第21話 水底
固く握っていた拳を開いて、メイタロウは一つ息を吐いた。
日はすっかり落ち、野次馬達の散ったラビィの家の前は、薄闇の中閑散としている。
近隣住民の言うことには、ラビィの母は完全に姿をくらましてしまっていて、この街ではどこにも姿が見えない。元々酒癖が悪く暴力沙汰のからむ夫に疲れきっていた様子で、帰ってくる見込みはないかも知れない。
もしも帰ってきたときは、とにもかくにも夫の逮捕の件を伝えたいから一報を、とのことだった。
ラビィは他に預かり手がなく、今夜の所はこの家に残るしかない。そしてもしもこのまま母が帰って来なければ、今後のことは……。
貧しさに加えて、教え子達の家庭環境が決して良好ではないことは知っていた。
ラビィの父は近所の人の言う通り、毎日少ない稼ぎの中から酒を飲んでは妻に当たり散らす男だったらしい。そんな環境で、ラビィはときに忘れ去られたように家の前に出されていたこともあったとか。
彼女が魔術教室でそんな話をしたことはなかった。
今まで誰にも言えずに耐えてきたのだろう。メイタロウはそんなことにも気付かずに……。
今はただ、がらんどうになった狭い家の真ん中で、ラビィは一人立ちすくんでいる。
「ラビィ、今日は先生の家に行こう。その……君のお父さんとお母さんは、」
その背に、沈黙に耐えかねて、なんとか青年は言葉を振り絞った。しかし、ラビィはそんなメイタロウの言葉にブンブンと首を振る。
「いやだ。あたし家にいる」
「……ラビィ」
そのままうつむいて動かなくなってしまったラビィに、メイタロウは最早返せる言葉もなかった。
代わりに、戸口でことを見守っていたロドが口を開く。
「それなら、誰か帰ってくるまであたし達がここにいればいいよ」
「ロド……。そう、そうだね」
教え子はそれでも一人で大丈夫だと言うが、せめて今夜だけでも彼女を放っておくわけにはいかなかった。……メイタロウ達だけでも、見放すわけにはいかなかった。
しかし居たからといって、それ以上の何ができるわけでもない。
メイタロウはドアの側に立ち尽くし、ロドは静かに、適当にそこらの床に腰をおろしていた。
小さいテーブルの上は片付けられないままの食器でいっぱい。椅子は大人二人分だけで、そこにも食料品の空容器なんかが積み上げられ、座れる状態ではない。家具と言えばそれだけで、あとは奥に薄い布団が三組並んだ寝室があるだけだ。
誰も帰らぬままに夜だけは更けて、ラビィは自分の寝床に入っている。
ほとんど衝立のような薄い壁を隔てて布団をかぶり、そのまま物音一つ立てない。恐らく眠ってしまったのだろう。
いや、本当は眠っていないのかも知れないが、こちらに気を使って寝たふりをしてくれている。
それなのに、
「何も……」
「どうしたの、メイタロウ?」
再び強く拳を握ったメイタロウに、ロドが尋ねる。一つ息を吐いて、メイタロウは答えた。
「自分が半端者だってことを実感してた。魔術師としても、先生としても。……大会に浮かれて、大事なことを見逃してたんだ。教え子がこんな目に遭ってたのに」
かすれるような声で口にした青年の顔を、しばらくじっとロドは眺めて、やがてちょっと得心がいったようにうなずいた。
「メイタロウも、家に帰るのが苦手なんだね」
「……何でそんなことを。いや、その通りだよ」
何かを見透かされた気がして、メイタロウは顔を伏せた。口では先生としてなんて言ったが、本当は違う。
昔、これと似た苦を味わった者として、気付けなかった自分が許せない。許せないのだ。
「僕もラビィと、同じというほどひどい環境じゃないかも知れないけど、家に居るのが嫌で……。子どもの頃は一日中街中で時間を潰してる、なんてことも珍しくなかった」
ラビィは相変わらず静かにしている。
この家には誰も帰る気配がない。
静寂の時間を埋めるために、メイタロウはロドに初めて自分の身の上話をした。
「僕とスオウの父親は……父親と言っても、僕はもうそう呼ばないんだけど、何かにつけて家族をコントロールしようとする男で、気に入らないことがあると母さんや僕らに強く当たった。僕らは家に帰るのが嫌で、いつも街の慈善団体がやってる青空教室に潜り込んでた。リン市長はそこで子ども達に勉強を教える先生だった」
そう、小学校や中学校の先生ではない。メイタロウとスオウが放課後に逃げ込んでいた『居場所』の先生だった。
貧しい子達に混じって、いつの間にか勝手に青空教室に潜り込んでいた兄弟を、先生は何も言わずに受け入れてくれた。
スオウは特にリン先生に懐いていて、彼女の教えてくれる、広い世界の話が好きだった。
先生の教室にいるときだけは、二人とも失っていた笑顔を取り戻せた。未来に希望が持てた。
冷たい我が家で耐えるだけじゃない。自分達にも何かができると思った。
そんな日々の中で、
「兄貴、おれ達も魔術やろうよ」
と、スオウに言われたときのことはよく覚えている。
プロになる魔術師のほとんどは、胎児もしくは幼い頃の魔力認定試験に合格して魔術師の学校へ通う。
メイタロウとスオウは、残念ながら二人とも出生前の魔力が低く、魔術の学校には入れなかった。
出世コースを用意されなかった子どもは、子どもながらに這い上がらなければならない。アマチュアの大会で勝利を重ね、示さなければならない。己の
だから兄弟二人、様々な大会に出て腕を磨いた。
その末に、スオウだけでも高校から魔術師学校に編入できたのは奇跡だっただろう。
うらやましいとは思わなかった。ただ己の力の無さを自覚するだけだった。
障壁は身近にあった。
「さっき言った僕らの父親は、魔術師としてある程度出世した男で、その子どもでありながら魔力が弱い僕とスオウのことを疎んでいた。才能もないやつらが大会なんかに出ても無駄だと、何度も杖を捨てようとした。本当に才能がないと思ってたんだろうけど、それ以上に、自分のコントロールから外れようとする僕らをやつは許せなかったんだ」
それでも母に庇われ騙し騙し魔術を続けていたが、ある日事件は起こった。
「……僕とスオウが初めて大会で優勝した日。信じられないことに、息子達が勝ち取った優勝旗を、やつは捨てようとしたんだ。それを止めようとしたスオウに、やつは手を上げた。魔術を自分の子どもに向けて撃ったんだ。やつの放った火はスオウには当たらず、周りの家々に燃え移った」
結果、父親はメイタロウ達の前から、罪人として姿を消すことになった。
やつのことはそれきりだ。その後のことは何も知らない。知ろうとしたこともない。
やつのせいで更なる苦を味わった者のことを知っているから。
あの日からの母さんの苦労は言葉に尽くせない。住んでいた場所を追われ、仕事を続けていることもできず、犯罪者の家族と噂される度に酷な仕打ちを受けた。
取り戻せたのはスオウがプロになってからだ。
息子が名声を得て、やっと母は顔を上げて歩けるようになった。プロの給金のおかげで、かつて住んでいた家も買い戻すことができた。
スオウが努力に努力を重ねて、母を太陽の下に連れ戻したのだ。なのに……。
「もう間に合わないね、パーティー」
脈絡もなく、メイタロウに気を遣うでもなく、ロドが呟いた。
いつの間にか食い縛っていた奥歯の力を解いて、青年はゆっくり息を吸う。
「いいんだ。先生への脅迫状のことは気になるけど、ラビィを放っておけないよ」
きっと大丈夫だ。会場にはスオウもいるし、脅迫が来ているなら一応警備にも気をつかっているはず。スオウ以外のプロ魔術師もあの場にいるんだから、そんな中で凶行に及ぶのは……。
「ラビィ! ラビィ、ああ、ごめんなさい!」
突然、メイタロウの立つ家の戸が勢いよく開いた。慌てた様子で家の中に一人、女性がとび込んでくる。
その女性は一瞬不思議そうな顔で何故か家にいる見知らぬ人間……メイタロウ達を見ていたが、こちらが素性を明かすとすぐに自分のことを話した。
「叔母さん……?」
少しだけ憔悴した顔で、ラビィも寝床から起き出してくる。
そう、彼女はラビィの母ではなく、ラビィの母の妹だという。
どうやらとなり街で商店を営む彼女に、警察が連絡をつけたようだ。叔母は出てきたラビィにしきりに謝り、もう大丈夫だからねと声を掛けている。ラビィの方も彼女に懐いているようだし、どうやら信用に足る人物らしい。
今日のところは、ラビィは叔母の家に泊まることになった。今度はラビィも家にとどまりたいとは言わず、素直に叔母についていくことを了承した。
母親は一向に姿を現さないし、自分と一緒にいつまでも帰りを待つメイタロウ達を、ラビィなりに気づかってのことかも知れない。
辺りはすっかり暗く、メイタロウの腕時計はもうずいぶん遅い時間を示していた。
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