【完結】しあわせになった犬のおはなし

天野橋立

第1話 女の子と仔犬

 お母さんや、兄妹たちと一緒に、ふわふわとした場所で寝ていた時の幸せな気持ちを、彼は忘れてはいなかった。

 その幸福な時間は、長くは続かなかった。この世界に産まれてわずか数十日の後には、彼はにぎやかな通りに面した、ペットショップのショウ・ウインドウの中にいたからだ。


 外の寒さはガラスが遮ってくれたし、足元には暖かく柔らかなタオルが敷かれていた。ちゃんと決まった時間にご飯ももらえたし、お世話をしてくれるお姉さんもとても優しかったから、辛くも淋しくもなかったけれど、あのふわふわとした時間を、彼は何度も思い出した。


 彼には、まだ名前がない。お姉さんたちは「チビちゃん」と呼んだが、仔犬たちはみんな「チビちゃん」なのだった。彼のような柴犬も、隣のパグも、大きなゴールデン・レトリバーでも。


 人間の世界は、十二月だった。窓の向こうの繁華街では、店先や街灯に赤や緑、金色のキラキラとした飾り付けがされていて、暗くなると七色の電飾が舞い降りてきた星々のように輝いた。

 そんな、華やかな町の様子を、彼は不思議な気持ちで眺めていた。心持ち首を傾げて、柔らかく垂れた両耳でクリスマス・ソングを聴きながら。


 時折、雪もちらつく厳寒の街。それでも人間たちは楽しそうだった。空から降る白いものを見ていると、ついじゃれつきたくなってブースの中をうろうろとしてしまう彼だったが、雪が冷たいものだということを、彼は知らない。まだ小さすぎて、外にお散歩に出ることは出来なかったからだ。


 柴犬の子犬というのは見るからにお利口で、つい店の前で足を止める動物好きたちも、その一挙一動に笑顔を浮かべずにはいられなかった。

 間もなく、彼が暮らす小さなブースの前には「家族が決まりました」というかわいらしいイラストの描かれた札が出された。


 彼を買ったのは、まだ小さな女の子がいる三人家族で、絵本のこいぬが好きで好きでたまらなかったその子への、クリスマス・プレゼントとして彼は迎え入れられたのだった。

 その代わりに、ちゃんとご飯や散歩のお世話をするんだよ、という約束なのだったが、むしろ彼女にとってはそれが楽しみだったわけだから、引き換え条件とは呼べないくらいに低いハードルだった。


 家族が住むのは、都心から地下鉄で数駅の場所に立つマンションで、ペット飼育可の物件だったことが、彼女に幸いした。両親は犬にも猫にも関心は薄かったから、これは全くの偶然だった。


 清潔なペットキャリーに大人しく収まった彼が家へとやってきたその日、彼女は自分が考えた仔犬の名前を発表した。リビングの壁にピンクの絆創膏で張り出された画用紙には、青いクレヨンで「ジョイ」と書かれていた。


 狂犬病予防法に基づく役所の衛生課への届け出は、ペットショップと提携している動物病院が代わりにやってくれたのだが、その書類にも仔犬の名は「ジョイ号」とあった。タータンチェックのお洒落な首輪――ペットショップからのプレゼントだった-―に刺繍された名前も。


 しかし実は彼女としては、画用紙には「ジョン」と書いたつもりだった。えほんに出てきた仔犬の名前が、「ジョン」だったからだ。「ン」がうまく書けなかったのと、彼女の発音では大人たちには「じょ」としか聴こえなかったために、彼は「ジョイ」になった。


 しかし、みんなが仔犬「ジョイ」と呼ぶことに彼女はすぐに慣れたし、彼にとってはもちろん、何の異存もなかった。

「ジョイ」、喜び。良い名前だった。「もろびとこぞりて」の原題は「JOY to The World」であり、クリスマスと共に彼女の元にやって来た仔犬の名前としては、ぴったりでもあった。


 ワクチン接種を全て終えて二週間で、外へ出しても良いという許可が獣医さんから出された。

 彼女は大喜びで、ジョイを散歩に連れ出した。幼児一人というわけにはいかないから、両親のどちらかが常に付き添う必要があったが、彼はいつも彼女の後ばかりついて歩いた。両親もまずまず仔犬を可愛がりはしていたが、与えられた愛情の深さが違うことを、彼もちゃんと分かっていたのだった。


 わずか一年足らずで、ジョイは仔犬から若い成犬となり、垂れていた耳もピンと立った。ピョコピョコと振られていた短い尻尾も、ふさふさの巻き尾となった。彼のペースには及ばないものの、彼女も急速にお姉さんになった。もう、「ン」と「イ」を間違えることはないはずだ。


 そして街は、再びクリスマスシーズンを迎えていた。そのキラキラと華やかな様子が、ジョイは、そして彼女も大好きだった。

 おうちのリビングで開かれたささやかなクリスマス・パーティーの主役はあくまで彼女だったのだが、ジョイのためのケーキも別に用意するべきだと、彼女は強く主張した。人間用のスイーツは、犬の身体にはあまり良くない場合があるということを、勉強熱心な彼女はちゃんと知っていた。


 二人で並び、手作りの飾りと、ロフトで買った小さなツリーを背景に、それぞれにケーキを前にしてご満悦な記念写真を撮ってもらったそのしあわせな瞬間を、ジョイはいつまでも忘れなかった。

(第二話に続く)

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