大人の味
王生らてぃ
本文
成長して背が伸びても、体つきが変わっても、わたしはまだ大人になれないな〜と思うことはいっぱいある。たかだか中学生なのにまだそんなことは早いのかもしれないけど、身近に「大人」な人がいると、否が応でも実感してしまう。
「おかえりなさい。さあ、上がって」
朱美さんはいつものようにわたしを迎えてくれた。といっても朱美さんはわたしの家族じゃない。近所の小さな画廊みたいなところでピアノ教室を開いているのだが、生徒が通ってくる様子はない。かくいうわたしも、今は生徒ではないが、いつもここに遊びに来る。
朱美さんの部屋は、お花の香りと、それから果物のようなほんのりした香りがする。
壁に据えられた棚には、たくさんの雑誌や本が並んで、その下には化粧品や香水の瓶が所狭しと並べられている。まるでお店のようだ。
学校から帰ってくると、わたしは家よりも先に朱美さんの家に来て、ここで宿題を済ませて、それからお菓子を食べたりお茶をしたりする。わたしがいつものように机に課題を広げると、朱美さんは冷蔵庫から、いつもの瓶をとりだした。
グラスに中身を注ぐ。
赤く透き通った、華やかな香りのワイン。朱美さんはわたしの向かいに座って、それを口に含みながら、雑誌を広げている。
「今日の宿題は何なの?」
朱美さんの、ワインの香りの混じった吐息が感じられる。わたしはこの匂いが好きだった。
「数学。も〜超難しくて。こんなの将来、何の役に立つんだって感じでさ〜」
「役には立つわよ。愛ちゃんも、将来は受験したりするでしょ?」
「うん、たぶんね」
「じゃあ、受験に必要な数学も頑張らなくちゃね」
「じゃあ教えてよ〜」
「ふふ、それは無理」
朱美さんは海外で仕事をしていたことがあるそうで、英語は完璧にできる。だから英語の課題は時々教えてもらったりするんだけど、今日はどうやらその助けは借りられそうにない。
しばらく無言の時間が続く。
朱美さんはワインを少しずつ飲んで、わたしのことをじっと見ている。手元の雑誌のページはほとんど進んでいない。
「なに……?」
「愛ちゃん、かわいいなあと思って」
いつも朱美さんはそう言ってくれるけど、わたしには自信がない。
「かわいくないよ。髪の毛も癖っ毛だし、顔もそんなに良くないし、スタイルも……」
「そんなの、中学生で気にすることじゃないでしょ?」
「でも周りの子はみんな大人っぽくてさ」
「愛ちゃんはまだ成長途中なんだから、そのうち、そのうちよ」
ふっ、と笑った吐息がわたしの鼻に届いた。
甘い吐息と、お酒の匂い。
なんだか顔が暑くなってくる。
「早く大人になりたいなあ。それで朱美さんとお酒飲みながらおしゃべりするの。お洒落なパスタとか食べながら」
「お酒? だめよ、愛ちゃんはお酒なんか飲んじゃ」
「だってすごく美味しそうなんだもん」
朱美さんは、緑色のボトルをくるくると手で回した。
「これはね、特別なお酒なのよ。だから、愛ちゃんにもあげられないな」
「一口だけでもダメ?」
「ダメ。私、捕まっちゃうわ」
「でも、海外だとさ、みんなワイン飲んだりするんでしょ?」
「それは宗教の関係でね」
「わたしもお酒飲んでみたいな〜。もう大人だよ、身体は」
「だ〜め。飲むのはダメよ、まだ」
「作るのはいいのに?」
朱美さんはくすくす笑った。
「約束。愛ちゃんが大人になったら、私のとっておきのワイン、飲ませてあげるからね。ハタチになったら、お祝いに」
「約束だよ?」
「ええ」
その後、いつも通りにわたしたちはソファの上に座る。
朱美さんは小さな注射器を持ってきて、わたしの二の腕を、消毒用のアルコールで拭いてから、針を刺し、ゆっくり血を抜き取る。ちゅーっと、体の中の血が抜かれていくのが感じられて、ちょっといい気分になる。
「はい。終わったよ」
手早く注射器をしまう朱美さん。
わたしは刺されたところをガーゼで押さえながら、その様子を眺めていた。
「そんなに美味しいの、わたしの血って?」
「これまでで一番。もうピアノ教室なんて、しなくてもいいくらいよ」
「ふーん」
朱美さんは注射器を冷凍庫にしまうと、徐にわたしの隣に座った。そして、わたしのことをじっと見つめてから、ワインの香りのするキスをした。
「愛ちゃん、あなたは本当にきれいよ」
「わたしじゃなくて、『わたしの血』が、でしょ?」
「ふふ……どうかしらね」
でも、わたしはまたキスをする。
甘い香りで酔う。
朱美さんがどう思っていても、わたしは今のこの時間が好きだから。
大人の味 王生らてぃ @lathi_ikurumi
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