終章

終章

 目を開けると、天井に梁が見えた。身体には毛布が巻き付いていて、お陰で寒さは感じなかった。


 明るい日差しに目がくらむ。


 ここは、どこだ?

 ぼんやりと見渡し、工房であることに気付く。

 

 え、でも今寝ているのは床じゃない。

 身体を起こし、サーモンピンクのレザーを見てさっと血の気が引く。


 何故このソファーがここに?


 このソファーは、美葉が京都に行ってすぐに作った、美葉と自分のためのソファーだ。美葉が帰ってきた時に、自分の隣にいて欲しいという願いを込めて。


 誰にも見つからないように、倉庫に隠しておいたはずなのに。


 はっきりとしてくる頭に、記憶が蘇ってきた。


 そうだ、昨夜美葉と過ごした。


 美葉に好きだと言われ、自分も好きだと伝えた。その場面を思い出し、顔がボッと熱くなった。


 慌てて正人は立ち上がった。


 「美葉さん、どこですか?」


 ショールームの扉を開け見渡すが、姿が無い。そのまま外に飛び出す。雪の上には、足跡すら残っていない。


 好きだと伝えて、その後は……?何の記憶も残っていない。


 困惑した頭を抱えて、谷口商店に向かう。レジの奥に座る和夫が新聞から目を上げた。


 「正人、お前どこに行ってたんだ。皆探していたんだぞ。」

 そうだった。後で連絡をくれた人々に謝らなくては。頬を掻き、はっとそれどころでは無い事を想いだした。


 「み、美葉さんは?」

 「美葉?もう京都に帰ったぞ。昨日の朝。」

 「昨日の朝!?」


 自分は、どれほどの時間眠っていたのだ?美葉とはあの後、どういう展開になり別れたのだろうか?


 「正人、そのほっぺたの落書きは何だ?」

 和夫が正人の顔を指さしている。

 「落書き?」

 頬をなでるが、何の感触も無い。


 「洗面所に行って見てきな。ついでにシャワーも浴びていけ。」

 「はあ……。」

 言われるがまま、磨り硝子の戸を開けて中に入る。


 洗面所の鏡を見て、驚いた。

 両頬に黒いマジックで大きな渦巻きが書いてある。


 「……えー、何で?」

 頬をなでていると、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。


 画面に、美葉の名前が浮かび上がる。戸惑いながら通話ボタンを押すと、はじけるような美葉の声が聞こえた。


 「そろそろ起きる頃かなーと思って。」

 そう言って笑っている。

 「美葉さん、あの……。」

 あれは、もしかして夢ですか?


 「夢じゃ無いよ。」


 心の声に、美葉が返事をして驚く。

 「夢じゃ無いからね。ちゃんと正人さんの気持ち、聞いたから。証拠、残っているでしょ?」


 証拠……?


 「証拠って、ほっぺたの……。」

 電話の向こうで、美葉が声を上げて笑う。


 「待ちわびていたシーンなのに、寝ちゃうってどういう事よ。」

 怒った声で美葉が言う。その言葉に正人は気が動転した。


 「ね、寝ちゃった?僕、寝ちゃったんですか?あの場面で!」

 「そうだよ!最低最悪だよ!」

 「そ、それは……、本当にすいませんっ!」


 スマートフォンを耳に当てたまま身体を折り曲げ、そこにいない美葉に謝罪する。正人の耳に美葉の笑い声が響いた。


 「もう一回やり直し!」

 美葉の大きな声が鼓膜を揺する。


 「お正月には帰るから。もう一回やり直してね。今度は正人さんの方からよ。」

 笑いながら美葉はそう言った。


 京都の空の下で、美葉が今自分と語り合い、笑っている。


 二人の間にある物理的な距離は遠い。けれど、心は触れあっているかのように近い距離にある。

 美葉の弾けるように明るい笑い声を耳元で感じながら、胸がじんと熱くなる。


 今度は、この空の下で、美葉に伝える。愛していると言うことを。


 「はい、分かりました!約束します!今度はちゃんと僕の方から、美葉さんのことが好きだって言います!」

 うわ!もう既に言葉に出してしまったじゃないか!


 正人は自分の言葉に赤面し、右往左往する。


 「うん。約束だよ。」


 美葉の声が聞こえる。間近にあるその声に、鮮やかな笑顔が浮ぶ。


 洗面所の鏡に、澄み渡る空が映っている。正人はあるものを見付けてはっと窓際に駆け寄った。


 一羽の尾白鷲が羽を広げて上昇気流に身を任せていた。二メートル近くある大きな翼と、青空に溶けそうな白い尾。絶滅危惧種の渡り鳥だが、石狩川沿いに留鳥している個体があるらしい。


 力強い姿を、眩しく見つめる。その強さが、自分にも宿るようにと願いながら。


 いつか愛する人を守れる力を、手にすることが出来ますように。

 

 「約束します。」

 声に力がこもったが、それはまだ張りぼてなのだ。正人は遠く空に消えていく尾白鷲を見つめながら、強く生きることを心に誓った。



 〈了〉

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