見失ったもの

見失ったもの-1

 もう行くまいと思っていたパン屋に出かけていく。


 看護師長である小野寺は平日の日勤帯は必ず出勤している。だから、平日の夜勤明けの日に、携帯電話を自宅に置いておけば自分が外出したことに気付かれることは無いはずだ。


 錬にもう一度連絡先を聞かなければ。携帯電話に記録するのでは無く、手帳の片隅にかいておけば良い。もう絶対にバレないように、消されないように。


 店に入りいつものように中を覗くと、しばらくして錬の姿が見えた。声を掛けるのを躊躇っていると、レジにいた女性が錬の名を呼んだ。


 「錬君のお友達でしょ?」


 中年の女性は含み笑いを見せた。佳音は小さくすいません、と呟く。錬は女性に小さく頭を下げてから、親指で後方のドアを示した。


 急いで店の裏に回る。

 店の従業員には自分の事を知られているのだ。あまり頻繁に来たら芽依に怪しまれてしまう。


 連絡先を聞いたら、もう来ない。

 佳音は自分にそう言い聞かせた。


 錬は裏口を出たところで笑顔で自分を待っている。

 「夜勤明けか?お疲れ様。」

 微笑む錬に、頷いてみせる。ほっと、心を軽くしてくれる笑顔だ。


 もう、見られなくなると思うと、痛いほど寂しい。けれど、錬のそばには、芽依のように明るくてまっすぐな娘がいたほうがいい。


 連絡先を、聞くだけ。

 佳音はもう一度心にそう誓った。


 「錬。」

 佳音が声をかけた時、錬ははっと顔を上げた。目を細めて、佳音の後ろを凝視している。


 背中に、ぞわりと寒気が走った。

 あるはずのない、気配を感じたからだ。


 「佳音。」


 自分の名を呼ぶ、小野寺の声。


 「この人は、もしかしてれいこちゃんかな?」


 そっと、両肩に小野寺の手が乗る。そこから体温が消えてなくなっていくような気がした。錬は困惑と疑問の混ざった眼を自分の後ろの人物に向けていたが、急に笑い出した。


 「なにお前、まだあのおふざけ表示のままにしてたのかよ。」

 小野寺の手が、ピクリと動いたのが分かった。


 「女の名前で登録して、俺を笑わそうとしてたんだろ?いまいち面白くないからやめれって、言ったべや。」


 軽い調子でさらに笑った。そして、ふと笑顔を消し、きつい目を小野寺に向けた。

 「あんた、佳音の彼氏?」


 「ええ、そうです。佳音さんとお付き合いをさせていただいている、小野寺というものです。失礼ですが、あなたは僕の彼女とどういう御関係ですか?」


 錬が一瞬奥歯をかみしめたのが分かった。それから、取り繕うように笑う。

 「幼馴染ですよ。物心ついたときには隣にいたくらい、長い付き合いです。」

 「そうですか。」

 穏やかに、小野寺は応じた。錬は笑顔を顔に張り付けたまま、小野寺に言った。


 「佳音は俺の大事な親友なんで。親友を泣かすようなことしたら俺、許さないんで。」


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