12-2 赤黄色の金木犀の香りがして-琴葉-
陽向に今日歌った曲が好みでないと言われた事は少し残念だった。でもめげる事はなく次の曲は何にしようかななどと前向きに考えながら既に日の暮れた道を歩いた。幾つかの角を曲がり、明かりの灯る我が家の扉を開く。
「ただいまー」
もはや考えもせず口から出る言葉を玄関に置いて自室に入り、荷物を置く。
「まだご飯できないから先お風呂入っといで」
廊下の向こうから聞こえる母の声に「はーい」と一つ返事だけをして寝巻きとスマホ持って浴室へ向かう。私は入浴の時に毎日違うプレイリストで音楽を流しながら風呂に入る。なので入る前はいつも今日はどれにしようかと頭を捻る。
一日の疲れを流した後、今日起きた出来事を振り返りながら浴槽に浸かった。身体を包む温度が芯まで行き届き、この上ない心地よさに身を預けて何曲か流れるのをぼんやりと聴く。
風呂を出て、まだポカポカと火照った身体で香ばしいビーフシチューの香りが漂ってくるダイニングルームに入るとどこか空気が張り詰めているように感じた。
手を合わせて「いただきまーす」と一言呟いてからスプーンを取り、食べ始める。が、何故か両親は二人とも料理に手をつけない。
「どうしたの?食べないと冷めちゃうよ」
そう私が言うと父が「お、おう」と力のない返事をしてビーフシチューを口に運ぶ。二人とも食べ始めたはいいが今度は無言で黙々とスプーンを動かすばかりだ。やはり今日は何かがおかしい。
「どうしたの二人とも、喧嘩でもしたの?」
「いや、そうじゃないんだが、あのな、実は琴葉に一つ言わなければならないことがあるんだ。」
嫌な予感が当たったと思った。家に入った時の母の声色から感じていた予感は、どうやら間違いでは無いようだ。この雰囲気でこの切り出し方は絶対に悪い話だと現実でも物語の中でも相場が決まっている。
一体なんだろうと一瞬のうちに様々な可能性が頭を駆け巡る。だが、それは答えが出る前に父の口から告げられた。
「少し先のことにはなるが、引っ越すことになった。」
「え、」
カチャン、という音を立ててスプーンが手から抜け落ちた。
「すまないな、琴葉。」
私は呆気にとられることしかできなかった。父は淡々と続ける。
「父さんの会社がある横浜の社宅に空きが出て、入らないかと言われてな。条件もとても良いし、何よりここは不便だしな。俺もずっとここに住んできて愛着はあるが、琴葉の将来のことを考えてもこんな
なぜ事が決まる前に話してくれなかったのか、学校はどうなるのか、今の学校の友達とは別れなくてはならないのか、なぜ私の為とか言ってそんなことをするのか、私は都会なんて行かなくても充分やっていけるのに。
なぜ、どうしてという疑問と怒りが交互にやってきては沈んで行く。食事をひっくり返して家を出ても良かったのだが、内心は案外冷静でそんなことをしようとは少しも思わなかった。それでもせめてもの抵抗で、そこから一言も言葉を発さず黙々とビーフシチューを食べ続けた。父が
気づけばボロボロと涙が溢れていた。両目から伝う大量の泪が口に入り、ビーフシチューが先程よりもしょっぱい。ぼやける視界の向こうに両親の困惑する顔が浮かぶ。
「ごめ…な琴葉…んなにな……は思ってな…ったんだ。もう決まっ……と……だ」
泪で溢れる目と一緒に耳の機能も麻痺したのか何を言っているのかよく聞こえないがそのおおよその内容で怒りが湧いてくる。何がこんなになるとは思ってなかった、だ。意見の一つや二つ聞いてくれたって良かったのではないか。
思考は堂々巡りになり、考えることを放棄した。こんな状態でありながらも食べ終わった皿を律儀に下げ、いつもと同じように洗おうと思ったが出来そうもなかったので自室に戻った。
一人になると止まるなどと訳もわからぬ期待をしていたが布団に潜り込んでも涙は止まらなかった。むしろ大粒になった雫が布団に染み込んでいく。
楽しく、幸せな日常にもいつか終わりが訪れると覚悟はしながら過ごしてきたつもりだったが、こんなに早く来るとは思っていなかった。何かが終わるということ程悲しい事はない。
こんな絶望感を味わうのは久しぶりだ、とふと客観的に思った。布団から抜け出してベッドの上に大の字になり特に何があるわけでもない天井を眺める。思考の滝に打たれ続けた脳は次第に飛沫をあげて白くなり、気づいた頃には眠りについていた。
【赤黄色の金木犀の香りがして】
Inspired by 赤黄色の金木犀(フジファブリック)
作詞:志村正彦
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