7-1 あの空をただ眺めている-陽向-

 前回、中央公園で琴葉と時間を共にしてから一週間が経った。

 少しずつ、遠くに見えていた夏休みの背中が大きくなってきて、その度に蒸し暑さが増していく。

 今日も今日とて雲ひとつない快晴で、美術室の窓は全て開け放っていても水筒が手放せない。

 放課後に入り一時間が経とうとしている。時計の針は三時半を回っているが、今日はまだ彼女はここに姿を見せていない。


 今日は琴葉はいないのか、とぼそり独りごちて黙々と水彩絵の具でスケッチブックに色をつける。

 彼女の力を借りて書いている”あれ”はまた彼女の歌を聴いたときに進めようと思っているので、今日は別のページに向かっている。彼女と描く”大作”を進める合間も、スケッチブックのページはどんどんと消費されていく。

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 トンと肩に触れるものがあり振り返ると彼女がいた。


「あおいさ、、こ、こ琴葉、今日はもう来ないかと思ったよ」

 名前呼びにはまだ慣れることができない。


「お、寂しかったりした?今日はねー、海に行こうと思ってみんなが帰る時間とずらしていたんだよね」


「べ、べ、べ別に寂しくはなかったけど、そうなんだ。確かに海に行くとなると一緒に帰ることになるしね、そ、そ、そそうなったら困るのは琴葉だ」


「そうなんだよねー。まあとにかく、この間みたいにさっさと荷物まとめてよ!今日はそのまま帰ることになるだろうから全部持ってね」


 水彩絵の具などを片付け、机の上に散らかしていた教材を纏め、教室を出た。階段を降りて表門を抜け、歩いて五分ほどの役場前のバス停へと向かう。

 彼女は今日は鞄を背負い、ギターは右手に持っている。


 バスには他の乗客が二人いるだけで比較的空いていた。一番後ろの広くなった席の端に座った。彼女も隣に座る。今までは意識したことがなかったが、これではまるでカップルのようではないか、と思い少し恥ずかしくなる。誰が見ているわけでもないのに。火照った顔は窓の外を見ることで誤魔化した。


 バスが30分ほどかけて田舎道を抜け、大きなJRの駅がある栄えた町の中心部まできたところで下車した。

 国道が走る高架下を抜けると景色が開け、広がる青い空と海に息を呑む。


「海だーっ!!」


 彼女はまるで子供のようにはしゃぐ。「海が近くにあるとはいえたまに来るとテンション上がるよね〜」と、いうことらしい。

 まあ僕も、こういう開けてどこまでも遠くが見えるような場所というのがワクワクするというのは分からないでもない。



 足首まで水に浸かってみたり、砂に落書きをして遊んでみたり、本当に子どもみたいなことをして時間が過ぎていく。


 一通り楽しんだところで砂浜に座って今日の目的を実行する。

 既に日は傾いているが蒸し暑さはそのままで、夕凪の時間帯に入っているのか風はない。


 彼女がギターを取り出し、音を鳴らす。やはり場所によって聞こえ方が全然違う気がする。海で聞くと爽やかさが増す。



 彼女の歌いはじめた曲は初めて聴くものだったが、僕の胸の中に、スッと音も立てずに入り込んでくる。


『凪いだ海 沈む景色 僕と君 同じ空を

 同じ瞳で 一つの星で もう夏だねって笑い合って あの空をただ眺めてる』


 いつも本当に良い曲を選ぶな、と思ったが彼女の選曲が良いのか、歌が良いのか、僕には分かりかねる。ひょっとするとそのどちらもかもしれない。

 だけど彼女の歌は僕の心を色づけてくれる。それは春にに出会った時から季節を過ぎても変わらない。


『今日もいつもと同じように 風に夏の匂いがするんだ

 当たり前を失った世界が当たり前になるだけだから

 大切なことは選べ 思い出は底は仕舞え

 君はいつもそこにいるよ』


 僕は独りで毎日を過ごすという”当たり前”を失い、週に2度過ごす彼女との時間が当たり前になってしまった。だけど今はそれを幸せと感じる。

 この当たり前はいつまで続くのだろうか。君がいつも音楽室にいてくれるのは、いつまでなのだろう。そんな思いが脳裏をよぎる。

 今僕は、これまで眩しすぎて直視することのできなかった”青春”の一歩内側に僕は立っている。

 それはたった一人の、君のおかげなのだ。


『心のずっと奥のあの夏を

 君と二人描いたあの夏を』


『この夏』が『あの夏』に変わる瞬間は必ず来る。だからこそ、今この瞬間をより鮮明に描きたい。


 ララララ ララララ ラララララ〜


 アウトロの彼女のハミングが、広すぎる世界に響き渡る。僕はスケッチブックを開き鉛筆をとる。心地よい歌声が耳に届く。無意識のうちに手が動く。


 ラララ ララララララ ララララ。


 世界が、蒼い。その全てが、僕が描く線と似ている。山が、海が、川が、道が、空が、駅が、


 ——全てが僕の手の内にある。


 この一本の鉛の入った棒と、一枚の紙きれさえあれば僕の日常は作品へと変わる。彼女との時間は永遠に変わる。日常の全てをたった一枚の写真で切り取ったような絵が、構図が浮かぶ。揺れる水面は止まる。流れる雲も止まる。川のせせらぎは聴こえない。森のざわめきも聴こえない。

 ただ、彼女の歌声だけが聴こえる。

 ただ、彼女の歌声だけが聴こえる。

 ただ、彼女の歌声だけが聴こえる。

 ただ、彼女の歌声だけが聴こえる。



 ただ、彼女の歌声だけが聴こえる。

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