第5話 道の選択

 館に戻ると、厩番のラスがすぐに駆け寄って来てベオルフの馬の手綱に手をかけた。

 「お帰りなさいませ。旦那様がお待ちですよ。探されていた記録が見つかったとか…」

 「おう、そうか」

馬を下りながら、男は、大したことでもないというような軽い口調で返す。

 「んじゃ、ちょっと行って来るかな。イヴァン殿、今日は楽しかった。」

 「ああ、…うん、役に立てたなら」

シーザたちもベオルフに続き、馬を預けて足早に去っていく。

 一人取り残されたイヴァンは、少し間を置いてから馬を降りると、鞍の後ろに括りつけていた荷を解いて、台所へ向かった。台所では丁度、客人も含めた夕食の準備の真っ最中だ。それでも、目ざとくアデーレが戸口に駆け寄ってくる。

 「どうでした、イヴァン様」

 「うん、いつもどおり美味かった」

軽くなった包みを手渡すと、アデーレは口元をほころばせた。

 「あらあら、ほとんど全部食べてくださったんですね。ありがとうございます。」

それから、そっと言い添える。

 「どうでした? 仲直りは出来ました?」

 「仲直りって?」

 「ほら昨日――お客様がたと、何かあったみたいですから」

イヴァンは、頬の辺りが熱くなるのを覚えた。確かに、館の使用人たちからすれば、イヴァンが客人たちに挑みかかって返り討ちにあい、気絶して担ぎ込まれたことしか知らないのだ。

 「あれは…ケンカとかじゃないし、ちょっとしちた稽古つけてもらったようなもんだから。あの人強いしさ、色々勉強になる」

 「そうなんですか。それなら良かったんです。ああ、今日の夕餉はイヴァン様のお好きな牛肉の煮込みですよ」

ちらりと台所の奥のほうに目をやると、切り出されたばかりの赤味の多い肉が、まな板の上にでんと置かれているのが見えた。辺りには、味付けに使う香辛料の良い香りが漂っている。

 「楽しみにしててくださいね。」

 「ああ、腹減らしとく」

料理人たちの忙しそうな姿を一瞥して、イヴァンは自室に引き上げることにした。

 好物が出ると聞いて、いつもなら夕食が待ち遠しく感じるはずだったが、今日は妙に気分が晴れない。


 原因は分かっていた。森で聞いた話のせいだ。

 部屋に戻る気になれず、イヴァンは訓練場へ向かった。気分が晴れないときは体を動かすに限るのだ。幸い、この時間なら誰もいない。

 彼は石敷きの一画に立つと、音を立てずに鞘から剣を抜いた。

 相手がいない時は、型の練習をするしかない。だが、素振りだけでも筋力の訓練にはなる。筋肉が動くと、体が熱を帯び、汗がじわりと湧き出してくる。

 上着を脱ぎ捨て、無心に体を動かしながら、イヴァンは、ベオルフに聞いたことを何度も繰り返し思い出していた。


 『十年前、何者かが王とその家族の暗殺を目論んだんだ。逃走した犯人を追跡していた同時期に”ユラニア事件”は起きた。』


 (…王の暗殺? クロン鉱石? 何百年も使われてないはずの、禁じられた兵器…?)

切っ先が音をたてて空を切り、見えない敵の喉元に突きつけられる。

 (何だよそれ。俺は全然何も知らない。今だって、蚊帳の外で…)

厩番は、父が何か資料を見つけたといっていた。当時の記録だろうか。今頃、どんな話をしているのだろう。

 (皆の仇をとってやりたいのに…俺には何も出来ない)

真夜中に真っ赤な炎が空を焼いていた、十年前のあの惨劇の夜のことは、今も脳裏に焼付いていた。館じゅうが大騒ぎで、類焼を防ぐために木を切り倒そうと、すぐさま動ける大人の男たちは全員、斧を手に森へと走った。

 まだ手伝いに行ける年ではなかったイヴァンが館の中から見ていたのは、生き残った村人たちがなだめすかされながら館へと避難させられてきたところだった。その中に、顔を煤で真っ黒にして泣きじゃくるルナールの姿もあった。


 あの時、思ったのだ。自分は何と無力なのだろう、と。

 何も出来ない自分が悔しかった。だから、強くなりたかった――


 「お相手しましょうか?」

振り返ると、レオンが立っていた。困ったような顔で微笑んでいる。

 「昨夜、お客人に言われたこと、気にされてたんですか?」

 「そうじゃねぇよ。昼の弁当が多かったから、晩飯までに腹減らしときたかっただけ」

だが、きっとレオンにはそんな誤魔化しは通用しないだろう。幼い頃から館の中で、本当の兄のように接して来たのだ。お互いの表情を見ただけで、なんとなく考えていることが判る。

 流れ落ちてくる汗を拭うと、イヴァンは訓練場の真ん中まで戻って、レオンが、羽織っている短いマントを外すのを待っていた。

 週に二回の剣術訓練は、大抵レオンを相手にしている。剣術の手ほどきの大半も、レオンが教師役だった。

 父は忙しく、おまけに、十年前の事件いらい、剣を手にすることも無くなっていた。だがレオンは、従者見習いとして館にやって来た時に館の主人から直々に剣術を学んでいて、いわばイヴァンの兄弟子のような存在でもあるのだった。

 お互いの力量は知り尽くしている。手加減を考える必要もない。剣を合わせると、どこかほっとしさえする。

 「いかがでしたか、今日の遠乗りは」

 「別段何も。」

剣を打ち合わせながら、イヴァンは、ちらりと執務室のあるほうに視線をやった。

 「親父は、お客人たちと何を話してるんだろうな」

 「十年前の資料をお探しでしたから、その話でしょう」

イヴァンは思わず手を止めて、まじまじとレオンを見た。

 「…あいつらが来た目的、知ってたのか?」

 「あいつら?」

ぴくりとレオンの眉が跳ね上がる。

 「あーいや、…あの方たち。」

イヴァンが慌てて言い直すと、レオンは、小さく首を振った。お作法や口調がなっていないのは、今更なのだ。そう簡単に直るとも思っていない。

 「私は旦那様の副官ですからね。書庫での資料探しも手伝っていました。イヴァン様には言うなと厳命されていたのですが…」

 「ベオルフが話してくれたよ。ていうか、ずるいぞ。俺だけ何も知らなかったなんて」

イヴァンが剣を振るい、レオンの右手の剣と打ち合わされてキィンと甲高い音を立てる。

 「巻き込みたくない、とお考えだったんです。それに貴方のことだ、あの事件の調査がまだ続いていると知ったら、どんなふうに首を突っ込むか分からないから…と。」

 「いつまでも子供扱いだな」

一歩踏み込むと、レオンは一歩下がる。むっとして、イヴァンは思わず言った。

 「真剣にやれよ」

 「これでも、真剣にやっているんですよ。」

溜息をついて、レオンは答える。

 「強くなられました。もう、この館では、あなたの相手をまともに出来る者は旦那様くらいですよ。」

 「そんなの言い訳じゃないか。こんなんじゃ駄目だ、全然足りない。俺はもっと、強くならなくちゃいけないのに――」

でも、強くなったところで、誰にその刃を向けていいのかも分からない。

 「……。」

ふいに、生まれ育った館が、訓練場の上に広がる空が、やけに狭く感じられた。

 棟の向こうの空に、白く一筋の煙がたなびいている。台所のほうだ。夕餉の支度をする竈の煙だろう。


 息を整えながら、イヴァンは、剣を元通り鞘に収めた。

 「今日は、ここまでだ」

急に空しくなった。気づいてしまったのだ。この館にいても、何も知ることは出来ないし、何も変わらないのだと。

 (ただ待ってるだけじゃ駄目だ。多分、俺は…)

汗を拭いながら着替えを取りに塔の自室へ向かおうと廊下に出たところで、彼は、ばったりとベオルフたち一行に出くわした。館の主、クラヴィスも一緒だ。

 「何だ、鍛錬してたのか。丁度、夕餉の支度が出来たと呼びに行かせるところだったのだが――」

言いかける父の言葉を遮るようにして、イヴァンは、ベオルフの前に立った。

 「俺も、あんたたちのやってるのと同じような調査がしたい。どうすればいい?」

唐突な言葉に、一同はぽかんとなる。

 「イヴァン、何を急に」

だが、ベオルフだけはすぐに意を理解して、面白そうな顔になった。

 「王宮に仕えるつもりか? 騎士か役人か、…道は色々あるが」

あごに手を当てて、剃り残した無精ひげのようなものを指でこする。

 「王都に寄宿舎つきの騎士学校がある。同じくらいの年頃の連中が国中から集まってるし、騎士にならなくても学べることは沢山あるぞ。まずは、そこから始めてみたらどうだ」

 「ベ、ベオルフ殿。一体、何を…」

困惑した顔のクラヴィスを振り返ると、ベオルフは片目をつぶってみせた。

 「貴殿が昔、学ばれた場所でもある。いかがです? ご子息に広い世界を見せてみては。」

 「……。」

館の主は、むっつりとした顔で腕を腰の後ろに組みなおした。

 「検討しておきます。それはともかく、晩餐のほうに向かいましょう。イヴァン、その格好では食卓につけないだろう。着替えて食堂へ来なさい。」

去ってゆく父たちの後姿を見送りながら、その時にはもう、イヴァンの心は決まっていた。


 ここに居ても何も変わらないのなら――王都へ行こう、と。




 翌朝、ベオルフたちはやって来た時と同じ大柄な軍馬に乗って、日の出と同時に人目を避けるようにして館を去って行った。

 父を説得したイヴァンが王都へ向けて館を発つのは、それから一ヶ月ほどした頃のことである。

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