第20話 過去3
固く閉じていたまぶたを開いて、スオウはゆっくりと息を吸い込んだ。
客席を埋め尽くす人の波と、それに取り残されたように静まり返る自分の胸。
もう試合は目前だというのに、心に一切の感情の起伏もない。
入場口からゆっくりと、緊張を隠せぬ表情で相手選手が現れる。
最初にプロと戦うアマチュアの代表である彼らに、会場からは勇姿を讃える拍手が起こった。
戦いが始まる前の、静寂と闘志混じりの特異で愛しい空気。困難な敵を前にすればするほど、何故か膨らんでいく希望。
だが、それをもうスオウは感じることはできない。
己の遥か後方に目を向ければ、そこには氷の瞳をしたあの男が立っていた。
そう、すべては最初から決定されていて、それに添って勝利するのがプロの仕事だと、教えられた。
それは試合の流れだけではない。
試合の『外』で起こること。アマチュアの頃は考えもしなかった、権謀術数渦巻く世界のことも、この手は負わなければならない。
考えもしなかった。
だからこそまるで他人事のようで、……そうじゃない。
氷の男が決めたシナリオ通り、スオウとセリーンのプロ魔術師ペアは、アマチュア達を緩やかに圧倒した。
そして準決勝進出へと駒を進め、気付けばレセプションパーティーの会場を見渡している。
そして……もうすぐだ。
すべき事。
その時間が迫るほどに、頭をよぎるのは今考える必要もない、昔のことばかり。これから自分がどんなものに手を染めるか、分かっているのに。
夕陽は沈み、会場は幾百もの淡い明かりに照らされていく。大会の勝ち残りを集めた、盛大なパーティーが始まるのだ。
市長はまだこの場に現れていないが、取り巻き達が慌ただしく会場を行ったり来たりしている。
例の脅迫状の件を受けても、市長は大幅に警備を強化したりはせず、最低限の人員だけをこのパーティーに割いていた。
周りに下手に恐怖心を与えないように、大会の成功を象徴するこのパーティーを、自分の身の安全のために非常事態にしてしまわぬように。
昔からそういう人だ。
だからスオウも信じたのだ。その澄みきった流れが、この街の澱みを清くしていくことを。
でも……。
沈んでいく思考を遮るように、背後で靴音がした。
魔術の世界の濁りが近付いてくる音だった。
「ここにいたか、スオウ」
「……」
声もなく振り返れば、そこには氷のたてがみのライオンがいた。
こんなときでも余裕を湛えて笑う瞳は、スオウを映しているようで、そうではない。
もっと先の、途方もない未来を見越して爛々と光っている。
スオウ達のような、非魔術階級出身の魔術師では手も届かないような、政治や権力の為す世界征服という名の勝利を獲物にして、牙を剥き出しにしている。
「そろそろだな。心は決まっているか?」
「……ええ。もちろんですよ」
弱く答えるスオウに、セツガは満足げに笑うと会場に目を移した。
「これで大会も終わりになるだろう。あの女の夢とやらもぶち壊しになるというわけだ。このまま大会が続けば、色々と不都合もあったからな」
「つまりプロがアマチュアに負けるかもしれなかったと? では、『彼女』は本当に例の『奇跡の人』なんですね」
「奇跡などではない。世界の歪みだ」
「……」
「本来魔術師になるべきではない人間が魔術師になり、世界を歪めた。本当に才ある魔術師達が追放され、ついさっきまで食料品店の下働きをしていたような下流の人間が、運に任せて優勝旗を手にする。これが歪んだ世界と言わずに何だ」
青白い拳が、空中廊下の手すりを打った。
「我々はその歪みを正すのだ」
その語気が、思考が、どうしようもなく重なる。
『才能もないやつが、杖なんか持つな!』
いつの間にか、スオウに伝えるべきことを伝えきった氷のライオンの姿は消えていた。
それも覚えぬまま、青年は物思いの続きにいた。
『邪魔だ!! 片付けろ、こんな物! お前達も邪魔なんだよ! 出来もしないのに魔術をやろうなんて無駄なことをするやつらは!』
昔、ある男は幼いスオウにそう言った。
怒号が鼓膜を破るほどに響き、杖が二本、こちらに向けて非常な勢いで投げつけられる。
今も昔も、あの人物に対する何らの情もない。
ただ、どうしてもその言葉を覆したかった。見返したいとかそんなのではなく、その言葉が単純に間違いであることを証明したかった。
だから、
『兄貴、魔術やろうよ!』
そう言ったのだ。
『兄貴も一緒に出ようよ、魔術の試合!』
しかしすがり付く勢いの弟に、兄は険のある目付きで、子どもらしからぬため息をついてみせた。
『嫌だ。……あいつは、あんなに魔力がない、才能がないって僕らを馬鹿にするじゃないか。魔術師なんてみんな同じだ。僕はあんなふうになりたくない』
あの日、幼いスオウはメイタロウに、一緒に魔術をやろうとせがんだ。
兄の答えは
だがそれは当然のことだった。……日頃からあの人物の非情な行いを見てきたメイタロウにとって、それは受け入れがたい提案だっただろうから。
だが、押し黙る兄に困り果てるスオウに、助け船を出してくれた人がいた。
『そう言わずに、やってみましょうよ、メイ?』
リン市長だ。市長といってもあの頃の先生は本当にただの『先生』で、スオウ達兄弟にとって最も身近な存在だった。
彼女は幼いメイタロウに、一本の古い杖を差し出しながら言った。
『きっと楽しいわよ、メイ。何だかんだで一緒に練習もしてるでしょ?』
『それは、スオウがどうしてもって言うから……』
『優勝した魔術師は、この杖の先に優勝旗を付けてもらえるのよ? このお古が世界に一本だけの杖になるの。すごいと思わない?』
『……いらないよ、優勝旗なんて』
『優勝旗だけじゃないわ。優勝者には賞金もたんまりと……!』
『先生、それは大人の部の話でしょ』
『何だ~、メイ。詳しいじゃないの?』
『う、それは、』
膨れっ面のメイタロウに、先生が吹き出す。スオウもつられて笑った。
虚勢を張って、それが崩れたときの兄の顔は今も昔も変わらない。
結局兄はスオウに折れて、一緒に魔術の大会に出てくれることになった。
元々純粋に魔術への興味があったのだろう。メイタロウの魔術の上達は同年代の子ども達より早く、術の知識も豊富で、いつもスオウは兄に頼った。
こんなときなのに、いや、こんなときだからこそ頬が緩んだ。
子どもの頃から本当に変わらない。不器用で、頑固で意固地でこだわりが強くて負けず嫌いで、そして何よりも優しい。
だからこそ、絶対的にプロの道には向いていない。
プロの世界は、単純に魔術が好きだとか、強くなりたいとか、他人のために尽くしたいとか、そんな感情をいとも容易く踏みにじり、潰してしまう。
それを知ったとき……。
権謀術数、そのすべてを尽くしても身一つでは立っていられない世界がそこにはあった。
濁り、澱み、ぬかるんで、もうスオウの力では抜け出せない。
メイタロウが魔術教室で子ども達に教えていると知ったとき、嬉しかった。
もう一度杖をとって、この大会に出場すると知ったとき、嬉しかった。
遠くから眺めた兄の試合。使うのは防御術ばかりだったが、確かに兄の戦い方だった。
できることならこの大会で、兄と戦ってみたかった。それを先生に見ていて欲しかった。あの日のように。
「兄貴、先生……」
一人呟いて、自嘲気味に笑う。
「あのとき兄貴が魔術をやりたいと言った俺を止めたのは、今日を見越していたからかも知れない。今日も今日とて、魔術の世界の闇は深い。……俺はもう、」
すべきことは目前まで迫っていた。スオウにはもう、選ぶことはできない。
だからせめて兄だけは、と願う。
……残された世界で自由に魔術をしてくれることを、願う。
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