05 パニック・エレベーター
ノボリベツジョージの部屋から廊下に出た途端、きつい香りに襲われた。
何故気付かなかったのか不思議だが、これは日本では未だ非合法となっているクサを燃やしている匂いだ。どうせ医療用という触れ込みなのだろうが。
俺はポケットをさぐりハンカチを捜したが、見つからなかった。仕方がない。あまり長居をすると、こっちまで正気を失いそうだ。
「どこに行くの?」と後からついて来るユキが訊く。
「さあな。とにかく、ここにはもう見るべきところはなさそうだ」
この警護が厳重な要塞、シニア向け分譲マンション・ポノレカ鷹羽から脱出しなければならないが、特に策があるわけではなかった。俺は「運び屋」だと思われている。「用事が済んだ」とユキを連れて堂々表玄関から出て行けるかもしれない。
「お前の仕事が終わった後は、通常どういう手順でここを出るんだ?」と俺はユキに尋ねた。
「看護師がベルボーイに私を引き渡し、ベルボーイが管理人か守衛に私を引き渡し、管理人か守衛が、通常は外で待っている運び屋に私を引き渡す。運び屋は私をXXXXまで送っていく。私はそこでバイト代をもらう」
「随分と面倒なことをするな。まあここで金銭の授受をしないのは懸命だが」
XXXXが仲介所となり、ここの金持ち老人達のプライバシーと名誉を守り、その代償として相当な額をピンハネしているのだろう。俺は溜息をついた。ユキのような末端の娼婦に渡る金は微々たるものだろう。
エレベーターホールには人影がなかった。その先に階段があると思しきドアは施錠されていた。二基のエレベーターの一つは一階、もう片方は四階に停止している。仕方なく俺は下へ向かうボタンを押した。四階に停まっていた箱が上昇を始めた。
「あのベルボーイ、ゴローとかいったか。あいつはどうなったのかな」
「さあ、お爺ちゃんを本気で怒らせたら、ただじゃすまないから」
「あの爺さんが何者か知ってるのか」
知っていてボコったのだとしたら、いくら子供だからとはいえ無謀過ぎると俺は眉根を寄せた。
「知らない。でも皆、あのお爺ちゃんには逆らうなって言う。だいたいは呆けちゃってて可愛いんだけど、一度マジ切れしてるところを見たことがある」
そう言ってユキは身を震わせた。
呆けた徘徊老人が可愛いと思える感覚が俺には理解できなかったが、ユキのような怖い物知らずの無謀な馬鹿者を震え上がらせる程度にはジョージ爺さん、正気の時であればまだやれるらしい。まったく、久しぶりのでかいヤマだと思ったら、命がけか。まったく割に合わない。
エレベーターが到着し、扉が開いた。
箱の中には、片手で全裸の老人の右腕を、もう片方の手で首根っこを掴んだ看護師が、鼻息荒く立っており、俺とユキに気付いてぎょっとした。
「痛い痛い痛い」
爺さんは空いている左腕を力なく振りながら抵抗しているが、どうやら薬による過度な興奮は治まったらしい。
「そんなに乱暴にしなくてもいいだろう。あんた、この爺さんの面倒を見る名目でたっぷり報酬をもらっているんだろう?」
俺はエレベーターの扉を手で押さえながら言った。
「あんたみたいなごろつきに何がわかるっていうの。薬漬けにしておかないと、このジジイがどれだけ危険か知らないんでしょう」
だがそのクスリとやらは、爺さんの凶暴性を抑えると同時に、身体をハイパーアクティブにしてしまう諸刃の剣だ。
爺さんを連行しながら俺とユキの間を通過していく看護師に、ユキが
「ゴローちゃん大丈夫だった?」
と声をかけると、看護師は目を吊り上げて、振り返った。
「余計なお世話よ。あんたは彼に近寄らないで。盛りのついた雌猫が」
最後の捨て台詞は独り言のように呟いて看護師は爺さんと共に去った。
俺はエレベーターに乗り込んで一階ボタンを押した。
箱が下降を始めたると、例のベルボーイのニキビ面が浮かんできた。
ニヤニヤと胸糞の悪くなる笑みを浮かべ、腰の曲がった老婦人の尻の辺りを膝で軽く押してエレベーターの中に押し込むゴロー。老婦人は値の張りそうな着物を上品に着こなしているが、表情に覇気がない。乱暴に押されてちょっと目を見開いたが、すぐにうなだれて虚空を見つめている。
一階まで到着すると、ゴローはすました顔で老婦人の手をとり、エントランス・ホールをエスコートしていく。ホールのソファに座っていた熟年カップルが立ち上がった。老婦人の家族らしい。カップルの傍らに立っているのは、スタッフの女だ。地味なスーツ姿の中年女。この要塞に侵入する際の第一関門でインターホン越しに会話した女だと直感でわかった。そして、その女の顔には見覚えがあった。
場面が変わって、またエレベーターの中だ。上昇するエレベーターに乗っているのは、ユキとベルボーイ、二人きりだ。ユキは男から顔を背けているが、男は馴れ馴れしくユキの体を撫でまわしている。
「糞野郎」
「えっ?」
怪訝そうに俺を見上げるユキに適当な言いわけを考える間もなく、エレベーターが大きく揺れて、急停止した。天井の照明が二三度瞬いて、消えた。暗闇の中でユキが短い悲鳴をあげてしがみついてきたが、すぐに赤い非常灯が灯った。
「何事だ、一体」
何ともいえない、嫌な感じだった。腹の中がざわざわする。いくら広々としているとはいえ、エレベーターの箱だ。エレベーターにしては広いというだけで、実際は四畳半ほどの広さもない。俺は狭苦しいところに長時間閉じ込められるのは御免だった。
俺はエレベーターの扉の横に設置されている非常用のインターホンに向かって通話を試みる。
「おい、誰かいないのか」
「タカシなの? ゴローはどうしたの?」
以外にも、間髪入れずに女の鋭い声が返って来た。マンションのエントランスで俺達を迎えたインターホン越しの声。まったく、どうして気付かなかったのか。これは、ユミ――いや、俺の依頼人のルミの声だ。
「無礼を働いて爺さんを怒らせたようだ。あんなふざけた小僧は、ご老体の家族から苦情が来ないうちに、はやいとこ首にしたほうがいい。ところで、エレベーターが突然止まって中に閉じ込められているんだが、一体何事かな?」
「どこで停まってる?」
「三階にさしかかったところのようだ」と俺は赤く表示された4から3に変わりかけのまま停止しているデジタルの数字を見ながら答えた。
「いいこと、運び屋さん。命が惜しかったら、その中で大人しく縮こまってなさい。できるだけ頭を低くして、ドアから離れて」
インターホンは一方的に切れてしまった。
「まずいな」
「何事?」
「ジョージだろうな」
ジョージの住居を後にする時、俺は武器庫のドアを閉めなかった。わざわざ鍵をかけ直す暇が惜しかったからだが――
まさか、弾を装填したまま陳列してあるわけがないから、爺さんが全裸で走り回っている間は何事も起きないだろう。
だが、あの爺さんは、まだら呆けだ。たまに正気に返る時がある。いや、まだら呆けというよりは、まだら正気というべきか。ノボリベツジョージがかつてのジョージに戻ってしまったら、あのサディスティックな看護師などが制圧できる相手ではない。正気でいられる時間はそう長くないのだろうが、そのわずかな時間内に、あの武器庫のブツを使ってジョージに何ができるか、想像したくもなかった。
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