第2話 いなくなった女の子

 ジョイにとって、そしておそらく彼女にとってはもっと最悪な事態が訪れたのは、それから間もない年明けのことだった。


 お父さんが働いていた会社が、遙か離れた別の街の支社への転勤辞令を出した。赴任までの期限はわずか一週間。幼い子を抱えた妻を一人にして単身赴任するなどということは出来ないから、一家は引っ越しを余儀なくされた。


 会社側もそこには配慮して、社宅を用意していた。単なる転勤ではなく、チーフ職への昇進を伴うものであり、会社としては彼の仕事ぶり、その功績に報いる恩賞としての辞令のつもりだった。

 そこに、一つの家族の生活を激変させ、あるいは破壊する無茶な要素があるなどとは、人事部としては考えもしなかった。彼らにとって社員は、ゲーム盤上の駒である。

 その社宅に、問題があった。ペット飼育禁止だったのである。


 ジョイは、独りでこの街に残されることになった。両親も決して冷血漢というわけではなく、彼がかわいくなかったわけでもなかったが、社命は最優先だ。

 自力で物件を探す時間はなかったし、たかが犬コロが理由でせっかくの社宅を断るという行為は社にとっては奇異な行動という扱いで、キャリア的にはマイナスにしかならない。

 路頭に迷うことを避けるために、彼は県が運営する「センター」へと引き渡されることになった。幸い、県庁は殺処分ゼロを謳っており、彼が「ドリームボックス」行きになることは避けられるはずだった。


 彼女は一寸たりとも納得しなかった。当たり前だ。誰よりも大切な家族を見捨てて引っ越すなど、そんなことができるはずもない。

「センター」という訳の分からない場所も、信用することなどできなかった。新しい家族の元でジョイが幸せになる? そんなの嘘だ。実際、職員は譲渡に力を尽くしてはいたのだが、なかなか行先の決まらないまま、ケージの中でうなだれたまま生きている元ペットたちは多かった。


 泣きも騒ぎもせず、自分もジョイとこの街に残ると彼女は宣言した。両親は彼女をなだめ、そんな宣言は無効であることを告げた。

 引っ越しの前日早朝、彼女はジョイを連れて家を出た。パトカーが出動する騒ぎになった。小さな女の子の足では遠くまで行けるはずもなく、間もなく彼女は幹線道路沿いの食品スーパー内で保護された。しかし、ジョイは見つからなかった。

 逃げて、ジョイ。すぐに戻ってきて、助け出してあげるから。彼女はそう叫びながら、連行されるようにアルファードのシートに乗せられて、新しい街へと引っ越して行った。


 クリスマスが来るたびに、ジョイと並んで撮ったあの暖かい写真を、彼女は眺めた。きっと、ジョイは生きている。そう信じながら。寒い北の都会、窓の外では雪が降り続いていた。

 彼女は決して、両親を許さなかった。もう少し、もうちょっとだけ大人になって、一人で遠くへ行けるようになれば、あの街へジョイを探しに戻ろう。それが彼女の心の支えだった。


 ジョイがリードを外されたのは、街のメインストリートに面した広い公園だった。彼女としては、彼を深い森の中に還そうと考えたのだったが、客観的に見れば町なかの広めの緑地、といったところだろう。幼い子供の足では「家出」と言ってもそんなものである。


 リードを外されたジョイは、大喜びで広い芝生の上を駆け回ったのだったが、気付くと彼女の姿はどこにもなかった。

 慌てて辺りを探し回り、彼女が向かった痕跡がわずかに感じられたトイレの建物へと走ったが――彼の嗅覚は、実は正しかった――その入り口で彼は清掃員にモップを振り回され、追い払われた。人間にそんな手荒な扱いを受けたことなど無かった彼は、パニックを起こしてそばの雑木林に逃げ込み、やみくもに走り回った後、茂みの影にうずくまって震えていた。


 こうして彼は、帰り道を見失った。辺りが暗くなる中、ひたすら待っていても、彼女やパパかママが迎えに来てくれることはなかった。


 意を決して林を出て、街灯の下をうろうろするうちに、公衆トイレのあの建物は見つかった。しかし、棍棒を振り回す化け物が恐ろしくて、あまり建物に近付くことはできなかった。しかも本当は、彼女を見失ったあのトイレとは、そこは別の場所だった。公園内に数か所あるトイレは、みんな全く同じ造りの建物だったのだ。

 不自然にシンメトリカルな、人工的な造りの公園の中では、まだまだ幼い彼の方向感覚はうまく働かなかったのだった。

(第三話に続く)

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