みんなに守られている-4
その日は、みんなで食卓を囲んだ。佳音の食の細さに胸が痛んだが、少し笑顔が見えたので安堵する。
話の区切りがついたところで、正人は先に家を出た。気が置けない仲間といるはずなのに、落ち着かないのだ。
正人は動揺していた。
佳音の身体に無数の腫れている場所があり、それが人的に加えられた物だと分かった、あの瞬間。自分に沸き起こった嵐のような怒り。制御できない感情。拳に残る痛みは、感情にまかせて振るった暴力の証であった。
『お前の母さん、幽霊みたいだよな。』
小学生の頃だった。誰が言ったのか覚えていない。言った子の顔を思い出そうとしても、黒い影しか浮ばない。
母が、病の苦しみを押して参観に来てくれた翌日のことだった。同級生の一人が、そう言って自分をからかった。その言葉を聞いたとき、怒りが体中から吹き出したようになり、叫びながら同級生を押し倒して馬乗りになり、力任せに殴った。複数の同級生が止めに入ったが怒りは収まらず、男性教員に身体を押さえつけられた。それでも、離せと叫びながら手足をがむしゃらに動かそうとした。
殴られた同級生は前歯が折れ、顔が腫れ上がっていた。
学校に呼び出された母は、ひたすらに罵詈雑言を浴びせる同級生の両親に謝り続けることになった。
帰り道、母が呟いた。
『カッとなると手が付けられなくなるところは、お父さんそっくり……。』
その声は、悲しそうだった。
父のことは、あまり記憶に無い。小学二年生の時に札幌から東京に引っ越した。それからすぐ、母は心を病んだ。まだ幼い自分と病に伏せる妻を置いて、父はアメリカに単身赴任をし、殆ど帰ってこなかった。
ただ一度だけ、叱られたことがある。
いじめに耐えられず学校をサボり、家にいたのを見つかった。理由を聞かずに腕を掴み、父は自分を叱りつけた。あの時の恐怖と困惑は、生涯忘れることは無いだろう。
白状な父を正人は憎んでいた。しかし、折に触れ、自分が父と似た行動を取ることに気付いてもいた。
また一つ、気付いてしまった。
怒りを制御できない自分。父譲りの悪しき性質。
もしもこれが、愛する人に向いたら、どうなるのだろう……。
うつむきながら、とぼとぼと歩いた。日はすっかりと落ち、外灯の明かりを頼りに歩く。虫たちの声が闇の中に賑やかに響いている。
用水路を渡ったところで、波子に声を掛けられた。波子は駆け寄ってきて、小さな紙袋を手渡してきた。紙袋は温かかった。手に感じる重さと形で、中身がお握りであることが分かった。思わず頬が緩む。
「波子さん、ありがとうございます。」
波子の家の米は、うまい。
「ちゃんと食べないといけないよ。ちゃんと寝て、食べる。それを大事にしないと、人間は弱っていくんだよ。」
正人は、はいとうなづいた。
波子から、何か言いたげな気配を感じた。正人は、波子の顔を見て、少し首をかしげた。
波子は、傷ついただろう。わが子の傷ついた姿を見て、悲しんだだろう。
そう思うと、やるせなくなる。
「正人、さっきちらっと健太から聞いたんだけど、あんた、旭川に帰るのかい?」
田舎の口には戸が立てられない。健太の口の軽さに軽い怒りを感じつつ、頷いた。
「でも、佳音さんの件が落ち着くのは、見届けますから。」
そう言った途端、手の甲をぴしゃりと叩かれた。
「佳音のことはいいんだよ。あんたのことが、心配なんだよ。」
「波子さん……。」
驚いて、波子を見つめる。ふっくらとした頬と、天然の巻き髪が娘とよく似ている。
「佳音のことをみんなが大事に思ってくれているように、あんただってみんなから大事に思われているんだよ。それをわかっているかい?」
「え……?」
正人はその言葉が意外過ぎて、意味をすぐには呑み込めなかった。草むらから響く虫の声がにぎやかで、聞き間違えたのかもしれないと思った。
「樹々が大変なら、やめてしまったらいい。ここで、農家の手伝いでも何でもして生きていったらいい。」
波子はそう言って、正人の手をぎゅっと握った。
「あんたが何者だって、正人であることに変わりは無い。みんな正人にそばにいて欲しいと思っているんだよ。」
波子の手からも、お握りからも温かい熱が伝わってくる。正人は溢れてくるものを止めることが出来なかった。自分にはそんな風に他の人から思われるような価値はない。そう思うけれど、波子の言葉を否定することも肯定することも出来ないでいた。
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