<case : 35> dark place - 敵

 何もない暗い場所にいる。ヴェルの足は沼のようにドロドロとした黒い水の中に沈んでいる。冷たくも熱くもないが、動こうとしても動けない。


 目の前にはキオン、それにミコト長官。そして、冴継が立っている。


 後ろを振り返ると、あの機械人が銃を持って立っている。逃げろと叫んでも、声が出ない。三人の目はヴェルを捉えていないかのように、明後日の方向を見ている。機械人が銃を向ける。


 その時、どこかから自分を呼ぶ声がする。


 繰り返し、自分の名前を呼ぶ声が……あの声は……。


////


 うなされながらヴェルが目を覚ますと、最初に目に飛び込んできたのは塗装が剥がれ落ちてすっかり黄ばんでしまった天井の壁だった。


 ボロボロのソファに造られた急ごしらえのベッドで寝かされていたが、ここがどこなのか分からずゆっくり辺りを見回す。


 自分が寝ているソファの前にテーブルをはさみ、もうひとつソファがある。壁際に枯れかけの植物の植木鉢と、その横に木製のドア。


 そのドアが乱暴に開いて、恰幅の良い中年男性が入ってきた。もじゃもじゃの髭に覆われた顔を搔きながら、眉間にしわを寄せている。分かりやすく不機嫌が顔に出ている。


「お、兄ちゃん、目が覚めたか」


 そう言って、男は喉の奥をグルグルと鳴らすと、ドタドタと、元きたドアから外に出ていく。カンカンカン、と誰かが走ってくる音が聞こえ、次に部屋に入ってきたのはノアだった。


「ヴェル……」


 ノアはヴェルの傍に駆け寄って、身体の状態を確認する。ヴェルは今頃になって、腹部に分厚い包帯が巻かれていることに気づく。他にも、腕にテーピングの跡がある。


「気分はどう?」

「ああ、悪くない。君がこれを……?」


「ええ。私は一通りの医療知識を持っているの。傷の縫合と輸血は私がやった。あなたの身体はマキナスの素体だから、致命的な傷には自己修復プログラムが走ろうとしていた。でも、あなたの組織の人間は、あくまでもあなたを人間として扱おうとしたみたいね。プログラムの起動に歯止めがかかっていたから、一時的に解除させてもらったわ」

「それで……俺はどれくらい眠ってた?」


「ざっと三日ってところかな。ちなみに今は夜だよ」

「三日……? くそっ……」


 そう言いながら身体を起こそうとすると、腹部に激痛が走り、表情を歪ませる。


「ちょっと、せっかく塞がり始めてる傷が開くじゃない。もう少し寝てて」

「そうも言ってられない……ここは?」


「クシナダ配達の休憩室よ。この人はツゲ所長。倒れたあなたを担いでここまで運んでくれたの」

「よう。生きててよかったな」


 ツゲと呼ばれた大男は、蓄えた顎鬚で指を遊ばせながら言った。


「このノアちゃんが駆け込んできて、助けてくれって言うもんだからよ。見に行ったらお前さんが血まみれで倒れてやがる。最初は死んでるのかと思ったが、息があるからここに運び込んだ。こんな下層と最下層の狭間で血ィ流してぶっ倒れてんだ、お前さんら、ワケありなんだろ? 俺たちも仕事柄、気安く医者を呼べねえんだが、医療用の血液パックがあるのを思い出してな……」

「どうして、そんな物が」


 ヴェルが質問すると、ノアが続きを引き継いだ。


「届け先で受け取ってもらえなかった物の中に残ってたんだって」

「安心しろ、ライセンスを見たが珍しく純正品だった」


 そう言ってツゲはゲラゲラと笑った。


「俺もこんな商売やってる人間だ。お前さんらが、どうしてあそこで倒れていたのかは聞くつもりはねえ。ただ、ノアちゃんに聞いた。うちのレイカと何か関係があるのか?」


 ヴェルは今度こそ、ノアに支えられてゆっくりと身体を起こす。


「俺たちは、そのレイカさんがクラブで一緒にいた男を追っている」

「その男は、危険人物なの」


 ノアが補足する。


「彼女、ここ最近、何か変わった様子はなかったか?」


 ヴェルが尋ねると、ツゲは何かを考えながらゆっくり移動して、ヴェルの向かいのソファに勢いよく腰かける。ソファの骨が痛々しく軋む音が部屋に響く。


「変わった様子も何も……」


 ツゲは頭をぽりぽりと掻きながら、困った表情で続ける。


「ノアちゃんには言ったが、レイカは今日で無断欠勤五日目だ」


 ツゲによると、タケシというもう一人の従業員に自宅を見に行かせたが、緑川レイカは不在だったという。また後で話をと言って、ツゲは荷物の持ち込みに対応するために休憩室から出ていった。


「ファントムの長官が逮捕されたニュースを見たわ」

「ここに来るまでにも、仲間が捕まった」


「キオンさん、残念だった」


 ヴェルは驚いた表情でノアを見つめる。どうして彼女がキオンを知っているのか。

 察したノアは一呼吸、間を置いて、パーカーの内ポケットから黒いコードを取り出した。それは、ヴェルもよく知っている道具だった。


「ごめんなさい。あなたの身体があまりに特殊だったから、間違いがあってはいけないと思って、治療する前にひと通り調べさせてもらった」

「〈ストーキング〉か? うちのは死体にしかできない」


「私のは〈第六科〉直系の技術。生きている人間にも、マキナスにも対応している。あなたたちのは、それを真似た、言わば模倣品のようなもの」


 自分の記憶を探られていい気はしないが、命を助けてもらって文句を言うのも筋が違う。


「なら、俺の記憶を辿って何か得た情報は?」

「言っておくけど、あなたの記憶のすべてを覗いたわけじゃない。アクセスしたのはあくまで身体データであって、その時にいくつか記憶の断片が紛れ込んできただけよ」


「別に、怒っちゃいないさ」

「ならいいけど……。あなたは、テンペストと国家安全保障調整局が連携してると思ってるでしょ」


「実際、その両方が襲ってきた」


 ノアがヴェルの寝ているベッドの足元に座る。


「繋がってるんじゃないわ。テンペストも国家安全保障調整局も、ひとつの組織で、一人の人間が取りまとめているの。それが、おそらく私たちが追っている人物よ」

「おい。片方は、反人工生命主義者がひしめく過激派のテロ組織で、もう一方は影の公的執行機関だぞ。そんな正反対の組織を、どうやって一人の人間が……」


「できる人物が一人だけいるの。篠塚サイバネティクスの創業者、篠塚宗次郎よ」


 篠塚宗次郎──その名前を、ヴェルは反芻する。キオンと地下で見た資料の中に、その名前があった。人工生命体創造計画の一翼を担った科学者で、アルファの生みの親……。


 ヴェルの思いつめた表情を見て、察したノアが先を続ける。


「あなたの想像通り、資料にあったアルファという個体は、アイザックのことよ」

「だが……」


 だが、篠塚宗次郎は二百年前の人間だぞと言いかけて、ヴェルは言葉を止める。


 最初はミコトの命令で、テンペストの構成員が入院する病院に向かい、そこで得た情報から篠塚サイバネティクスの所有する工業プラントへ向かった。その地下にあったのは、テンペストの地下研究施設で、おそらくアイザックはそこで目覚めた……。


 ゆっくりと、全ての点が線で繋がっていき、さらに、キオンが言っていたことを思いだす。


 ──自分はこの事件に、二百年前の人間が絡んでいる気がする


「生きてるのか……」


 確信に至ったヴェルを見ながら、ノアは頷いた。


「彼は、自身が開発した人格転移と呼ばれる違法技術で、人間でありながら自身の意識をデータ化して、記憶媒体に保存できるの。設備と人員さえ整えれば、あらかじめ指定した時代に自身を覚醒させるのは、彼にとって難しいことではないわ」


「それで、目覚めた篠塚がアイザックを復活させた、と」


「恐らく〈外の世界〉のどこかに、アイザックの人格データが入った記憶媒体を保管していて、それをサルベージしたのね。篠塚サイバネティクスは、ドームの外殻素材で財を成した大企業だもの。抜け穴を造るタイミングはいくらでもあるはず」

「調整局とテンペストも、篠塚が立ち上げたのか?」


「調整局の出資者リストに、篠塚サイバネティクスの名前があったわ。調べると、毎年甚大な資金提供を行ってる。目覚めた自分一人を送り込むくらい、さぞ簡単だったでしょうね。そして、篠塚サイバネティクスの地下を見れば、テンペストと繋がりがあったのは確実。でも、あなたも知っての通り、反人工生命主義組織というのは、お金だけで動かせるものではない」


 ヴェルは頷いた。ミコトとも同じような話をしたのを思い出す。反人工生命主義者というのは、横のつながりが強いのが特徴だ。金だけでスタンスを変えたりはしない。


「思想の一致よ」


 そう言って、ノアが一度言葉を切る。


「テンペストの掲げる目標と、篠塚宗次郎の二百年越しの計画は、ともにマキナスを必要としない社会を作り上げるという点で一致していたの」

「マキナスを必要としない社会……」


「そう。マキナスに代わる完璧な人工生命体を創り上げて、社会のシステムを根本から変えること。それが、篠塚宗次郎の目指す世界」


 ノアの言葉に、ヴェルは唖然とする。マキナスの生みの親の一人でもある篠塚が、マキナスを不要と見做し、反人工生命主義組織を隠れ蓑にして、次世代の人工生命体創造を計画していたというのか。それも、二百年もの時を生き延びて。


「……これまでに生まれたマキナスはどうなる?」

「彼にとっては、マキナスは失敗作なのよ。瀬田ダンジがどうなったか、あなたも見たでしょ?」


 倫理規定の壁を越え、自死するマキナス。それを引き起こすのは……。


「〈カオティック・コード〉か」


 ノアと会ったことで、敵は明確になった。だが、こちらはノアと負傷している自分だけで、二人とも追うどころか追われる側だ。


 国家安全保障調整局の厚い壁に守られている篠塚宗次郎に近づくために、どうすればいいのか。それだけではない、囚われた仲間たちも助け出さなくてはならない。


「何か打開策は──」


 ヴェルがそう言いかけた時、ツゲが血相を変えて部屋に入ってきた。


「レイカが、見つかった」

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