秘密

和泉茉樹

秘密

      ◆


 この日記を書こうと思ったのは、ジョージ・オーウェルの影響である。

 しかしジョージ・オーウェルを読もうと思ったきっかけは、見知らぬ誰かである。書店にいた、すでに名前も忘れてしまった、すれ違った女性が、「一九八四年」を愛読書にあげていたのだ。

 私はそれを、言葉を交わすことなく、視線を交わすことなく、その背中から読み取ることができた。

 この日記を読んでいるあなたは、おそらく遠い未来にいるか、今のこの世の中の、裏側にいるのだろう。そして私はこの日記を読まれたことにより、おそらく危機の真っ只中にいることだろう。日記などという秘密を暴かれているのだから。

 話を戻す。

 私たちが生きている世界は、情報開示が基幹となった、公開主義社会、である。

 例えば私は、道を行く男性が、なんという名で、何歳で、どこで働き、家族構成や学歴、職歴、所持している資格まで一目で知ることができる。

 私たちは視覚拡張素子を眼球に内蔵し、見るもの全てがから全く自然にありとあらゆる情報へアクセスできるのである。

 これは人に限らない。私たちは食料品を見るだけで、その質を見抜ける。生産地、生産者、輸送状態などなど、どこまでも掘り下げられる。衣服なども、工場やそれ以前の合成繊維メーカーの原材料の調達先まで暴くことができる。

 しかしこれは自由ではなく、また開放でもなく、ある種の呪縛であるように私には思える。

 私は今日、街で元殺人犯とすれ違った。

 人の良さそうな外見をしていたが、彼にまとわりつく彼に関する情報には、確かに「殺人罪で禁固刑の後に釈放」という文字があった。もし私が興味を持てば、彼が誰を殺したのか、その手法はいかなるものだったか、そこまで見ることができたのだ。

 周りにいる人々は、彼に怯えたところはなかったし、私も彼も周りにいるものの態度も平然と無視できた。

 この社会において、最も危険なのは情報を隠匿するものである。

 情報を開示できるのは、胸を張れる一般的な人間に必須な要素である。

 道行く人々は、様々な情報を開示している。犯罪の加害者、被害者のなんと多いことか。加害者は情報を開示することで容認されるが、それはいかにもおかしい気もする。しかしこの社会では、情報を開示している以上、周りにいるべき人間がそれぞれ主体的に、自身の、または他者の、情報に基づいで、取るべき態度を決めることが求められる。

 そのため、私たちは、犯罪者とすれ違っても、この人は元犯罪者なんだ、という一点において、安心している。本当に怖いのは、元犯罪者でありながら、それを秘している人物なのだ。何を考えているか、読み取れないがために、脅威である。

 もちろん、用心深い人は元犯罪者が情報を開示していても、その個人情報をさらに深く閲覧し、膨大な情報の中に、刃物の購入履歴があるとかないとか、そういうことを探り出すことをするだろうが、大半の人はそんなことはしない。

 元犯罪者だと判明している時点で、その元犯罪者は、罰以上の罰を受けているとも言える気が、私にはする。

 誰もその人物を一般人とは見ない。一般的な元犯罪者、と見るだけである。誰も彼や彼女を恐れず、また嫌悪せず、ただ受け入れる。それは元犯罪者が背負うある種の十字架が、誰にも理解されないということではないだろうか。本質的に理解されていない。

 公開主義社会というものは、人間のプライベートを奪ったが、同時にそれは大いなる統一を生み出した。

 公開主義社会においては、隣人を疑うものは一人もいない。

 まさに、全ての情報が公開されているのなら、隣人を疑うことはなく、心の底から信用できるのである。

 あなたは他人の全てを覗けるとして、覗いたとして、そこに何を見るだろう。

 人間の善良さを、そこに見いだすかもしれない。

 だが、そもそも私たちは善良さを信用するようにはできていない。常に疑うのだ。

 その疑いを持つという原則を、公開主義社会は駆逐した。

 他人を疑おうと思ったら、その目で相手を見れば良い。それだけのことで、たちどころにして相手の全てを知ることができる。

 見えるのは人間の善良さではなく、むしろ凡庸さであり、自身の疑念の虚しさであり、自分に対する嫌悪感が後には残るだけだ。

 不可思議な逆転現象である。

 私たちはこれまでに歴史において、常に、情報の開示を求めてきた。政治家の、実業家の、公務員の、不正を暴いてきたのは、常に情報であり、その情報は様々な経緯を経て、秘されていたものが公開されて、初めて世に認識される。

 しかし私たちは今、全ての情報が公開されていることで、不正に対して、驚きもなく、執着もなく、素っ気ないほどである。

 過去において、情報を暴くことは、ある種の英雄的行いだったようだが、現代においては、情報を暴くことに積極的になる場面は少ない。

 大半の情報は、既に公開され、何の手続きも申請の段階も必要なく、むしろ相手の方から目の前にすすんで差し出されるのだ。

 あなたには理解できるだろうか。

 私たちは全能ではないが、全知になろうといている。

 大きなものを犠牲にして。

 私たちは、何もかもを表明し、そうしなけば生きてはいけない。

 これほどの不自由がどこにあろうか。しかし私たちは、この激流に逆らう術を持たない。

 一度でも、他人の全てを知ってしまえば、二度と知らないではいられない。

 もし私が、何らかの理由で周りにいる人間の情報を参照できなくなったとしたら、外出などままならないだろう。

 もし、隣にいる人物が元犯罪者だったら? 最近、ナイフを買っていたら?

 隣を行く人物の素性を、いつの間にか私たちは簡単に知れるようになった。それが当たり前になった。

 この社会の安全とは、純度の高い情報共有によって成立し、情報を共有しないもの、できないものは、生きていく場を持たない。

 私がこの日記を記すのは、この社会の実際を記録するためであると同時に、私しか知らないこと、あるいは決して誰にも露見しないことを、ここに記しておくためである。

 公開主義社会において、秘密を持つものは大勢いるだろうが、過去の社会と比べれば、その秘密の領域は極端に狭い。そして下手な秘密を持つことは、破滅にさえつながり得る。まさしく、ジョージ・オーウェルの世界のように。

 私は今日、一本のペンを拾った。

 情報が開示されているので、持ち主はわかっている。その持ち主の住所も。

 私がいきなり、訪ねていっても構いはしないだろう。私は全ての情報を開示した人間であり、疑われる対象ではない。

 胸を張ってそうと私は言える。


      ◆


 ペンの持ち主は、カヲリと名乗った。

 しかし私は彼女の名前が違うことを知っている。

 この混乱は、並大抵のことではない。私は明らかに狼狽えただろう。

 それを見た彼女は「ニックネーム」と笑ったのだった。果たして、私は笑えただろうか。

 最初こそ衝撃的だったが、カヲリは私を部屋に入れ、お茶を出してくれた。

「大切なペンだったの。お父さんの遺品でね。形見分けという奴」

 彼女は私が知っていることを、確認するようにそういった。

 ペンに付随する情報で、私は彼女が語ることを全て知っていた。彼女のお父さんの名前も、亡くなった年も、死因も、死去した施設も、全てわかるのだ。

 私は頷いて見せ、出されたお茶を口に運んだ。

 不思議だったのは、そのティーカップのお茶には情報が付随していないことだ。

「自分で育ててみているのよ」

 私の疑問に答えるように、彼女は部屋の奥へ視線を向けた。

 ベランダは鬱蒼とした緑に覆われている。私の視線を受けても、その樹木は私に何の情報も示そうとしない。これはよくあることで、道に生えている雑草に情報が付随しないのに似ている。しかしそれにしては立派な茂みだった。

 その茂みを構築する木の一本くらいはどこかで買っても良さそうなものだが、彼女が一から育てたのだろうか。現代では販売されるものには必ず情報がつきまとう。

 水は? と思わず私が確認すると、自然水、と彼女が笑った。

 自然水、というのは、雨水などのことで、浄水所を通さないので衛生面に不安はあるが、一方で自然食を求める人には人気は高い。また同時に、無情報素材、という自ら栽培した野菜などの一部として自然水は位置付けられてもいる。

 彼女の情報はたった今、私の前に開陳されている。

 そのどこを見ても、彼女が無情報主義者には見えなかった。もちろん、自然食主義者でもない。

「趣味みたいなもの」

 私の視線で情報を読み取っているのを察したらしい彼女は、そう言って微笑んだ。穏やかで、魅力的だった。

 その日はお茶をもらっただけで、私は辞去したが、玄関まで見送りに来た彼女は、「よかったら近いうちに食事でも」と誘ってくれた。その場で彼女の行きつけのレストランの情報がいくつも表示された。情報が私に転送され、私は頷いてみせた。連絡先の交換はすでに済んでいた。

 これが私と彼女の出会いなのだが、しかしまだ彼女とどのような関係になるのか、彼女がどのような存在なのか、何もわからない。

 情報の上での彼女は、情報として全て把握できる。

 そのはずなのに、私にはわからないものがあるというのは、しかし心地いいものである。

 これをスリルというのだろうか。

 未来がわからないことにスリルを覚えるように、私は彼女が公開していない情報の存在を意識して、高揚しているのかもしれない。あのベランダの草むら、お茶の一杯のような、情報のないものを感じ取って。

 実際に彼女に秘密があれば、面白いかもしれないが、考えてみればそれを私に彼女が明かす理由はない。

 私はただの成人で、彼女も成人で、開示主義社会に溶け込んだ、何から何までを明らかにしている立場なのだ。悪ふざけで秘密ばかり集める子どもではないし、秘密を暴こうと必死になるほど幼稚でもない。

 食事である。

 彼女が提示したレストランはどれも普通の店だった。値段は高くもなく、安くもない。今ではどの飲食店でも、事前に全ての料金が開示されるし、システムが整備され、食事の展開を予想するとそれでいくら払う必要があるか、簡単にわかる。

 どれだけ情報を見ても、レストランには自然食に対するこだわりがないことを確認し、ふと私は自分が不審に思えたのだった。

 私は彼女の何をそこまで気にしているのだろうか。

 私は彼女に何を求めているのだろう。

 彼女は私を食事に誘った。行く候補のレストランも提示した。

 つまり彼女は私に好意を開示した、のだろうか。

 いや、私たちが生きる社会では、自然なタイミングで、言葉や行為を用いずに、想いなどというものは自然と共有される。情報として開示すれば良いのだ。往来の通りでも、恋人を求めるものは数限りなくいる。それも無言で、さりげなく、情報開示だけで。それで成立する恋人同士もいるのだ。

 私も過去に何度かその手を使った。うまくいった相手もいれば、いかなかった相手もいる。

 とにかくは食事だ。

 彼女にメッセージを送るための文面を考え、何度か書き直した。念のため、書くのにかかった時間、書き直した回数などの情報をメッセージに添えた。それが誠意というものである。下心ではなく。

 メッセージを送信し、私はやっと一息つけた。そして今に至る。

 この日記にはこうして個人的なことを書いていくこととする。私が見ている世界を誰かが覗き見ていると思うと、愉快なような、不愉快なような、曖昧な感覚が沸き起こる。

 ここに記されていることは、私の秘密であり、開示を拒否した情報でありながら、こうして日記にしたことで公開された情報と同義になる。実際に目にするものが極端に少ないとしても、開示は開示だ。

 私は結局、こうやって逃げ場を用意しているのだろうか。

 でも、何から?


      ◆


 彼女との食事は最高だった。

 そしてその後の夜も。

 しかしやはり奇妙なことはある。

 彼女の右腕に傷跡があった。肘から少し下のあたりで、私がそれに気づくと、彼女はうっすらと笑ったのだ。

「これは誰にも秘密の傷」

 実際、その傷跡には何の情報も付随していなかった。いつの傷なのか、何による傷なのか、誰につけられたのか、治療したのはいつで、誰なのか。何もかもが不明だった。

 こうして帰宅して日記を書いているわけだが、しかし今になってみると、あの傷跡は不気味だ。

 彼女の秘密の一端を知れたはずなのに、先日のような浮き足立つ気持ちはない。

 どうしてもどこか、不安で、落ち着かない。

 次に会った時、何か話せるだろうか。

 私は警察ではない。だから秘密を暴く必要はないし、権利もない。だが、情報を開示するのは市民の第一条件であり、そのことを彼女にさりげなく伝えるくらいは、許されるだろう。


      ◆


 今日、彼女の部屋に行った。

 つい数日前、彼女の部屋に入った時、驚くべきことに、全てから情報が消されていた。

 彼女が使っていただろう机は、持ち主不明であり、製造者不明であった。椅子もそうだ。机の上のティーポットも、ティーカップも、情報がない。

「明日、出て行くことになって」

 彼女は平然とそう言って笑った。

 何もここまでしなくても。売り払う時、譲った時に支障が出るんじゃないかな。

 私はそう言ったが、彼女は「情報で使い心地は変わらないわ」と椅子の背もたれを軽く撫でた。私はその手のことをよく知っているつもりだったが、この時の彼女の手の動きは、全く見知らぬもの、人の手のそれにも見えなかった。

 まるで蛇が這うようだ、と私は感じた。

 何の情報もなくなったベッドで一晩を過ごし、翌朝、彼女は私を送り出した。

 いつも通りの笑み、いつも通りの仕草に見えた。

 しかし彼女の着ている服には何の情報もない。

 その首元にある、私がプレゼントしたネックレスも、すでに情報が消されていた。

 そのネックレスは私の手から彼女に渡ったはずなのに、すでにそのことを証明する情報はないということである。

 私は今、自分がこれまで、何を手に入れてきたのか、それを考えてしまう。

 情報というものが全ての根底になってしまった今、情報が消されてしまうことは、根底そのものがなくなってしまうということではないか。

 私は彼女のペンを拾った。だから彼女と出会えた。

 仮に彼女があのペンにまつわる情報を全て、ひとつ残らず消し去ったとしたら、私と彼女の出会いは、それからの様々な出来事は、どうなってしまうのだろう。

 なかったことにはならない。

 しかし、証明することもまた出来ない。

 情報とは視点であり、経過であり、現在であるとするならば、情報とはなんと大きな存在であることか。

 彼女はあの朝以降、私にメッセージを送ってくることはない。

 私は今日、あの夜、あの朝から初めて、彼女が住む部屋を訪れたが、建物の前に立ったところで、その集合住宅に付属する情報から、彼女がいた部屋が空室になっているのを知った。それならもう用は済んでいる。

 済んでいるのに、私は彼女が暮らした部屋のドアをノックせずにはいられない思いだった。

 これは無用な感傷なのか。それとも人として、当たり前のことだろうか。いや、自分がただ、女々しいだけだろう。

 あれから彼女のことは何度も思い出したが、私は彼女の顔を次第に忘れていくだろうと思う。そのうちに笑い声も、口調も、何もかもを忘れていくのだ。

 私と彼女の間にあったものの、儚いこと。

 情報としてそこにあれば、少しは安心できるのに。そう思うことも再三だが、しかし、情報がなくなった時に同時に消えてしまう関係とは何なのか。

 それは本当にあったのだろうか。

 それとも最初からなかったのだろうか。

 情報の上に情報で作られた架空の存在が、私と彼女の間にあったものだとは思いたくない。

 しかしでは、情報を持たない何かしらは、どこにも存在しないのではないか。

 私はここにこうして、日々を記録した。

 これは情報だが、ただの情報ではないような気がする。

 それは秘密にされているからではなく、私の信条、感情がここに浮かび上がるからではないか。情報が氾濫し、同時に収束することの世界に対する、どこか相容れないものが、私の心には確かにあり、それがこの日記には表出している。

 彼女との関係もまた、この情報に覆われた社会には存在を認識されない、不思議なものだったようだ。


      ◆


 過去に日記に書いた女性と、不意に再会した。

 彼女と私は街で偶然にすれ違ったのだ。彼女の服装は前とはまるで違っていた。髪型も化粧も、まるで違う。

 しかし首にネックレスをつけていた。それで記憶が瞬時に蘇った。

 私の目は彼女を見据え、たちどころに彼女に付随する情報がすべて見えた。

 やはり彼女で間違いない。あの頃、彼女の経歴を私は何度も間近に見たのだから。全てではないが、一致するところが多い。それだけで、目の前の女性は私にとって彼女だった。

 声をかけると、彼女は困惑したようだった。私は質問を繰り返したが、彼女は理解できないといったように去ろうとした。

 思わず、ネックレスのことを口走った私に、振り返った彼女は軽蔑したような視線を見せた。

「これは自分で買ったものですから。情報が見えていないのですか」

 その言葉に、私の視線の焦点がネックレスにぶつかる。

 販売元も、値段も、私が買った店ではなく、また金額も私が支払った値段ではなかった。

 不意に恐ろしくなった。

 彼女は情報を開示していることにより、間違いなく私の記憶違いではないと確証を与える一方、別の情報が食い違うことで、私の記憶違いである、と主張できるのだ。

 まるで同意と拒絶が同時に目の前にあるようだった。

 この厄介な双子を黙らせる方法を、この時の私は持たなかった。

 彼女が私など知らないという限り、私がいくら彼女を知っていても、私は彼女の知らない人間でいるしかなかった。

 しかし後になって考えるに、情報こそが正しいはずであり、彼女の個人情報が私の知っている個人情報と合致する限り、彼女は私が知っている彼女だ。

 ああ、しかし、なんてことだろう、仮に彼女があの彼女であったとしても、私にはどうしようもないのだ。

 彼女が拒絶すれば、それは拒絶である。彼女が見せる情報を使っての否定がポーズだとしても、拒絶は拒絶なのだ。

 彼女は私を拒絶した。情報など関係なく、私を受け入れることができたはずなのに。

 私はこの開示主義社会における一つの分水嶺を見た気がした。

 誰もがありとあらゆる情報を開示し、何もかもを認めるしかない情報をこれ以上ないほど細部に至るまで提示しているということは、拒絶など本来ありえないのだ。

 開示された情報をもとに成立する関係には、拒絶の根拠がない。関係に影響する要素、その根拠は全て目の前に情報として見えているのだから、拒絶されるような行動を選ぶ理由がない。

 彼女はそれでも私を拒絶した。

 彼女は本来、できるはずのない拒絶を選んだのだ。

 この社会における、見えない境界線、なくなろうとしている境界線に、彼女はいるのだろう。

 そんなことを思って、私は今、去っていく彼女の後ろ姿を思い出している。


      ◆


 警察が今日、私を訪ねてきた。

 この人物を知らないか、と見せられた写真の女性は、すぐには誰かわからなかった。

 それは間違いなく彼女だったが、私は知らないと答えた。警察官は私にまつわる情報をチェックしたようだ。答えてしまってから、私が彼女との関係にまつわるデータの一部を残しているのを思い出した。

 何かを吟味するような顔になってから、警察官は去って行った。

 どうして彼女を探しているか、それを聞き出してもよかったが、そうする余裕はとてもなかった。

 さすがに私は椅子に腰掛けたが、次には足が震えて立てなくなった。

 私が連行されることはないだろうが、情報隠蔽で処罰を受ける可能性はある。虚偽の申告もまた罪に問われるだろう。

 私が考えたことは、この部屋を出てどこかへ行けるだろうか、という荒唐無稽なことだった。

 私がどこへ行こうと、情報は付随する。情報を辿れば、どこへ姿を消したとて、見付け出されるのは時間の問題だ。

 どこかへ行ける、というのは、こうなってしまえば情報を振り切れるか否か、ということになるのだろう。

 やはり私の彼女のことを思い出した。

 彼女は全てのものの情報を消去した。そうして姿を消した。

 私には同じことができるだろうか。いや、同じことをしても生きては行けまい。私はとても身の回りの品が無情報になる不安には耐えられない。正確に表現すれば、無情報のものしか持っていない人間になる勇気が出ないのである。

 そして自分の情報を消したり、書き換えたり、偽ったりすることは、やはりできない。

 この世界における情報は、ある種の縛鎖なのだ。

 私たちは常に縛られ、実は自由を失っている。何かから解放されるのと引き換えに、決して手放してはいけないものを、手放している。

 私とは何なのか。

 私に付随する情報こそが私だとしたら、私という肉体は、そのラベルが貼られたボトルのようなものか。なんでも入れられるボトル。

 私という人間の主体は、どこにあるのか。主体がすべて情報に結びつくのなら、情報が結びつかない主体はどのような意味を持つのだろう。

 彼女は少なくとも、情報からは自由だった。

 あるいはそれは、社会からも自由だった。

 警察が彼女を追っている。

 私は彼女に拒絶された。

 警察が追っている彼女と、私を知らないと言った彼女は、どのような関係にあるのだろう。

 それに、私と短いながら同じ時を過ごした彼女は、どこへ消えたのだろう。

 あのネックレスの持ち主は、どこへ行った?

 あの右腕に傷のある彼女は、どこへ行った?

 私の日記も、これでは近いうちに書き続けられなくなるだろう。

 しかしこの日記こそが私であるとも言える。

 一個の連続した私。

 情報というものによって解体されることのない、一連なりの私。


       ◆


 この日記は私を知るものに託す。

 この、情報がすべての社会における、異端の情報として。

 無数の人間が溶け合って混ざり合う社会における、輪郭を持ち続ける人間の記録として。

 彼女ともう一度、会えたらと思うことを、ここに明確にする。

 だが彼女はもういない。

 情報の向こうへ、雑踏の向こうへ、この社会の向こうへ、彼女は消えてしまった。

 罪を免れ、罰を免れるためかもしれない。

 私は情報にまつわる罪と、情報にまつわる罰を、この身に受けている。

 そしてこの情報という、獄の中で生きるしかない。



(了)

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秘密 和泉茉樹 @idumimaki

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