罠-2

 数日前まで住んでいた部屋は、荒れ果てていた。テーブルが斜めを向き、椅子が倒され、パソコンや本が乱雑に床に散らばっている。


 自分がいなくなり、小野寺が一人で暴れたのだろう。


 本来ならば自分の体に向けられていた暴力が、向ける相手がいなくなり物に向かったのか。それとも、いなくなったことそれ自体への憂さを、物に向けたのか。


 今度は自分の番だ。


 体が震える。

 小野寺が近づいてくる。佳音は、体を固くし、両方の目を閉じた。


 殴られる。


 腹部に力を入れる。

 しかし、予想に反して小野寺は佳音を強く抱きしめた。ほっと、力が抜けた。

 小野寺の体温を感じる。


 暖かい。


 「佳音、帰ってきてくれて、よかった。」

 優しい声が、耳元で囁く。

 「心配したんだよ。この一週間、気が気ではなかった。」

 「……すいません、でした……。」

 温かな胸に抱かれて、安心感がこみ上げてくる。

 洗脳なんて、嘘だ。この人は、優しい人だ。自分を守ってくれる人だ。波子や健太、陽汰、正人、悠人の顔が浮び、心が敵であるというレッテルを貼ろうと動いた。


 身体が力を失っていく。


 「看護部長に詳細を聞かれたが、僕の見解を信じてもらえたよ。君は毒親に自宅監禁され、職を取り上げられてしまったのだろうと。養育環境が悪いのが心配で、できれば助けてあげたいと、人事の職員に協力してもらった。佳音を救い出せて、本当に良かった。」


 毒親。


 その言葉がボンヤリした頭を強く殴打した。

 母の笑顔が鮮烈に頭に甦る。


 ――私の母を、侮辱するな。


 沸き起こる怒りが、腹の底から力を生み出した。脱力した体がよみがえる。


 『暴力という恐怖とやさしさという弛緩でコントロールしていきます。』


 正人の言葉を思い出す。安心するところではない。予想外に暴力を振るわなかっただけのこと。

 佳音は、両手で小野寺の体を押しのけた。


 「病院を辞めるのは、私の意思です。私が家にいるのは、閉じ込められているからではありません。私の意思で、家にいます。……母が、看護部長に伝えたことが、真実じゃないですか。小野寺さんは、私を暴力で服従させていたのでしょう?」


 言葉が終わる前に、小野寺の平手が頬を打った。衝撃で、体が飛ばされて床に倒れる。


 頬の痛みに手を当てて耐え、顔を上げた。

 「いいんですか?顔を殴って。暴力をふるっていることが、ばれますよ。」

 小野寺の顔が、怒りにひきつった。立ち向かうように、立ち上がる。


 「私の親は、毒親じゃない。世界一やさしくて暖かい母です。毒親なんて、言わせない。」

 「黙れ。」

 小野寺が髪を鷲掴みにする。

 「お前は、私に見捨てられたら看護師になれないのだぞ?」

 「かまいません。殴られるくらいなら、看護師になれなくても構わない。」


 「この恩知らずがっ!」


 髪を掴んだまま引きずり回され、地面に転がされる。腹に、小野寺の足が食い込む。衝撃で口の中を嚙み切った。何度も、同じ場所を蹴り上げられる。


 いつもよりも激しい殴打だ。

 腹圧をかけて耐える。


 内臓が破裂してしまうかもしれないな。


耐えながら、ぼんやりと考えた。もしかしたら、死んでしまうかもしれない。


でも、それでもいい。間違えているものに服従しておびえて生きるくらいなら、抗って死んだほうがいい。


 痛みに意識が遠退いていく。


 ぼんやりと錬の顔が浮かんだ。


 ああ。

 もう一度会いたかった。

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