<case : 05> monster - 傷痕

 その日は、反人工生命主義組織、名前は確か……〈テンペスト〉。その末端構成員を口説いて、ファントムの情報屋にスカウトする工作任務だったはずだ。


 下層にある、迷路のような路地の中にある雑居ビル内のバーで、もちろん違法経営のバーだが、そこで取引を持ち掛ける予定だった。


 時間に少し遅れてバーにやってきた構成員の男は、冷や汗でシャツをぐっしょりと濡らしてガタガタと震えていた。何かあったのかと聞くと、男は失敗したと言った。


 俺が何を失敗したのかと聞くと、内通がバレそうになり、疑いを晴らすために組織に回ってきた新薬の実験台になったと言った。何ともないと思ったが、違った、失敗だったよ。


 そう言った次の瞬間、男の身体に異変が起こった。


 ボコボコと音を鳴らしながら、男の身体は突然変異を起こしたように肥大化、硬質化して、膚は灰色へと変色し、顔は原型を留めず肉食獣のようになり、牙が生えた。


 化け物、もしくは怪物。


 俺を含め、その場にいた全員が変わり果てた男の姿を見て、何かしら同じようなことを思ったはずだ。


 怪物の瞳は鈍い金色に輝いていた。誰もがその突然の事態についていけず、怪物が思い切り振った左腕がバーカウンターを弾けさせるとともに、俺の身体を直撃して吹き飛ばした。内臓が潰れる音と、あらゆる骨が軋む音がして、俺は壁に叩きつけられ、意識を失う。


 そして、奴の繰り出す次の一撃が、不意を突かれたアリシアを直撃する。


///


 夢はそこで途切れ、ヴェルはベッドから飛び起きる。


 シャツが汗でぐっしょりと濡れている。暗い廊下を歩いてシャワー室に行き、冷たい水を浴びながら、鏡で自分の顔を見つめる。赤と青のオッドアイ。マキナスの赤、人間の青。


 ファントムに入る際に、もし何らかの理由によって自身が助からない場合、ヴェルはその身体を実験体として組織に提供する旨の承諾書にサインしていた。


 そのため、瀕死の重傷を負ったあの夜、マキナスの素体を移植されるという前代未聞の実験を経て、奇跡的に一命を取り留めた。


「このサインはお守りみたいなもの。もしかしたら、助かるかもしれないじゃない」


 笑いながらそう言っていたアリシアは、即死だった。それ以来、ヴェルの心の塞がらない穴は、日常の裏で、今も少しずつ開いている。


 濡れた髪を拭きながら部屋に戻る。隅に、黒い箱が置かれている。中には、身寄りのなかったアリシアの遺品が入っている。悪い気がして、中は見ていない。


 瀬田ダンジの暴走から三日。デバイスがコール音を鳴らす、キオンからだった。


「ヴェル。長官がお呼びだ。本部まで来てくれと」

「分かった。あれから進展は?」


「いくつかある……が、ちょっと複雑なんだ。会ったときに話そう」

「了解」


 通話を切り、着替えを済ませ、本部へ向かうために自宅を出る。


「よお、誰かと思ったらヴェルじゃないか。久しぶりだな」


 下層の集合住宅のエントランス前で、アル中のアルがヴェルに声をかける。この辺では有名なホームレスで、いつもこの辺りをふらふらと行き来して、気に行った場所で寝泊まりしている。


「アル。こんなところで寝ていたら風邪ひくぞ」

「あぁ……そりゃぁ分かってる。だがな、俺ぁもう行く場所がねぇ」


 そう言ってアルは下品に笑いながら、酒の入ったボトルをあおった。口周りに無造作に生えた髭が、廃棄されるマキナスの素体から造られる人工酒で濡れている。


「日雇いでも何でもいいから働きに行け。いいか、これは命令だ。ちゃんと働くなら、帰りに人工肉のパイを買ってきてやってもいい」


 ぬぅ、とアルが呻く。人工肉のパイとその日一日の労働が彼の中で天秤にかけられているようだった。あの様子なら昼からでもどこかしらの日雇い現場に働きに出るだろう。


 入り組んだ路地を抜けて、細い一本道に出る。


 ここは、かつてアリシアとの待ち合わせ場所だった。アリシアはいつもヴェルより先にこの場所に来て、瓦礫の壁を登った所で景色を眺めているのが好きだった。そして、遅れてやってくるヴェルに、昼食をおごらせようとした。


 だが、彼女はもういない。


 しばらく歩いて、下層の大広場に出る。朝のラッシュだったので、マキナスと人間が慌ただしく行き交っていた。ヴェルが今いる下層は居住区の割合が高く、ヴェルを含め下層から中層、上層へ向けて仕事に出ていく者たちが多かった。


 居住区が多いことで歓楽街が充実しているのも下層の魅力で、夜になるとネオンの電灯が飛び交い、様々な店が開いて街は夜の顔を見せる。困難な任務を終えた後に、そこで飲む酒がまた美味かった。


 ヴェルは、公人用の専用エレベータに向かった。


 掃除屋は存在こそ影なれど、公共機関の者としてカウントはされている。公人用の専用エレベータは、上、中、下層を分けるドームの構造フレームを一部ぶち抜いて、公共機関に属する者の往来を楽にするために開設された、専用のエレベータだった。


 一般用エレベータで下層から上層に向かおうと思うと、中継の駅がいくつか存在するが、公人用にはそれがなく、大広場から直通で上層に向かうことができる。


 エレベータが上層に着くまでの間、ヴェルは窓からドームの外郭、その向こうにうっすらと見える〈外の世界〉を眺める。


 三次大戦によって、生物が棲めなくなり放棄された世界。


「──次のニュースです。次期ドーム長の第一候補である篠塚サイバネティクス会長、篠塚誠氏が三日前から姿を見せておらず行方が分からなくなっており、警察が捜査に乗り出す方針を発表し──」


 上部に備え付けられたスクリーンで流れているニュースを見ていると、エレベータが上層に到着する。

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