世話焼きが世話焼かれ

すなさと

第1話 二人の晩酌

 昔は、「次郎」と呼ばれることが嫌いだった。

 

 稲山総次郎の家は、昔から続くいわゆる「分家筋」である。伏見谷ふしみだにという妖狐の谷の、本家伏宮の狐を守るのが、分家稲山の狐たちの務めだった。総次郎は、そこの一人息子であり、長男狐だ。見た目は、もさっとしたくせ毛にあご髭がよく似合う三十代前後の若者だが、実のところ五十近い。

 今の本家当主は、自分と似たような年だが、人間と同じように年を取っていっている。こんな霊力の低い奴がどうして本家の狐なんだと、若い頃は納得がいかなかった。

 だから、長男にも関わらず、分家であるがゆえに「総郎」でも「総郎」でもなく、二番目を意味する「総郎」と名付けられたことも腹立たしく、悔しかった。



◇ ◇ ◇

「なあ先生、聞いてるか?」

 年季の入った小さな古民家の質素な居間。粗末なこたつに頬杖をついて座りながら、総次郎は台所に向かって呼びかけた。窓の隙間から冷たい風がひゅうと入ってきて、古いストーブの火が時折ゆらりと揺れる。外では、雪がしんしんと降っていて、まだまだ今夜は積もりそうだ。

 そして、奥の台所では「ははは」と笑う男の声が。

 彼の師匠である百日紅さるすべり兵衛ひょうえだ。伏見谷ふしみだにの山奥で、昔ながらの民家に三百年たった今でも一人で住んでいる妖猿だ。

 

「それは災難だったな、次郎」

「笑いごとじゃありませんよ。こっちは放って帰る訳にも行かねえし、ひどい目にあった」

「世話焼きなところは、おまえのいいところだ」

 細面の男が穏やかに目を細める。するっとさりげなく褒められて、総次郎は内心ちょっと嬉しくなる。師匠に褒められるのは、いい大人になってからでも嬉しい。

 今日は、県外の厄介事をどうにか解決して伏見谷に戻ってきたところだ。まっすぐ家に帰っても良かったが、その前に師匠のところに寄ってみた。


 古びた和箪笥だんすに、隅には小さな文机。小綺麗に整理整頓された殺風景な部屋は、当然テレビもなければ、パソコンもない。こんな家で三百年も住んでいるなんて、ちょっと寂しさを感じてしまう。

「先生は、誰か家に女を入れねえの?」

 総次郎はふと尋ねた。師匠が片眉を上げる。

「儂か? 何の不便もないから、必要ない」

「まあ、そうだろうけどよ」

 言いたいのはそこではなく。

 肌恋しくならねえのかな、と総次郎は思う。今でこそ浮いた話が一つもないが、この寡黙な師匠は案外モテる。全国を回っていると、必ず何回かに一度は古参のあやかしに「兵衛は元気?」と声をかけられる。そして決まって、「事が済んだらさっさと帰るひどい男だった」と言われる。

 若い頃は、女を食い物か何かだと思っていたらしい。師匠は完全に割りきっていたようだが、不特定多数から似たような話ばかりされると、どんだけ食い散らかしていたんだと思わないわけでもない。この気難しい顔からは想像もつかないが。


「ほら、豚の角煮だ」

「うほ、旨そうだ」

「あと黒豆煮と、ぶり大根──」

 地味なご馳走に目を輝かせる総次郎の前に、師匠は慣れた手つきで皿や箸を並べていく。

 これは熱燗あつかんで一杯──、いやいや今夜は冷やがいいな。

 そう総次郎が考え終わらないうちに冷酒の小瓶と猪口ちょこが目の前に置かれた。うちの師匠は下手な主婦より家事力が高い。確かに、女手は必要ない。

(しっかしなあ……)

 総次郎は小瓶から猪口ちょこに冷酒を注いで、それをちびりと飲んだ。食事の支度を済ませた師匠が向かいにどかりと座り、シャツのボタンを三つほど外して胸元を緩めた。

 はだけたシャツの隙間から見える鍛え抜かれた胸板は、男の自分でも見惚れるほど色気がある。これで、女っ気が一つもないというのは、あり得ない。

 総次郎の恋人も、師匠の前では男勝りな性格を2割ほど削減していて、自分にさえ見せたことのない少女のような顔をしている。万が一にも師匠に口説かれでもしたら、ころっといってしまう可能性は大いにあるなと、総次郎は彼女を師匠にあまり会わせないようにしていた。

(案外、俺の知らないところで女を囲っているのかもしれねえな)

 きっと、この師匠が惚れるくらいだから、極上の女に決まっている。総次郎の頭の中で妄想が膨らむ。

 総次郎は黒豆を口の中に放り込み、向かい合って座る師匠に尋ねた。

「なあ、先生」

「なんだ?」

「先生の好みの女って?」

「……今日はやけに女絡みだな」

 師匠が苦笑する。それから彼は、うーんと思いを巡らせたあと、ふっと笑った。

「そうだな、男の前でごろんと横になどならん女だ」

「なんだそりゃ」

 総次郎が顔をしかめると、師匠は懐かしそうに目を細めた。

「昔、とある方と似たような話をしたのだ」

「ふーん。で、は横にならない女だったのか?」

「思いっきり横になるお方だった」

 なんだそりゃ。どうやら自分はからかわれているらしい。

 それでもう無駄な詮索はやめることにし、総次郎はほくほくの湯気が上がる大根にかぶり付いた。出汁だしがしみた大根から旨味がじゅっと溢れて口に広がった。

「先生、これ下手な主婦が作るより旨いわ」

「そうか。次郎、今日は泊まっていくか?」

「ああ、そうする」

「風呂も沸いているから好きに入れ」

「ありがと、先生」

 背中のかゆいところまで手が届く、そんな至れり尽くせり感が心地いい。若い頃は、この家に入り浸っていた。親父を越えたくて、師匠のようになりたくて、とにかく必死だった。あんな本家の弱い狐なんかより、自分の方がよほど強いんだと認めてもらいたかったのかもしれない。

 ある時、「先生みたいになりたい」と言ったら、「儂のようなロクでもない者になるものではない」と返ってきた。

 大妖狐、九尾が愛した最初で最後の弟子。かの大妖が死んでから、三百年間この伏見谷を守り、多くの狐を育ててきた。自分も、自分の親父も、死んだジジイもみんな師匠の教え子だ。

 その昔、単身で鬼の里に攻め入ったとか、鬼を十人斬りしたとか、本当か嘘か分からないような話を親父から聞いた。確かに、気難しくて怒らせると怖いが、師匠といると絶対的な安心感がある。

 

「なあ、先生」

「今度はなんだ?」

「じゃあさ、好きになった女はいねえの?」

 きっとまた、はぐらかされるだけかもしれないと思ったが、酔った勢いで聞いてみた。すると、師匠は窓の外に目をやり、独り言のように呟いた。

「一人だけ惚れた女がいる」

 まさかちゃんとした答えが返ってくるとは思わず、総次郎は「へえ」と声を上げた。

 師匠も酔っていたのかもしれない。

「で、その女は?」

 やっぱりいるんじゃねえか、と心なし総次郎は前のめりになる。

 そんな彼に、師匠が自嘲的な笑みを返した。 

「儂の望むものを全て儂に与えて、儂の前からいなくなった」

「……」

 途端に酔いが覚める。

 聞いちゃいけなかったなと、後悔した。「いなくなった」なんて言っているが、あの遠い目はきっともうこの世にいないのだろう。

 師匠の格好悪い一面を見てやろうとしたはずなのに、なぜか三百年以上生きてきた妖猿の重みを感じて、しんみりとしてしまった。

 こういう湿っぽいのは、総次郎は苦手だ。

「先生、いいから飲め!」

「おまえが言うな」

 呆れた顔で師匠が笑う。その顔にたくさんの笑いじわができる。その皺顔しわがおが、実はすごく格好いいと総次郎は思っている。


 以前、「なんで先生ほどのあやかしが伏見谷の指南役で収まってんの?」と聞いたことがある。誰が見たって、師匠ほどの実力を持つあやかしは全国を探してもそういない。もし、伏見谷の当主の座に収まったとしても、誰が異を唱えるだろう。

 しかし、そんな総次郎に対し、師匠は言った。

「そこが儂の収まるべきところだからよ」

 そんなこと、なかなか言えねえなと思った。俺なら、もっと欲張って、誰かに認められたいと思う。だから、「おまえはまだまだだ」と言われるのだろうが。

 ただひたすらに、己の役割を全うする。本当に強くないと、だぶん出来ない。誰しも思った以上に心は弱く出来ている。


「そうだ次郎、」

 大根を箸で割りながら、師匠がもののついでのように口を開いた。総次郎が「ん?」と首をかしげる。

「いやな。本家の子供たちが、また妙なことに首を突っ込んでいるらしい。見に行ってくれるか?」

「面倒くせえな。あいつら、いちいちジロにいだの、次郎様だの、まとわりついてくるから面倒なんだよ」

「おまえが儂にまとわりつくのとそう変わらんと思うがな?」

 痛い所を突いてくる。同時に、なんかこそばゆくなる。

 そうか、俺が師匠に感じる安心感を、あいつらは俺に感じているのか。


 昔は、「次郎」と呼ばれることが嫌いだった。でも、今は「次郎」と呼ばれることを少しは誇りに思う自分がいる。

 何より、師匠が「次郎」と呼んでくれるのだ。おまえが収まるべき場所はそこであると。


 総次郎が猪口の酒を飲み干すと、すかさず師匠が注いでくれた。ここで飲み潰れても、師匠ならきっと毛布もかけてくれる。

「やっぱりいつか、先生みたいになりてえな」

「ロクでもないと言っただろう。やめておけ」

 顔一杯に皺を浮かべて師匠が笑った。

 笑うだけで、やっぱり格好いい。こんな風に自分は当分なれそうにもない。

 だったら、もう少し甘えてもいいかと総次郎は思った。

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