黄金の大地 第二巻/騎士たちの黄昏
獅子堂まあと
第1話 サーレ辺境伯領、春
窓から差し込む日差しは明るく穏やかで、鳥たちの声が朗らかに響く。
「…この国、アストゥールが建国されたのは、今から約七百年ほど前です。王国の中心部は大陸随一の穀倉地帯であり、豊かに小麦の実る一面の畑の色から、”黄金の大地”と形容されて来ました。…」
教師の単調な朗読の声と暖かな日差しが、否応なく眠気を誘う。イヴァンは、うつらうつらしながら既に半分は夢の中で話を聞いていた。歴史の授業は、とにかく苦手なもののうちの一つだ。もっとも、座学で苦手でないものなど一つもないのだが。
「王都リーデンハイゼルは、初代王イェルムンレクの息子、ロランの時代に建造が開始されました。現在では丘の上と下の二つの町に別れる、この国で最大の都市で…イヴァン様!」
「ふぇ」
突然名を呼ばれ、頬杖をついていた少年は、がくりと大きく傾きながら目を開けた。口元に涎が落ちかかっている。小さく笑う声、苦笑している周囲の同年代の子供たち。イヴァンは、大急ぎで口元を拭って背筋を正した。
「はあ…。まったく」
「すいません」
返事だけは立派なものだ。ため息をつき、教師は、手にした教本に視線を戻した。
「続けますよ。…アストゥールの歴史の中での大きな転換期は、建国から五百年後に起きた”白銀戦争”と”東方貴族の乱”です。白銀戦争とは、建国当時に分裂していた二系統の王家による争いで…」
イヴァンは、懸命に眠気と戦いながら、目の前の帳面に何かを書きつけようとする。けれど耳から入ってきた言葉は全て、窓の外の長閑な春の光景に吸い込まれて消えてしまう。
ここは、サーレ領主の館の端にある小さな私設学校だ。使用人の子どもたちや、近くの村の子どもたちが集められ、授業を受けている。その中に、領主自身の息子も混じって教育を受けている。
――というより、この学校自体が元々は、息子のために雇った家庭教師を、「専任にするには勿体ない」と考えた領主によって作られたのだ。
領主の息子であるイヴァンだけは、授業のある日は出席が必須。それ以外の子供たちは、興味がある授業の日や、時間のある時に自由に受けに来てよい、と言われている。もちろん学費も無料で、ために、少し遠くからも沢山の子供たちが通ってくる。お陰で授業は毎日、盛況だ。
問題は、本来の養育対象自身が、一番、やる気がない、というところで。
午前中いっぱいの授業は、見張り台からのお昼の時間を告げる鐘の音をもって終了する。台所からは昼餉のいい匂いが漂い始める頃あいだ。
「明日は算数です。それでは皆さん、お気をつけて」
「ありがとうございましたー」
子供たちが、元気に席を立つ。歴史の話は年下の子供たちでも判るし、人気の授業だから人が多い。
「さよなら、先生」
「イヴァン様も」
「あー、うん」
いちばん後ろの席にいたイヴァンは、立ち上がって大きく伸びをしながら大きなあくびをひとつ。
「ふぁあ…。」
「イヴァン様。こちら、来週までの宿題です」
苦笑しながら近づいてきた教師が、机の上にどさりと紙の束を置く。
「ちょ、こんなに?! 本気かよ」
「当たり前です。今やっているところは大事な部分ですので! 次期領主ともあろう方が、まさか自国の歴史を知らないまま成人されるおつもりですか?」
「う、…」
「もう何度もやって簡単なところのはずですから、直ぐに終わります。…覚えていれば、ですが。…来週までですよ、よろしいですね?」
いささかの慈悲もない口ぶりで、けれど笑みを含んだような表情で言い、教師は、有無を言う暇も与えず足早に立ち去って行く。
イヴァンは深い溜息とともに紙の束を取り上げ、とぼとぼと、もう誰も居なくなった教室を後にした。
とはいえ、憂鬱な気分も春の日差しの中ではそう長くは続かない。厨房のほうからは良い香りが漂ってくるし、鳥たちは陽気に歌い続けている。塀の向こうの牧草地からはかぐわしい草の匂いと、牛ののんびりした声。
(メシ食ったら、ちょいと遠乗りでも行ってみるか)
さっきまでの気分はどこへやら、彼は早くも浮き浮きとした気持ちで午後の自由時間のことを考えはじめていた。言いつけられた宿題がまだ一枚も終わっていないことなど、思い出すべくもない。
軽い足取りで塔の上の自室に戻り、机の端の真っ白な宿題の山にひと束、積み重ねたら、再び階段を駆け下りて食堂へ。父はいつも、昼は仕事部屋でとっている。この時間の食堂は、彼一人のものだ
「腹減ったな、今日の昼メシ何?」
「春野菜のシチューですよ」
昼食の準備をしていた料理番のアデールが、笑顔で答える。
「おっ、いいな。美味そう。」
「たっぷりありますからね。沢山食べてください」
「いただきまーす」
使用人たちとは、全員、顔見知りだ。特にたっぷりした肉付きのよいアデールは、イヴァンの幼い頃からこの館で働いている古参の一人。何でも好き嫌いなく良く食べるイヴァンは、厨房で働く使用人たちには特に受けが良い。
「そういえば、レオン様が、遊びに行く前に宿題を進めるようにと仰ってましたよ。」
「えー? 面倒だな…見つからないうちに逃げるか」
パンをちぎってスープをかき寄せ、大皿いっぱいの料理をぺろりと平らげてしまうと、彼は、ナプキンの端で口元を拭ってさっさと立ち上がった。
「ごちそうさま! 今日も美味しかった。それじゃ」
「はい。行ってらっしゃいませ」
アデールのほうも、イヴァンが宿題を放置して逃げようとしているのを分かっていながら、黙認して見送っている。
領主の副官であり、イヴァンの教育係の一人でもあるレオンの意向は、一応は伝えたのだ。そのレオンをもってしてもなかなか言うことを聞かせられない元気いっぱいの少年を引き留められる者など、この館には、彼の父である領主自身くらいしかいないことは、誰もがよく知っている。
時刻はまだ、昼下がり。よく晴れた春の青空の下、イヴァンは馬を引き出して館を出た。
緑の梢越しに射して来る光は時おり視界を白く変え、規則正しい馬の蹄音に交って鳥たちの賑やかな
どう見てもその辺の農家の息子あたりにしか見えない、気さくすぎる格好だ。この辺りの領民たちに彼を知らない者はいないが、他所から来た人からは、どう見ても領主家の一人息子には見えないだろう。それが許されるほどのおおらかさが、この土地にはある。
こう見えて、彼が相続すべきサーレ辺境伯領は、西方では一、二を争う広大な面積を誇る。
ただし、その土地は、アストゥール王国のの西の果て、国境と接する場所にある。
中央からは遥かに遠く、かつては国境防衛のための要塞が幾つかあった程度の、まさに「辺境」だった。深い森を切り拓いて開拓されたのはここ百年ほどのこと。今でも、人間の数より牛や馬の数のほうが多い、と他の領地から揶揄される。
サーレ家が、王国から貴族に与えられる称号の中でも位の高い「伯爵」を持っているのは、その穴埋めのようなものでもあるのだ。
国境に近い重要な拠点でありながら実体はただの田舎、という嘲りを跳ね返すための肩書き。辺境伯の称号は、王国の北を除く東と南の最果ての領地を持つ家にだけ与えられている。
もっとも、この辺境に暮らす限りは、肩書のもつ重みなど、知る由もない。今のところイヴァンにとって、次期領主に収まる日は、まだ、はるか未来のことなのだった。
森の入り口まで馬を走らせて来たイヴァンは、ふと、切り拓かれた場所の入り口の木に、馬が一頭つながれているのに気づいた。その奥の、明るく広々とした草地の中に、赤みを帯びた髪の毛をもつ頭が見え隠れしている。
誰がいるのかに気づいて、彼は少し嬉しくなった。
「ルナール!」
彼は馬上から呼び、呼ぶと同時に身軽に鞍から地面へ飛び降りた。草地の中から、もう一人の少年がひょいと顔を出す。陽射しに照らされて、汗ににじむ頬のそばかすが見えた。
幼馴染で、同年代のルナールだ。
イヴァンの姿を見て、少年は、かすかに眉を寄せる。
「イヴァン、今日は一日、宿題を片付けているはずじゃあ…」
「誰に聞いた? レオンか」
笑いながら、イヴァンと呼ばれた少年は馬の手綱を引いてもう一人の少年に近づいていく。二人の間には半ば草に埋もれた腰の高さほどの石積みがあり、よく見るとそれは、草地全体を取り囲むようにして作られていた。
「そうだよ。また逃げ出して来たんだね」
呆れたような、しかしもう慣れっこになっているといった風な顔で、そばかすの少年は苦笑している。並んで立つと背はルナールのほうが僅かに高い。だが、ひょろりとして細身で、体格としては、イヴァンのほうががっちりして見えた。
そばかすの残る少年は、賢しそうな緑の目を、今までしゃがみこんでいた草地のほうに向けた。イヴァンも同じ方向に視線を向ける。
草地の間には、地面に積み上げられた石の山と、そこに立てられた木の柱が並ぶ。墓所――なのだ。かつて森の中にあった村の、住民たち。
「ここも、ちょっと見ないうちに、すっかり草に埋もれちまったな」
「春だからね。」
二人の周囲には、膝まであるほどの草が生い茂り、合間に白く丸い花が咲いている。小さな花弁が手毬のように集まった真っ白な花は、この辺りの地方では春になると一斉に咲き誇る風物詩だ。さっきまでルナールのいた辺りには、彼が刈り取ったらしい草の山がこんもりと築かれていた。
イヴァンは、花に取り囲まれるようにして並ぶ石積みの群れと、そこに突き立てられた物言わぬ古びた木の墓標たちを、一つ一つ視線で辿った。
「あれから、もう十年にもなるな」
「…ああ」
ルナールの瞳に一瞬、哀愁の色が過ぎった。
墓所のあった場所のすぐ側には、かつて、小さな村があった。
だが十年前、風の強い冬の夜に突然起きた爆発的な火災によって、森の奥にあった領主の別邸もろとも焼き尽くされてしまった。火の回りが早く、逃げ遅れた村人も多数。そして、――犠牲者の中にはルナールの両親もいた。
”ユラニアの森事件”。
のちにそう呼ばれるようになった事件の犯人は、結局捕まらないままだった。何が起きたのか、真相も定かではない。普段は平和で、事件らしい事件も起きない辺境で起きた惨劇は、今もこの辺りの住人の記憶の中に深い影を落としている。
この辺りでは、ほとんどの家が農家と酪農家の兼業で生計を立てている。季節は春の盛り、毎年この季節になると冬を越した牛や羊たちは厩舎の外に追い出され、広々とした牧草地で腹いっぱい草を食む。
けれど、牧草地の端に残るこの森の辺りだけは、家畜の声も響かず静かなままだ。
このユラニアの森には、滅多に人がやって来ない。いや、…来たがらない、と言うべきか。
既に終わったものとされていたその事件が、実はまだ続いていたことを彼が知るのは、まだ、先のことである。
「あ、そうだ。」
「ん?」
「せっかくだし、久々に――どうだ?」
イヴァンがにやりと笑って腰のベルトに下げた鞘を叩いて見せると、ルナールはわざとらしく大げさなため息をついた。
「いつもの?」
「ああ。」
「旦那様に叱られるぞ」
「親父は怒鳴ってないと死ぬ病なんだ、慣れてるよ。どうする? やるのか?」
「やるよ。朝からここの手入れをしてて、ちょうどうんざりしてきてたとこだからさ」
そう言って、ルナールは土に汚れた両手を払った。それは、暗く沈みかけた気分を無理やり、楽しいほうへ引き上げるようでもあった。
「行こう」
先程まで曇っていた瞳に、明るい色が宿っている。
二人は、それぞれの馬に乗って、森の更に奥へと向かって競い合うようにして走り始めた。墓地から奥へ続く道沿いに木はまばらで、所々に焼け焦げたような跡があり、ひょろりとした若木が雑草の間に育ちつつある。馬の行く小道は今は通る者もほとんどおらず、落ち葉に埋もれてほとんど消えかかっている。
ここから先は、森に慣れた者たちだけが知る空間だ。イヴァンやルナールのような、近くに住み、子供の頃からこの地に慣れ親しんだ者たちの独断場。深い緑の中に賑やかに笑う少年たちの声が弾けて、木漏れ日とともにキラキラと消えて行った。
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