第4話

 右隣の塚本は吉塚にはやはり他の教師達とは少し違って見えた。一番の違いはしゃべらないことだ。一日黙って過ごしている。吉塚も無口で、自分から人に話しかけることは用事を除けばめったにないが、彼には職場に同じ大学の同期生が二人おり、少なくとも彼等は必ず話しかけてくるので、一緒に食堂に昼食を食べに行ったりして、一日黙って過ごすということはない。塚本の場合は自分から他の教員に話しかけることはないし、また塚本に話しかけてくる教員もいない。黙って何をしているかというと、教材研究をしたり、本を読んでいる。何もしないでいるということはない。もっとも、話す相手のいない塚本が何もしないで座っていると、いかにも孤立している印象を与えるので、それを避けるためにいつも何かをしているのかも知れない。

 塚本は確かによく本を読む男だ。それで結構充実しているようでもある。いつか授業を終えた吉塚が椅子に腰を下ろすと、隣で本を読んでいた塚本が、「これ、読ませてもらっています」と声をかけてきた。見ると、吉塚が本立てに置いている宇宙論の平易な解説書だ。吉塚は「ああ」と頷いた。日頃話しかけてもこないのに、勝手に他人の本を読むなんて、という反発が吉塚の胸に動いたのは事実だった。それで、「いいですよ」という言葉は添えなかった。もっとも、その本は数日後に、吉塚と同じ理科の女教師が自分の息子に読ませたいと言ってきたので、彼は貸してやった。それからしばらく経った頃、塚本が、「宇宙論の本が消えてしまいましたね」と、吉塚の本立てを眺めながら苦笑いを浮かべて言った。吉塚が事情を言うと、「ああ、そうですか」と頷いた。それで疑問が晴れたという表情だった。

 塚本は年上の人間としてのプレッシャーをあまり感じさせないという点では、隣にいて気楽だと吉塚は思う。職場では年齢の差が地位の差のように通用する面がある。年上の者には敬語を用い、態度も一歩下がったものでなければならない。吉塚達二十代の教員はどこに顔を出しても、「ハイ」「ハイ」と言って頭を下げる態度でなければならなかった。若い教員が年上の教員を煙たく思うのは、年上の教員が自分達に下す評価や見方が、職場における支配的なそれとなるからであり、年上の者との間にトラブルを起こした場合は、十中八九、彼等の側がダメージを被ることになるからだった。塚本の場合はそんな年長者の威圧のようなものはあまりなかった。職場のオピニオンや雰囲気を規定する年長者の一員として、若い教員の態度をチェックしているような雰囲気はなかった。むしろ塚本の態度には若い者への無関心が見てとれた。また塚本自身が年長者のグループからはみ出していた。

 若い教員に威圧を与えない塚本は、それでは若い教員達から好意を持たれているかというとそうではなかった。その理由は吉塚には理解できた。学校の仕事に何らかの意味で情熱を覚え、あるいは将来に向けての野心を抱いている若い教員にとって、教員の輪から自らはみ出ようとしているかのような塚本の態度は、やる気のなさ、無責任さの表れなのだ。クラスも部活も担当せず、校務分掌は研修部という最も仕事の少ない部署に属している気楽な立場の塚本が、我関せずとばかり他の教員に背を向けて本など読み耽っている様子は、吉塚としても好意の持てるものではなかった。吉塚はバスケット部の顧問もしていた。部活動をみることは専任として採用されるための一つの条件なのだ。吉塚はもう県の教員採用試験を受ける気はなかった。一年早く採用された二人の同期生は既に専任になっていた。彼もその後を追うつもりだった。そのためには教科指導はもちろんだが、校務分掌も部活動もきっちりやっていく必要があった。それが周囲にやる気を認めさせ、評価を生むことになるのだ。二十代、三十代の教員は皆そう考えている。そして特進クラスの担任にでもなれば一応実力を認められたことになるのだ。

 塚本に話しかける教員はいないと前に書いたが、吉塚が気がつく範囲では一人いた。田岡という社会科の教員で、年齢は五十代半ば、塚本より年上だった。聞くところでは、塚本と田岡は出身高校が同じで、田岡は塚本の先輩なのだった。その田岡が塚本に声をかける。声をかけると言っても話しかけるわけではなく、塚本の背後を通り過ぎる時、「ドボン」とか「ハチ」とか、吉塚には意味不明な言葉を投げかけるのだ。背後で発せられる奇妙な言葉に吉塚は驚いて振り返ったりしたが、それは隣の塚本に対して発せられているのだった。塚本はそれに対して全く無反応な時もあれば、振り向いて田岡に苦笑を返したり、これまた同じような短い言葉を言い返すこともあった。田岡も三年の学年に属しており、席は塚本より机二つ正面寄りにあった。同じ列で席も近いのに二人の接触はその程度で、まともな会話は殆どなかった。塚本の同窓と言えば、これも三年に所属して国理クラスの担任をしている右田もそうで、三十代前半の右田は塚本の後輩になるはずだった。しかし右田とも塚本は殆ど話をしない。田岡と右田は先輩・後輩としてゴルフや飲み事のつき合いをしているのだが。

 塚本の日常は隣で見ている吉塚にも何が楽しくて学校に来ているのだろうと思わせるものだった。一日誰とも話さずに過ごす。どうしてこんな状態になっているのか吉塚には分からないが、意地でやっているとしたら相当の意地っ張りだと思う。一流と言われる国立大学を出ている塚本が、周囲の教員を相手にせずというような態度を取っていることで、お高くとまりやがって、という反感も生まれている。吉塚にも多少その気持はあった。塚本は弁当持参だ。食堂で他の教員達と一緒には食べない。もっとも、弁当を持ってくる教員は他にも十名ほどいるので目立つ事ではないが。塚本は弁当が終ると必ず歯を磨く。それも五分以上かけて念入りに。授業が終れば読書、教材研究。時に漢字や文法の豆テストの採点などもしている。空き時間の度に喫煙室でだべったり、どこにいるのか長時間席を空けている教員もいる中で、塚本は殆ど自席から離れず何かをしている。その点では真面目な教員の部類に入るのかも知れない。吉塚もどちらかと言えば教材研究に時間をかけるタイプだから机に向かっている時間は長い。隣の塚本は干渉しないのでその点は助かる。さすがの塚本も読書に倦んだ時など、苛立たしげな視線を周囲に投げている時がある。気分転換に他人との会話などが欲しいところだろうが、彼には与えられない。塚本も積極的に求めようとはしない。代りにお茶を汲みに立ったり、腕を組んでしばらく目を閉じたりしている。そんな塚本の動きを隣で感じながら、この人も苦しいのだろうと吉塚はふと思うこともあった。


    

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