーデンハイゼルとなっている。ここ数百年の平和が作り上げた、歴代の王たちの国土政策の集大成だ。
その大街道の、しかも王都前ともなれば、国内に住む、ありとあらゆる部族、あらゆる地方の人々が行き交っている。
「うおっ、あれ何だ、あれ。あの白い生き物! デカい!」
イヴァンは、目ざとく道端に見つけた、薄いクリーム色の毛をした大きな獣を指差している。
「あれは砂ラバですよ。ここの南の高原地帯に住むハザル人が飼っている生き物ですね。昔は荒野の移動に使われていたらしいですが、最近は水路の整備が進んで荒野も少なくなって来ているので、ああして、愛玩動物代わりに連れられていることが多いんです」
「あれは?! あの、町のど真ん中に立ってるデケー銅像!」
今度は、街道の交わる大きな広場の真ん中に立てられた像を指差している。
「…あれは二百年前の国王ですよ。”英雄王”シドレク。有名な方です」
「誰だっけ」
「誰だっけ、じゃなくて…。はぁ…歴史の授業で何度も出てきたはずでしょうに」
「あーえっと、そうだ! 覚えてるよ。”白銀戦争”に”東方貴族の乱”だろ。知ってる知ってる」
レオンの疑わしげな眼差しから顔を逸しながら、イヴァンは、なおも目を輝かせながら周囲を見渡し続けていた。
やがて馬車は、大街道の終着点である丘のふもとまでたどり着いた。
「ここからが”上の町”です。リーデンハイゼルは、ここの上の旧市街と、さきほど通って来た新市街、”下の町”の二つに別れているんですよ」
レオンが説明する。
馬車は、幾つもの門を潜り抜けながらつづら折りの道をゆっくりと登ってゆく。通りがほぼ十字に交わる広場も、丘のふもとに作られた宿場町もだんだん遠くなっていく。
やがて、丘のてっぺんにある広場へと入った。入り口には剣を振りかざした騎馬の騎士の像が雄雄しく聳え立ち、その後ろには歴史のありそうな洒落た建物が、所狭しと建ち並んでいる。
「レオンは、ここ、来たことあるんだよな?」
「三年に一度の大会議に出席される旦那様のお供で、二度ほど。」
レオンは冷静そのもので、窓の外にも目をやろうとしない。
「…着く前からそんなにはしゃいで。これから騎士学校に入学するんですよ。少し落ち着いていてください」
「何だよ、心配なのか」
「いいえ。」
――即座にきっぱりと否定はしたものの、しばしの間のあと、レオンは前の言葉を取り消した。
「心配は心配です。ただ、あなたの場合、”心配”の方向が少々、他の人間と意味が異なりますね。」
「何だよそれ。」
「都会で堕落する心配は無いんでしょうが、肝心の勉学のほうが…ね」
それだけ言って、言葉を濁すようにして口をつぐんでしまった。イヴァンは首を傾げながら、視線を窓の外に戻した。
「お、なんだあの建物。屋根がおもしれーな」
「……。」
馬車は狭い路地へ入り、かたことと揺れながら進んでゆく。やがて、目的地と思しき建物の前で停車した。
「よし、着いた」
御者が扉を開けに来るより早く、イヴァンは、傍らの荷物を抱えて勢いよく馬車から飛び降りた。ずっと馬車に乗っていたせいで少し尻が痛い。普段は馬車になど乗らないので余計にだ。
大きく伸びをしていると、後ろからレオンも降りて来た。
「お送りするのはここまでです。…お気をつけて。くれぐれも旦那様に心配をかけるようなことはなさらないでくださいね」
「ああ、分かってるって。休みには一度戻るよ。じゃあなレオン」
「……。」
別れの言葉など、あっさりしたものだ。
何か言いたげなレオンの視線を背中に感じながら、イヴァンはわざと大股に歩き出す。
レオンのことだ、どうせ気づいているに違いない。
度を越してはしゃいでいたのは、本当は、別れの空気をしんみりしたものにさせないためのものだったのだと。
イヴァンは一度も振り返らなかった。振り返ればきっと、レオンは十年前のあの、森が焼けた夜と同じ顔をしていると思った。
(俺は、忘れてない。…あの時は、何も出来なかった)
目の前の扉に手をかけながら、イヴァンは心の中で思った。
(お前たちを守れるくらい強くなるんだ。そして、今度こそ…)
館を出られたことの喜びと、新しい町での暮らし。微かな不安。
そして、それら全てを上書きするような、強い「決意」が目の前にあった。
町中にあるほかの建物と同様に、その建物も古びていながら堂々とした佇まいだった。
(こんなとこが本当に、「騎士学校」ってやつなのか…?)
何の表札もかけられていない木製の両開きの扉を押し開くと、かすかに軋む音がして、がらんとした薄暗いホールが目の前に広がった。高い天井。磨り減った階段の手すり。そして壁にかかっている「廊下は走らない」「玄関ホールでは大声で話さない」といった妙に世間じみた標語や、大きなガラス窓のついた待合室。
外見からは予想もつかない、奇妙な空間だ。
しばらくぽかんとして立っていると、傍らから声がかかった。
「新規入学の方ですか?」
顔を向けると、入り口のすぐ側に受付らしきカウンターがあり、黒いぱりっとした上着姿の女性が几帳面そうな顔をして立っていた。
「あ、はい。」
「お名前を伺ってよろしいかしら。荷物は、それだけですか?」
女性は、イヴァンが無造作に抱えている小さなかばんをちらりと見やる。
「規則なので、念のため中身を確認させてもらえますか。持ち込み禁止のものがあった場合には、こちらで預からせていただくか、破棄していただきます。あ、武器をお持ちなんですね? では、それも確認させてください」
言葉は丁寧だが、有無を言わさない命令口調だ。イヴァンは、少しむっとしながらも腰の剣を外した。
「持ち物検査なんて必要あるのか?」
「ここは全寮制の学校ですからね。共同生活をする上で、不適切と思われるものは持ち込みをご遠慮いただいているんです。」
「たとえば?」
「高価すぎる装飾品や腐りやすい生もの、ペット、いかがわしい本なんかです。それから、ここの寄宿舎は基本的に相部屋ですし、ドアに鍵はついていません。もし貴重品を持ち込まれるのでしたら、自己責任で管理をお願いしますね」
持ち物検査は直ぐに終わった。荷物の中には着替えくらいしか入っていないのだ。剣のほうは、大きさを測って何かメモに書き込むとすぐに返却される。
受付の女性は、すべての荷物を元通りにしてイヴァンに差し出すと、続けざまにきびきびとした口調で話しだした。
「確認できました。それではサーレさん、簡単に校則の説明をさせていただきますね。学内での飲酒、部外者の連れ込みは禁止。持ち込み禁止物を持ち込んだ場合には没収、もしくは謹慎処分となります。消灯は十一時。門限は夜十時、これを過ぎると守衛を呼ばないと入れませんのでご注意ください。食堂や教室はここに見取り図をつけておきますのでご確認ください。何か質問はありますかしら?」
「え、ええと…?」
早口すぎて、半分も理解出来ていない。
イヴァンが黙っていると、女性は、質問なしと判断したらしく、校則の書かれた分厚い小冊子とともに、部屋番号の書かれたメモを差し出してきた。
「お部屋はひとつ向こうの棟の三階の端です。後で制服を届けさせます」
「制服?」
「ええ。ここでは私服は禁止です。外出の時以外では、制服を着て生活していただきますので。」
話はそれで終わりだった。あとは、自分で指示された部屋まで行け、ということらしい。
返された荷物を小脇に抱えて廊下を歩きながら、イヴァンは、面倒なところに来てしまったなと少し後悔しはじめていた。
しかしそれにしても、やけに静かだ。
同じ年頃の少年たちが沢山いるはずなのに、廊下にも中庭にも人っ子一人いない。学校、といえば、館の敷地内にある学校しか知らないが、そこは、授業中でもぺちゃくちゃお喋りしている子供たちがいたり、教師に質問したりする子供たちがいて、いつも賑やかだった。こんなに静かで、しかもだだっ広い場所は、今まで一度も見たことがなかった。
(うちの館と、どっちが広いかな…)
渡された見取り図を手に廊下を歩きながら、イヴァンは、慣れ親しんだ実家と新しく住むことになる場所とを比較していた。
階段に足をかけると、木製の段がかすかに軋む。寄宿棟は三階建てで、イヴァンに割り当てられた部屋はその最上階の一番端だ。
ドアには、本当に鍵がついていなかった。しばらく使っていなかった部屋なのか、ドアを押し開くと中から微かに埃っぽい匂いが流れ出してくる。入り口を入るとすぐ、壁に向かい合わせに寝台が二つ。その奥に書き物机と二段の引き出しつきの小さな物いれが二つずつ揃えてあり、奥には窓が一つ。
それだけだ。
片方の寝台に荷物を投げ出すと、彼は窓を大きく開け放った。景色は余り良くない。というより、窓から見えるのは向かいの、同じ三階建ての建物の壁くらいのものだ。廊下の反対側にも部屋が並んでいたが、そちらからも見えるのは中庭くらいだろう。
彼はため息を付きつつ振り返り、狭い部屋を眺めた。
「…せめて見晴らしが良ければなぁ」
塔の部屋もそんなに広くはなかったが、窓の外には広々とした牧草地と森があった。こんな石しかない景色の中で、ここの人間たちはどうやったら、うんざりせずに暮らしていられるのだろう。
寝台に腰を下ろして、さてこれからどうしようかと思っていたとき、ドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼しますよ」
入って来たのは、さっきの受付の女性と同じようにパリっとした黒の上着に身を包んだ年齢不詳の男だった。髪と髭の白さからして、おそらく五十過ぎくらいだろう。若く思えるのは、真っ直ぐに背を伸ばし、動きがやけにきびきびといるからだ。
柔和な表情をした男は、手に黒い布の束を抱えている。
「君が、新しくやってきたサーレ君ですね」
「ああ。…じゃない、はい」
「私はヘイミル。生徒たちの世話役をしています、よろしく。制服を持ってきたんですよ、大きさが合うといいんですが。」
そう言って、ヘイミルは寝台の上にズボンとシャツを、床にブーツを、それから寝台脇の杭に上着のハンガーを引っ掛けた。どれも黒一色に染められ、ひどく地味に見える。だが、布地は丈夫そうだ。
イヴァンは、それらを広げて自分の体に合わせながら長さを確かめた。
「特に問題無い…けど、シャツの袖が短い気がする」
「それでいいんですよ、元々七分丈だから」
そう言って、ヘイミルはさらに灰色の短いマントと、肘の手前まである長い皮の手袋を差し出した。
「正装するときや外出のときは、上からこれを着けるんです。」
「ふーん…そんなのまで決まってるんだ」
「何しろ古い学校ですからね。格式、というやつらしいですよ」
男はまるで他人事のように言って、さりげなくイヴァンのほうを眺めやった。
「君、辺境伯領から来たんですよね。伯爵のご子息にしては、あんまり気取ったところがありませんね」
受け取ったマントを無造作に寝台の端にひっかけようとしていたイヴァンは、振り返って、怪訝そうに男を見た。初対面で、そんなことを言われたのは、初めてだ。
「親父の肩書きと、俺と、何の関係があるんだ?」
「何の関係が…ですか。ますます珍しい」
ヘイミルは、何故か苦笑している。
「この国で、『伯爵』以上の爵位を持っている貴族は、北と西の辺境伯を含めても、全部で七人しかいないんですよ。」
「んー…よく知らないなあ。そういうの詳しいんですか」
「仕事柄、紳士録に載っている名士の領地や爵位の暗記は趣味のようなものでね。ここには名家の出の生徒も多いもので。各地方の特色なんかも見られて面白いですよ。サーレ領からの入学者は、数十年ぶりになりますか――」
イヴァンは、自分は関係ないといったふうに聞き流しながら、制服のズボンにどうやって剣を下げたものかと思案している。相手が全く興味を示さないことに気づいて、ヘイミルは話題を変えた。
「サーレ君、校則集は、もう読みましたか。」
「…いや、まだ」
「武器は貴重品扱いだから持ち歩くことは許可されていますが、校内での抜刀は禁止。特に決闘やケンカ沙汰は一発退学もありえるから注意して下さいね。もっとも、それは町中でも同じですが。」
「ケンカなんかしねぇよ」
「それなら宜しい。」
にこやかに言って、ヘイミルは、ちらりと寝台の上に放り出されたままになっている小冊子を眺めた。
「そうそう、明日からの授業ですが――」
唐突に、リズミカル鐘の音が鳴り響いた。校舎の中からだ。
何事だと思う間もなく、どこからか元気のいい少年たちの声が響いてきた。授業が終わったようだ。
「…授業は朝の九時から。初日は教室の場所が分からないでしょうから、他の生徒たちに聞くと良いでしょう。さ、昼食の時間ですね。食堂まで案内しましょう。あとの話は、おいおいですね。」
ようやくベルトに鞘を取り付け終えたイヴァンは、ヘイミルに連れられて部屋を後にした。
階下に降りていくと、建物の中は、さっきまでの静寂が嘘のように人の気配が満ちている。
「食事は町に出てとっても構いませんが、基本は食堂で皆いっしょに食べていただきます。朝食は六時から授業の開始まで、昼食は十二時から十四時まで、夕食は五時から八時までの間。」
歩きながら、ヘイミルは馴れた口調でゆったりと説明している。
「えっと、その…ここ、実は結構、人がいるんですね」
「そうですね。今の生徒数は百二十人ほどです。年齢は十二歳から十八歳…通常は四年で卒業です。学校を卒業するときに、成績優秀なら騎士団に入る権利を貰えますから、それ目当てに来ている子たちが多いんですが――。君は、騎士になりたいわけじゃないんでしょう?」
イヴァンが頷くと、ヘイミルは、そうですよね、と続ける。
「君みたいに領地があって家を継げるような子たちは、ま、留学みたいな感覚で来てるんでしょう」
「……。」
そうだとも、違うと言えなかった。ただ漠然と、「もっと多くのことを知りたい」と思ったから、そしてベオルフに言われたから、ここにいる。
(そういや、あいつらも、この町の何処かにいるはずなんだよな)
東の学術都市から来たたというオルグはどうか判らないが、中央騎士団に所属するシーザに、近衛騎士であるベオルフは、普段はこの町に勤務しているはずだ。
ふいに良い香りが鼻孔をくすぐって、意識が思考から現実へと引き戻される。
顔を上げると同時に、今まで聞こえていなかった喧騒が彼を包み込んだ。
「着きましたよ。ここが食堂です」
中庭に面した広々とした部屋の中に、イヴァンと同じ黒い制服を来た少年たちがひしめきあっている。入り口のあたりにいた何人かが、ヘイミルと、その隣にいる見慣れない生徒とを興味深そうに眺める。
「配膳は自分でやること。そこが受け取り口、返却口はあっち。…出来ますよね?」
「当たり前だろ」
むすっとしてイヴァンは答えた。「子供じゃあるまいし、そのくらい当然。」
「配膳から片付けまで全部召使いがやってくれるような家の子は、出来ないこともあるんです。――では、あとは、近くにいる仲間に聞くように」
それだけ言って、ヘイミルは元来た廊下のほうへと去って行く。
一人残されたイヴァンは、見よう見まねで他の少年たちがするように、盆を手にして列に並んだ。ちらちらとこちらを見ている視線を感じたが、彼は敢えてそちらを見ようとはしなかった。新参者が珍しいのだ。いずれ、時間が経てば注目しなくなるはずだとイヴァンは思った。
食事は、全員が同じものを同じだけ支給される形式だった。もう少し欲しい、とは言えないらしい。
受け取った皿を並べた盆を片手に、空いている席を探そうとしていたとき、すぐ後ろに並んでいた少年が声をかけてきた。
「あんた、新入り?」
振り返ると、イヴァンより頭ひとつぶん背の低い赤毛の少年が首をかしげていた。
「ああ。そうだけど」
「じゃあ、同じ一年生だね。おれ、エデル。さっきヘイミル先生と話してた時、西方訛りが聞こえたんだ。どっから来たんだい?」
赤毛の少年は、にこにこしながらイヴァンの後ろについてくる。イヴァンと同じ西方訛りがあるところからして、どうやら、ご近所の領地から来ているらしい。
「そこ空いてるよ」
遅い時間に来たせいなのか、席は窓際のほうからほとんど埋まっていた。二人は、廊下に近いあまり人気の無い、空いている席に向かい合って腰を下ろした。
「俺はイヴァン。サーレ領から来た」
「あ、じゃあ西の国境かぁ。おれは、その隣のマイレ領からだよ。海に近いあたり。ベローナって知ってる? 魚の干物が名産」
「確か、近くまで行ったことはあるな。あの辺って大きな港があったような――」
話しながら、イヴァンの注意は、昼食の肉団子の入ったスープのほうに注がれていた。不味くはないが、少し味付けが薄い気がする。王都に近づくにつれて料理の味が薄くなっていくような気がしていたのは、気のせいではないのかもしれない。
イヴァンがパンを大きくちぎってスープごと口に突っ込むのを見て、エデルは目を丸くする。
「…もしかして、お腹空いてた?」
「うん、今日着いたばっかだし。旅って妙に腹が減るだろ」
「そっか、そうなんだ。おれは午前中はずっと座って授業だったから…。これ、あげるよ」
差し出されたのは、パンの半分だ。
「お、いいの? 悪いな。」
遠慮なく受け取って、彼はそれをスープに浸した。勢い良く食べ物を飲み込んでゆく向かいの少年を、エデルは面白そうな顔で眺めている。
食事をしながら、イヴァンは、自然と食堂の中に視線を巡らせていた。
聞こえてくる言葉は綺麗な中央語もあれば、どこか地方の訛りのキツいものもある。それに中央語以外の耳慣れない言葉も。生徒たちの雰囲気や見た目、体格も様々で、やけに太った大柄な生徒がいるかと思えば、かわいそうなくらい痩せて小さな生徒もいる。それに気になるのは、騎士学校という名前のわりに、剣を提げている生徒のほうが少ないくらいだということだった。
もっとも、食事の時は武器など必要ないから、どこかに置いてきているのかもしれないが。
――窓際のほうに視線をやったとき、彼は、そのあたりの少年たちだけ妙に浮いた雰囲気なことに気が付いた。
食堂の中ほどの席は一つの椅子に一人だけ座って、隣り合って使っているのに、窓際のテーブルだけは、一つのテーブルに数人しか座っておらず、他の生徒たちは少し間をおいて席に座っている。まるで避けられているかのようだ。
「なぁ、あそこ、なんであんなに空いてるんだ?」
「うわ、ちょ、声大きい! 指差さないで。」
あわててエデルが人差し指を自分の口に当てた。
「あれは上級生のマルティンとその取り巻きだよ。”爵位持ち”の連中さ」
「”爵位持ち”?」
「王都のすぐ近くの子爵領の跡取り息子なんだ。マルティン・ディ・アジズ。四年生だけど、二回落第してるから年はおれたちよりずーっと上。いつも威張ってる。」
「ふーん、面倒な連中ってことだな」
イヴァンは、それだけ言って視線を自分の皿のほうに戻した。
「それだけじゃないよ。あいつら、剣持ってるだろ」
「ああ」
それは、イヴァンも気づいていた。窓際にいる生徒たちは、例外なく腰に剣を帯びていた。
「乱暴者なんだ。何かあると、すぐ剣を抜きたがる」
「確か――それって、退学になるんじゃないのか?」
ついさっき、校則についてヘイミルに聞いたばかりなのだ。さすがのイヴァンも、そのくらいは覚えている。
「そこは、あいつら、上手くやるんだよ。…あくまで訓練だって言い張って、言いがかりをつけて。でも、向こうのほうが強いからさ…。」
しまいのほうの声は、小さく尻すぼみになっていく。
なるほど、あの連中は、徒党を組んで弱い生徒を脅しているのだ。イヴァンにも状況が飲み込めてきた。
「群れる奴なんて強くねぇよ」
ふん、と鼻を鳴らして不機嫌そうにそう言ったイヴァンを、エデルは、上目遣いに伺うように眺めている。この新参者がただの恐れ知らずなのか、それとも別の何かなのかを計りかねているのだ。
「…そういえば、あんたも剣持ってるね。騎士の家かなんかなの?」
「違うけど、…」
ふと、さっきヘイミルに言われたことがちらりと頭を掠める。何故、ここの連中はこうも、人の家柄だの、出自だのを気にしたがるのだろう?
「…そういうの、あんまり気にされたくないんだよなぁ」
「そっか」
エデルは、それ以上は尋ねるのを止めて話題を変えた。
「あ、そういえば、着いたばっかりなら、ここの構造とかまだよく知らないんだよね? あとで案内しようか」
「いいのか? そりゃ助かる」
「もちろん。午後の授業は三時に終わるから、それからで良ければ。部屋まで行くよ、どこ?」
「三階の一番奥だな」
答えた途端、赤毛の少年の表情が曇った。
「…三階って、貴族ばっかりの階だね」
「え、そんなので分けてんのか」
「うん。おれたちは、滅多に上がらないんだよ」
「そっか。じゃ俺が下に下りる。」
イヴァンは、即座に答えた。
「三時に待ち合わせだ。玄関でいいか? そこなら迷わず辿り着ける」
「う、うん。でも――いいの?」
「何がだよ?」
エデルは、口ごもって手元に視線を落としている。イヴァンは溜息をついて、スープの最後の一口を飲み込んで口元を拭った。
「なんか、ここに来てから妙なことばっかりだな。家が何やってるとか、階で別れてるとか。そんなもん本人とは何の関係もないだろ」
「……。」
「三時に待ってるからな」
重ねるように言って、エデルの返事を待たずに、空になった皿を重ねた盆を持って返却口へ向かう。
何だか妙な気分だった。
サーレ領では、周囲の誰も、彼を”伯爵家の跡取り”だなどと特別扱いはしなかった。親友のルナールとはお互い何も遠慮しなかったし、レオンも、口調だけは敬語だったがまるで実の兄のように気さくに接してきた。
館でだって、つまみ食いをすれば料理人のアデールに容赦なく尻をぶたれたし、馬から落ちれば村の子供たちに指差して笑われた。
それが当たり前だと思っていたのに、――ここでは違うのか。
それとも、今まで信じてきた「当たり前」が、本当は当たり前では無かったのか。
部屋に戻った頃、ちょうど、あの鐘が再び時間を告げた。午後の授業の始まりなのだろう。授業のある建物は、生徒たちの寄宿舎となっているこの建物とは別の場所にあるようだ。
することもなく、かといってめくらっぽうに歩き回っても迷うだけなので、彼は、面倒くさいと思いながらも最初に手渡された小冊子を開いた。
「校則第一条、わが校の生徒たるもの、常に紳士であることを心がけ…あーなんだこれ、面倒くせ。やめやめ」
一行目で挫折して、彼は代わりに、最初に受付で渡された校舎の見取り図を開いた。文字よりは、図を眺めていたほうがまだマシというものだ。
校内は、運動場を取り囲むように四つの建物から成っている。
玄関のあるのは職員室や事務室のある業務棟。寄宿棟。食堂と講堂。そして授業棟だ。食堂の脇にある小さな中庭には、花壇や
(意外と広いんだな…)
生徒は百二十人いるといっていた。サーレ伯の館に常勤している人数の三倍くらいだ。それなら、広いのも当然だろう。
寝台に腰かけて図を眺めているうちに、もう一度、鐘が鳴った。約束の時間だ。慌てて起き上がったイヴァンは、図をポケットに突っ込んで部屋を出た。
寄宿棟と業務棟は隣り合わせで、玄関までは、階段を下りるとすぐだった。
来たときに潜った玄関のドアを眺めながらしばらく待っていると、廊下の向こうから、ばたばたと走ってくる足音がする。見ると、本を抱えた赤毛の少年が、勢い良く玄関ホールに走りこんでくるところだった。
「お待たせ。ごめん、遅れちゃって」
かすかに息が上がっている。
「そんなに待ってないよ。走らなくても良かったのに」
「でも…待たせちゃ悪いと思って」
余計な気遣いだ。イヴァンは、ちょっと肩をすくめた。
「ゆっくり行こうぜ。それ、何の授業受けてたんだ?」
「あ…えっと、」エデルは小脇に抱えていた本に視線をやる。「…王国史だよ」
「歴史か。苦手だな…」
「得意な科目は?」
「特にない。ていうか、座学は苦手だ。やんなきゃなぁ、とは思ってるんだけど」
話しているうちに、最初は緊張していたエデルの表情が少しずつほぐれてくる。
「おれは数学が得意かな。商人の家なんだ。港で魚の卸売りをしてる」
「へえ、なのに騎士学校に?」
「うん…、家は兄さんが継ぐから。同じところで働くのも何だし、王都で仕事に就ければいいなと思ってこの学校へ来たんだ。ここを卒業すれば、推薦状も書いてもらえるし…在学中に就職先の目星をつけられたら良いなって…。」
何人かの少年たちが、廊下を足早に通り過ぎていく。夕食までは自由時間らしく、授業が終わったあとの学内は賑やかさに満ちている。
「ここが図書室。自習室もあるよ。消灯時間まで使える」
「俺にはあんま用事無さそうだな」
「じゃあ、運動場を見に行こうよ。剣術や馬術の練習も出来るよ。イヴァンは弓は使う?」
「いや。でも友達が狩りで使ってたから、使い方は知ってる」
「弓術の指導クラスもあるんだ。おれ、剣とかあんまり使えないんだけど、弓だけはカッコいいなぁって思ってて」
四方を建物な囲まれた運動場に出ると、ちょうど何人かの生徒たちが打ち合いをしているところだった。自主訓練、といったところらしい。あるいは運動代わりなのか。甲高い鋼の音とともに、はやしたてる賑やかな声が響いて来る。
「イヴァンも行ってきたら?」
「俺はいい。」
一瞥しただけで、イヴァンは興味をなくしてしまった。あまりにもへっぴり腰で、素人だとすぐに分かる。
「あいつらじゃ相手にしても面白くない。」
「ずいぶん自信があるんだな。…そういえば、剣を二本持ってるんだね」
「ああ。」
「騎士とか貴族の出の人たちは自前で武器を持ち込んでるけど、双剣使いは初めて見たかも」
エデルは、じっとイヴァンが腰に下げた剣を見ている。「使い込んでる感じだね」
「何年か前の誕生日に貰ったやつだけど、安物だぜ。つか、あっちの棟は? 食堂があったほうだよな」
「ああ、そうそう。食堂の上が講堂になってて…」
話しながら、二人は棟を横切っていく。
「さっき見取り図見てたとき、中庭ってのがあったんだが」
「食堂の裏だね。厩舎の隣。行ってみる?」
「おう」
「じゃあ、食堂の裏を通っていこう」
赤毛の少年が先に立って歩き出す。剣術に打ち興じる少年たちの歓声をあとに、イヴァンも続いた。
だが、そこには先客がいた。気づいたのは、相手が先だった。
「よう、漁師の息子じゃないか」
しまった、という顔をしてエデルが後退る。周囲を見回しながら歩いていたイヴァンは、気づくのが遅れてエデルの後ろに突っ込みそうになった。
「おっと。どうした?」
「何だ、新入りも一緒じゃん」
声がしたほうに顔を向けると、東屋にだらしなく足を伸ばして腰掛けている少年と、にやにやしながらその周りにたむろっている五、六人の少年たちの姿があった。さっき食堂で窓際のあたりにいた連中だ。
「案内してもらってたとこだ。中庭は先客がいるようだし、エデル、次行こうぜ」
「おい待てよ、ご挨拶だな」
引き返そうとするイヴァンの前に、一人が先回りする。妙な匂いが、ぷんと漂った。イヴァンは眉をしかめる。
「…酒、呑んでんのか」
「酒? どこにそんなもんあるんだよ、寝ぼけてんのか」
後ろから、小さな笑い声がさざ波のように聞こえてくる。東屋の机の下に瓶らしきものがちらりと見えたことに、イヴァンは気づいていた。どうやらここは、不良少年たちが隠れて酒を楽しむ隠れ家でもあるらしい。
「まさか先公どもに言いつけたりはしないだろうな」
「…めんどくせぇ。んなことしねぇよ、退いてくれ」
「本当かな?」
少年たちが次々とやって来て二人を取り囲む。
エデルは既に縮み上がって、真っ青な顔をしている。イヴァンは、目の前に立ちはだかる体格の良い年かさの少年を見上げた。腰に剣を下げている。他の少年たちも一緒だ。
「お前、どっから来た。名は?」
東屋で踏ん反り返っている少年が鷹揚にたずねる。
「人に名を尋ねるなら自分から名乗れよ。一応、それが礼儀ってやつだろ」
「こいつ、生意気だな」
「剣を持ってきたってことは、大方、地方騎士かなんかだろ」
「あの、すいません。イヴァンは――まだ何も知らないから――」
何故か、エデルが懸命に割って入る。
「謝んなくていいぞ、エデル」
「何だ? お前、漁師の息子なんか庇うのか?」
カチンと来たその瞬間、考えるより早く、イヴァンは思い切り目の前の少年の足を踏みつけた。
「ぐぁ!」
「おい、何をす…」
「言っとくが、」
振り返って、イヴァンは東屋で腰を浮かそうとしている肉付きのよい少年をにらみつけた。
「俺の連れを侮辱することは許さねえ。向かってくるなら、俺は相手が誰だろうと関係ない」
それだけ言うと、彼はエデルの肩に手をかけた。
「行くぞ」
「……。」
足早にその場を離れ、さっきの運動場まで戻って来たところで、イヴァンはエデルの肩にまわしていた手を外した。とたんに、エデルはその場にへなへなと崩れ落ちた。
「どうした」
「だって… あのマルティンに、あんな…。」
「怖くねぇだろあんなの」
「怖いよ! どんな仕返しされるか…」
エデルは涙目になっている。イヴァンは頭をかいて、遠くに視線を彷徨わせた。
「悪かったな、つい手ぇ出しちまって。…けど俺、ああいうの嫌いなんだ。もし、あいつらがお前になんかチョッカイ出すようだったら、俺があいつらにお仕置きしてやっから。心配すんな」
「……。」
だが、それからのエデルはほとんど口も利かず、早々に部屋に引き上げてしまった。イヴァンのほうも、校舎内の建物の大体の位置関係は分かったので良しとするしかなかった。
(あんな、群れなきゃ何も出来ないような連中が怖いなんて)
良く分からない。ここは、自分の知っていた世界とは、あらゆるものが違う。
画一的な制服を着せるかと思えば、部屋は階ごとに身分で別れているというし、貴族の家の子弟にも自分で食事の配膳をさせるのかと思えば、窓際の席は事実上の強いもの優先になっている。
――平等にしたいのか、それとも差異をつけたいのか…分からない。
寝台の上にごろりと仰向けになったまま、イヴァンは、日が暮れるまでずっと考え込んでいた。
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