不良娘も姉である

はるより

本文

 虫も花も寝静まった後の、ぼんやりと霞んだ三日月が浮かぶ夜。

 紡は、自室の行燈を灯し、物書き机に向かって筆を取っていた。


「……」


 と言っても、その筆先が軽快に紙上を走っているかというと、そういう様子でもない。

 時折何かを思いついたように二言、三言と文字を書き連ねては、むず痒そうな表情を浮かべ、紙をぐしゃぐしゃに丸めて背後に投げ捨ててしまう。

 そして新しい紙を手元に敷き直すと、小さくため息を吐いて、顔にかかる少し長めの髪を鬱陶しそうに掻き上げるのである。


「おやまぁ、こんなに部屋を散らかして。ぼっちゃまったら何をおか気になられてるのやら〜?」

「はっ!?」


 いつの間にか、空いた襖の前に人が佇んでいた。

 その影と声は紛ごう事なく、紡の一つ上の姉、繭子まゆこのものである。


「繭子姉さん!部屋に入るときはあれほど声をかけて下さいと……」

「かけたけど、あんたが聞いてなかっただけでしょうが」


 繭子はくりくりと巻いた柔らかな癖毛を右手でいじりながら、我が物顔で部屋に踏み入った。

 そして足元に落ちていた丸まった紙を拾い上げる。


「それで、そんな紡坊っちゃまが声も聞こえぬほどに熱中していたのがこちらですか、と……」

「ま、待て!それは……」


 紡が必死の形相で制止するのも虚しく、繭子はカサカサと乾いた音を立ててしわくちゃのそれを開いてしまう。

 数秒間の無音の時が流れた後、繭子の口元がさぞ愉快そうに歪んで開かれた。


「あっははは!あんた、これもしかして恋文のつもりかい!?」

「ぐぅぅ……!人のものを勝手に見るなんて、無礼だろう……!」


 紡は顔を真っ赤にしながら、ぷるぷると握った拳を振るわせる。

 繭子はひとしきり笑い転げた後、はあはあと肩で息をしながら涙ぐんだ目元を指先で拭った。


「相手はどこの子なのよ?ん?姉さんが話を聞いてあげようじゃないか。それか、代筆でもしてあげようか?あたしそういうの得意で、この間も街の……」

「う、うるさい!放っておいてくれ、そしてさっさと忘れてくれ!」


 紡は乱暴に繭子のてから手紙を取り返すと、それを懐に入れて隠す。

 まだ畳の上には十では足りない数の紙玉が転がっているのだから、一つ隠したところで如何ともならないであろうが。


「繭子姉さんには関係ない話だろう、分かったら早く出て行ってください!」

「ふぅん、そうかい。なら仕方ないね……母さーん!紡がー!」

「わああ!?やめろ!!」


 繭子は意地が悪そうに笑った後、廊下の奥へと呼びかけようとする。

 紡は慌てて繭子を部屋の中に押し戻すと、ピシャリと襖を閉めた。


「出て行けと言ったり、部屋に入れたり忙しいことで」

「頼む、母さまにだけには……」


 紡は、今にも土下座をしかねない様子で繭子にそう訴えかけた。

 繭子も彼のその様子に、面食らったように静かになる。


「わかったよ。……でも、宛先はそんなに不味い相手なの?」


 繭子は少し紡のことが心配になり、そんな風に尋ねた。

 この堅物すぎる弟は、女慣れしていないことは一目瞭然である。

 だからこそ、もしやどこぞの商売女にでも引っかかったのでは?とあらぬ事を考えていた。


「……桜花神社の巫女だ」


 返ってきたのは商売女とは対極の答え。

 とはいえ、繭子はその言葉に顔を顰める。


「それは、確かに不味いかもね」


 紡と繭子の母親と桜花神社の間に、何らかの確執があるのは二人の目からも明確であった。

 彼らの母であるはなだは、父や紡が桜花神社へ赴く姿を見ると、明らかな苛立ちの表情を浮かべていたからである。


 両親である、朝夕綴あけくれ つづる朝夕縹あけくれ はなだ

 二人は見合い結婚であるという体だが、実質的な許嫁の関係であった。

 朝夕家に輿入れするのは公家の娘でなければならない……そのような決まり事は誰が決めたのか。

 宮廷仕えの一族……『海鳴家うみなりけ』の長女であった縹は、十六の時に朝夕家に嫁ぐこととなった。

 凛とした美しさを持ち、聡明な女性であった縹は、武家に迎える妻としては理想的に思われた。

 対して綴は気優しい男であり、家柄に倣って帝国軍へ身を置いていたが……刀を握るのは少々不得手であった。

 幸いにも切れものであったことと、少年時代に読み漁った書物から得た知識を買われ、軍の参謀役として桜の御所に置かれることとなる。

 軍の上層部に位置する男と、それを支える良家の娘。

 肩書きだけを見ると、これ以上にない夫婦の理想系のようにも思われる。


 ……しかし彼らの関係がそれだけには留まらない事を、繭子はうっすらと感じ取っていた。


「母さまは、俺のことを不出来な息子だと思っているのだろうな。」


 ぽつり、と紡はそんなふうに呟いた。


「どうしてそう思うのさ?」

「だって、俺は……母さまの嫌がることをずっと続けているんだ。父さんが死んで、一番辛いはずの母さまを放ったらかして、俺は……。」


 母さまは、俺のことを嫌ってしまっただろうか。

 繭子は、そんなことを言う弟の顔を見た。

 眉根を寄せて、ぐっと口角を下げている。

 長い間姉と弟をやっているからわかるのだが、これは彼が泣きそうになっているのを必死で堪えている時の顔だ。


「紡。実はあたしと澪姉さんは拾われっ子だから、あんたとは血が繋がっていないんだ」

「……えっ?」

「だから……あたしがあんたを、男にしてやろうか?」

「はぁ!?」


 繭子がわざと艶のある声でそう囁きかけてやると、紡は今まで涙を堪えていたのも忘れて背後に大きく飛び退く。見事な跳躍、それはまるで兎の子のようだった。

 それから襖に手をかけ、いつでも逃げ出せる体制を取ると、繭子の方を見た。


「な、な、急に、何を!?」

「あはは!真っ赤になって馬鹿じゃないの、誰が尻の青い子供の相手なんかするのさ!」

「はぁぁ!?」


 繭子の言葉に、紡は今度は揶揄われた怒りで顔を赤くする。

 姉はと言うとそんな弟の姿を見て、実に可愛らしいと思っていた。


「いやー笑った笑った……でも、紡。姉さんらが拾われた子供っていうのは本当さ」

「……信用ならない」

「許しておくれって、ね?」


 繭子が両手を合わせ、小首を傾げて見せると、紡も怒っているのが馬鹿らしくなってきたのか、ため息を吐いて襖から身を離す。


「あんた、自分のことを不出来だって思ってるの?」

「……うん」

「なら、その頭はがらんどうってことね」

「人が真剣に悩んでいるというのに……」

「だって、澪姉みおねえさんは男を追って家を出ちまったし、あたしはこの歳まで嫁入りもせずにぶらぶらしてんだよ?ちゃんと学舎に通って稽古も続けてるあんたは、あたしらとは大違い」


 繭子は、まだ自分よりも背が低いが……昔に比べると随分と大きくなった弟の頭に手のひらを乗せて、ゆっくりと髪を梳くようにして撫でる。

 紡も小恥ずかしい心持ちではあったが……それに対して悪い気はせず、されるがままになっていた。


「そんなめちゃくちゃな血縁のない姉二人がいて……あんたは自分が腹を痛めて産んだ可愛い息子。そんな息子を、どうやっても嫌えるもんか」

「……そういうものかな」

「そういうものよ。姉さんは同じ女だからわかる」


 繭子の手が髪を撫で、そのまま輪郭を伝い、紡の頬を包んだ。

 ほんの数年前までまん丸で小さくて、竹刀で打たれているのを見ると可哀想で仕方なくて、目の前に飛び出して守ってやりたくなるような幼児だったのに。

 今そんな彼が、一丁前に恋をしたり……誰かのために心を痛められるような一人の人間に育っているのを見て、繭子は嬉しいような、何処となく寂しいような気持ちになった。


「紡、あんたいいかおになったね」


 繭子がそう言って笑うと、紡は恥ずかしそうに視線を外し、そんなことない、と首を横に振った。


「ともかく。あんたは変に大人の心配なんかせずに、自分のためにその頭を使いな。あたしにできる手伝いなら、何だってしたげるから、ね?」

「繭子姉さん……」


 紡は続ける言葉をあれやこれやと探していたが……結局、ありがとう、とその一言だけを返す。

 繭子は、小さく頷いてそれに応えた。


「というわけで、繭子姉さんのお悩み相談室は以上で閉幕。お代は、恋文に夢中になってる弟の夜食から頂きますので悪しからず〜?」

「な……そんなの聞いてない!というか、もしかしてそれを目的にここに来たのか!?」

「おーほほほ!無断で食われないだけマシだと思いな!ちなみに今日の献立は鰹の漬け茶漬けさ!」

「漬け鰹!?絶対渡さないからな!」


 再びいつもの意地の悪い笑みを浮かべた繭子は、一足先に弟の部屋を出て廊下を跳ねるように走ってゆく。

 紡も夜食の内容を知り、それは聞き捨てならぬと、躍起になってその後を追っていった。

 月明かりの照らす廊下を賑やかな話し声と、ドタバタとした足音が駆け抜けていく。


「繭子さん、紡さん!静かにおなさい!何時だと思っているのですか!」


 台所に続く部屋の途中で、寝巻き姿の縹が襖を開けてそう嗜めていたが……残念ながら、二人はその頃には廊下の奥へと消えた後であった。

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