エピローグ
後日譚
シニア向けマンションの惨劇、と呼ばれた無差別大量殺人の最初の犠牲者は、看護師だったらしい。
野堀別情字曰く、あいつは、傍家山会長のスパイで、自分や登の行動を見張っていた、と。送迎中の車の中で、俺はそう聞いた。それが老人の妄想なのか否かは、既に関係者が亡くなっているので確認のしようがない。
看護師は、情字の「仕事部屋」の前の廊下で、散弾銃で顔を吹き飛ばされていた。仕事部屋には、若干のモデルガンも含む、見事な銃器コレクションが陳列されていたという。
看護師を始末した情字は、のんびりと三階ミニシアターに向かい、傍家山会長とチンピラ二人を、文字通り蜂の巣にしたうえで、火を放った。
登の依頼は、養母を亡き者にしてほしい、それだけだったはずなのだが。ボクシングジムからマンションに向かう時点では、事後処理(遺体を解体・処分する『肉屋』と証拠を消し去る『クリーニング屋』)をさせて事件を闇に葬る心づもりもあったようなのだが、久方ぶりに実弾をぶっ放して武闘派だった若き日を思い出したのか、情字は二階に向かい、温水プールと天然温泉を血の色に染め、ジムの利用者に短機関銃で奇妙なダンスを躍らせた。すっかり興に乗った情字は、このフロアでは手榴弾まで使用している。
設備の整った高級マンションであるから、三階で発生した火災は他の階までは広がらなかった。しかし、情字は非常階段に移動し、避難のために下りてきた住民を撃ちまくった。
最終的に、マンション内に突入した警察との銃撃戦で派手な最期を遂げた情字の死に顔は、穏やかで満足そうだったという。大勢が亡くなった中で、最上階のスイートで長年植物状態だった登の養父がこの災難を免れたというのは、何とも皮肉な話である。
「あんな状態で、生きているって言えるのか」
と養父の安否を確認した高城刑事は後に語った。登が養父にとどめを刺そうとしなかった理由が、ここにあるように思える。
登がどうやってこの引退した元極道と知り合ったのかはわからない。偶然同じマンションに暮らしていたからとって、すぐに意気投合して養母殺しの算段を始めるとは思えないのだが、とにかく、養母の傍家山会長が、あらゆるところに敵を作っていたことが一因らしい。
夫の傍家山剣が寝たきりなのをいいことに、事業を拡大・成功させ、それで莫大な富と地位を得たことが、もとより人間性に問題があった十和子こと栄子をすっかりのぼせ上がらせてしまった。
情字は口を閉ざして語らなかったが、彼を用心棒代わりに利用しようとした際に、少々呆けてきたせいで色々プライドが傷つくようなエピソードを経験するようになっていた情字にとって、許し難い台詞を会長は口にしたらしい。それどころか、看護師に協力させて、情字を脅すために盗聴や盗撮をしていたそうだ。事実、マンション最上階のスイートには、ジョージも含めた入居者やそれ以外の夥しい数の表沙汰にできない録画や録音が保管されていた。
登を殺した犯人は、マンションのミニシアターで蜂の巣にされ半分焦げた状態で発見された
俺は、寅蔵より先に部屋の前で見かけた若い女のことは黙っていた。養母に自殺に見せかけて殺されるのではないか、それを自然死として処理されるのではないか、そんな危惧を抱いた登が、断固として自殺ではなく他殺に見えるように死のうと覚悟した場合、情にほだされて手を貸した人間が、いたのかもしれない。それにしたって自殺幇助だが、俺は警官ではないので、そんな誰の得にもなりそうにない謎解きには興味がない。
俺は、死ぬことにしました。俺の事務所でそう言ったあいつに、俺は、ああそうか。と頷いた。俺には、このろくでもない世界から自由になろうとしている人間を止めることなどできないと、あいつにはわかっていたのだろうか。
ただ、気がかりなのはユキのことである、とあいつは言った。
登は、情字の提案により、ユキに老人相手の抱き枕営業をさせることにした。それで養母が再度ユキを襲わせる心配はなくなるだろう、と。生殖能力の萎えもさることながら、老人達は、孫のようなユキに手を出そうとは思わなかった(本当か?)。皆傍家山会長に弱みを握られ脅されていたので、陰ながら彼女に反逆できることを喜んだという。
登は勿論、すっかり堕落した淫売娘を養女にすることは諦めた、と思わせることでしか養母の魔の手から愛する子供を守れない自分に絶望していた。例えユキ自身が、登の側に少しでもいることができるのならば、それでいいと納得したにしても。
境栄子にIDを乗っ取られた十和子本人の行方は、杳として知れないのだという。境栄子という女も、二児を遺棄して姿を消して以降は一切記録が存在しないというから、境栄子として生きているわけでもない。事件発覚後に警察が八方尽くして捜索したにもかかわらずいまだ発見されていない。
登から依頼を受けて最初に指紋の照会をしたのは、溪山刑事だと俺は思っていた。
「なんで、あんたが」
閑散とした喫茶店のテーブルで向かい合った高城刑事は、また一回り萎んだように見えた。ようやく落ち着いてきたとはいえ、最近まで情字のしでかしたことの後始末に忙殺されていた老刑事は、コーヒーを一口啜って、顔をしかめてカップを置いた。登から内部告発したいと持ちかけられて、まあ、あんな女だから恐らく前があるだろうって、最初はそれだけだったんだけどな、と高城は呟く。まさか、あの女が、なあ。
「定年間際に、問題を起こしたらことだって思わなかったのか?」
「溪山にやらせるわけにはいかないだろう」
高城は俺の目を見てそう言った。
「あいつには、まだ中学生と小学生の子供が二人もいるんだぞ」
「その溪山が暴走するのを、あの時なんで止めてやらなかった。俺は、殺人罪でよかったんだ。それを、中途半端な――」
俺は、丸腰、無抵抗の犯罪者を、射殺した。そのはずだった。
銃を構えて踏み込んだ現場で、俺達は居間でテレビを眺めている犯人を見つけた。溪山が男に手錠をかけた。俺は、銃をホルスターに納め、男の傍らに座り、大きな目を零れ落ちんばかりに見開いている少女にかがんで話しかけた。
「助けに来たよ。警察だ」
それが五年前から行方不明になっている逢阪二三だとは、にわかに信じられなかった。我々が知っていたのは、誘拐当時の写真と、シミュレーションで作成された五年後の顔だったが、そのいずれとも似ても似つかない有様だった。一目見た印象は、目ばかりが大きくギラギラ光る「子供のミイラ」だった。
気が付くと俺は再び拳銃を抜いて男を撃ち、話しかけても人形のように無反応だった少女に刺されて、倒れていた。他の部屋を捜索――複数の犠牲者が居ることが想定されていた――していた高城が銃声を聞きつけ居間に戻って来たらしく、
「境、てめえ」それが意識を失う前に聞いた最後の言葉だった。
一ヶ月以上経って目を覚ました時には、なぜか犯人にかけられていたはずの手錠が消えていた。丸腰だがえらく凶暴な犯人に抵抗され襲いかかられ、やむなく撃った。溪山がそう証言したと聞かされた。
例え正当防衛であっても丸腰の人間を撃てば大問題になるのが日本の警察だ。殺人罪にこそならなかったが、無罪放免になるわけもなく、俺は警察を辞めた。
「あれは、俺が溪山に指示してやらせた。ばれたら俺が全て責任を取ると言ってな」
高城はコーヒーを一口啜って、顔をしかめてカップを置いた。
「なんでだ」
情にもろいところはあるが、法や規則を破るようなことは自分にも部下にも固く禁じていたはずだ。それが――
「あの頃、妻に癌が見つかってな。初期だったから、完治したが、色々考えたよ。俺達には子供がない」
「そんなことは、正義を歪める理由にはならないだろう」
「正義って、なんだ」
高城はカップを取り上げて、残っていた黒い液体を全て飲み干し、顔をしかめた。
「そんな子供じみた正義感をいつまでも持ち続けていられる奴だからこそ、刑事を続けてほしかったんだがな」
高城は伝票を持って立ち上がった。
「ああそうだ。俺が引退したら、お前の事務所で雇ってもらうって件だが」
「絶対にお断りだ」
高城刑事がブツブツ文句を言いながら出て行った後、俺は自分のカップを取り上げ、一口飲んだ。
「くっそ不味いな」
コーヒー、のはずだが、泥のような味がした。
俺は今回の事件では、罪に問われることすらなかった。情字がそれを意図したのか否か、俺の指紋がべったりついたピストル型痴漢撃退用スプレーは、火事で燃えてしまっていた。俺が暴行を加えた寅蔵も、半ば燃えていた上に、短機関銃で蜂の巣にされていた。
警察でしつこく取り調べは受けたが、自分に都合の悪いことは、知らぬ存ぜぬで押し通した。自白などしなくても、警察がちゃんと仕事をすれば、俺が何をしたのかは明るみに出ると思っていたし、それで構わないと思っていた。
ツケを返すとか、まあそんな気持ちだったのだが、産みの母を死なせた時点で、俺にはその先のことなど考えられなくなっていた。
それでも時間は過ぎていく。
ユキは、冥途カフェの有機店長の養子になった。有機は登から相当額の生前贈与を受けており、その資金でカフェは継続するという。
登が俺の事務所に置いて行った携帯電話は、実はずっとカフェのスタッフルームに隠してあったのだが、最後にあの要塞のようなマンションに向かう前に、有機に渡してあった。俺は正直、生還できたとしても一生豚箱入りになると覚悟していたし、奴にとっては恋人の形見だ。
その携帯の留守電に、死ぬ直前の登からのメッセージが残されていたという。俺はそれを聞かなかった。結局、あいつの思惑通りに踊らされたことが腹立たしかったからだし、俺は真実というものがあまり好きではない。
知らない方がいいことというのは、この世にはいくらでもあるのであり、俺はもう刑事ではないから、真実の追及などする必要がない。
だから、登の死体を発見した後、マンションの三和土で拾った紙切れも、破いて捨てた。それは登の名刺で、裏には書きつけがあった。
俺はまた浮気調査が専門のしみったれた探偵に戻った。
大家は相変わらず自由に事務所に出入りしており、ふと思い出して庭に埋めた金のことを訊いてみたが、あの顔色からすると、案の定埋めた場所が思い出せないらしい。栗鼠か。樹海の如く草木が茂った大家の庭には、俺の金の他に、一体何が埋まっているのだろうな。
二三は薬指にはめた指輪を免罪符のようにして度々事務所にやって来るようになった。ウイッグと入れ歯を装着していると目のぱっちりしたなかなかの美人だ。てっきり転職するのだと思っていたが、数々のスキャンダルが明るみに出た後もハタケヤマ・グループ自体は経営者を変えて継続しており、二三は残って仕事を続けている。
「お前、指輪のサイズを直しただろう」
俺が苦々しい顔で言うと、あいつは涼しげな顔で言った。
「指がむくんで丁度よくなっただけだよ。知らないの? 指のサイズって結構変わるんだよ」
絶対に嘘だ。あいつは単純な奴だから、すぐにわかる。俺のアパートの水道光熱費を清算したのは、二三ではなかったかと思うのだが、確認していない。今となっては、どうでもいいことだ。既に借りを返すことができない奴がやったのかもしれないし。
呑気に事務所にやってきた大家が最初に二三と遭遇した時、あの垂れ下がった瞼越しに、あいつの指に光る指輪を目ざとく発見した。以降、大家と二三の仲はあまりよろしくない。
そこへ、どうやら登が恋しいらしいユキまでが時々事務所に訪ねて来るようになった。教えてもいないのに登が座っていた肘掛椅子に腰かけ、仏頂面でスマホをいじっている。こいつが、なぜか二三にあからさまな敵意を示す。大家に対しては、食べ物を貰った時だけ愛想がいい。三人揃うと大変かしましく、迷惑極まりない。
「ここはお喋りサロンじゃないんだからな。用事がない奴は出ていけ!」
俺が怒鳴っても、連中は無視するだけだ。お互い仲が悪い癖に、こういう時だけ結託するのだから、質が悪い。
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