三日目

 朝八時、目覚ましが鳴る。

 目覚ましが少し鳴り響いたところでタイマーを止める。今日も肌寒い朝に、ため息をついて、ゆっくりと布団から出た。昨日洗濯していた上着を椅子から取り、さっと羽織る。吐息は白く、徐々に冬に近づいているようだ。

 部屋を出て、台所に辿り着いたら、顔を洗い眠気を覚ます。最近疲れたのか、肩が凝っているようだ。ため息をつきながら、掃除道具を持ち、トイレ掃除を始めた。今日もやることはたくさんある。だけど、今日が終わればこれから徐々に減っていくはずだ。


 朝十時、ドタバタと階段を降りる音が鳴り響く。

「おい、ばばぁ!!なんで起こさないんだよ!!」

 どうやら義息は寝坊したようだ。頭はボサボサで、制服は乱雑に着られている。

「……」

「……ちっ」

 私は義息の声を無視しながら、トイレ掃除を続けていた。しょうがないじゃないか、汚れて汚いから。

 義息は玄関までこれでもかというくらいうるさい足音を立てていた。その後を子犬がついていった。

「うっぜーんだよ!!死ね!!!!」

 義息は子犬を力いっぱい蹴飛ばしたようだ。子犬は悲鳴を上げて壁に打ち付けられたようだ。義息はそのまま学校へ向かっていた。子犬は悲しそうな声を上げるが、私がご飯の準備をするとすぐに振り向き、ご飯を食べ始めた。

 あんなことをした義息にはまだ尻尾を振るのに、私が手を出すといつも通り吠えて噛みついてきた。相変わらず汚い身なりで、動いたり食べたりするだけでフケが床に散らばってしまう。食べ方も汚いのだ。どうしてこうなってしまったのか、物思いにふけながらポツリとつぶやいた。

「……汚い」


 昼十二時、家の電話から娘の携帯に連絡をする。授業が終わり、お昼休みになって娘から折り返しの電話が来るのを待つのだ。


「早苗、今日は帰らないの⁇」

「うん……時間がある時に行く……」

「もう帰ってこなくていいわよ」


 そう言うと、私は電話を切った。こんなことを言うつもりはなかった。折り返そうか悩んだ。だが、何を言うのかわからなかった。余計なことを言った気はするが、何も心に浮かばないのだ。鏡を見ると、無表情に私を見つめる私が映された。笑いも悲しくもない、何もない表情でこちらをじっと見つめていた。


 夕方五時、夕飯の準備をしながら、リビングの掃除をしていた。年末年始に大掃除をしたいのだが、この家ではそのようなならわしはなかった。だから、毎日隅々すみずみまで掃除をしているのだが、汚れは徐々に溜まっていくのだ。

 少しずつ……少しずつ。


 夕方六時、義息が学校から帰宅する。ゴミや汚したタオルなどを玄関に置いていった。私は夕飯の準備をしながら、鼻歌を歌っていた。義息はいつもなら部屋にこもるのだが、何かを言おうとこちらに向かってきた。だが、私を見て硬直していたようだ。私はそんな義息には目もくれずに机にご飯を並べ始めた。

 今日は豪華な食事になった。唐揚げにハンバーグ、ステーキ……義息の大好物の料理、肉料理ばかりだ。いつもなら、野菜も必要だと思って半分は野菜料理にするのだが、そんなことを気にする必要はなくなったのだ。

「今日はあなたの大好きな料理よ、たくさん作ったから食べてね」

 そう言うと私は義息の椅子を引いて座るようにうながす。いつもなら反抗的な態度をとる義息だが、無言で椅子に座った。

「はい、ご飯。あなたの好きなジュースもあるわよ」

 義息は無言でご飯を食べ始めた。まるで従順なペットのように言われた通りに動いている。そんな義息を台所から微笑ましく見つめていた。じっと……そう、じっと見つめていた。


 夜七時、私はお風呂に入った。久しぶりにお風呂にお湯をはり、湯舟にかった。お湯の流れる音、身に染みるお湯の熱さはいつから味わうことが無かっただろうか。

 以前はシャワーを浴びるのも五分程度、真冬の寒いときに電気代がかかるとお風呂場の電気や湯沸かし器を消されてしまい、水を浴びるときもあった。

 今までなぜこんな我慢をしていたのかが分からない。だが、もうよいのだ。何もかも。


 風呂を出たところ、廊下で義足息が立っていた。私の姿を見て、少し驚いた顔をしていたが、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

「ねぇ……親父は⁇」

「出て行ったわ」

 私は冷たい声で答えた。そんな人、この家にはもう存在しないのだから。

「じゃっ……じゃあ、ばあちゃんは⁇」

「ボケてしまって、施設に行ってもらうことにしたの」

 私は冷たい声で答えた。今、ここにいるのはあなたと私しかいないというのに、いない人間を気にする必要があるのかしら。

「……じゃあ、あいつは⁇」

「あいつ⁇」

 義息は口をもごもごしながら問いかけてくるが、誰の事かわからない。この子もおかしくなってしまったのだろうか……。

「朝……蹴とばしちゃったし……」

「……」

 もごもご何か言う義息が何を言いたいのかがわからない。ただ、今日が最後の日だから、私は今とても気分が良いのだ。私は義息に向かって微笑んだ。

「久しぶりに夕食、食べたわね」

「あっ、まぁ……」

 思っていた返答と異なる言葉が返ってきたことに驚いたのか声が少し上ずっていた。

「今日はね、あなたの事を思って作ったの」

「はぁ……」

 私としてはいつもより穏やかな気持ちで、義息の顔を見つめているつもりだが、義息はおどおどとした表情で、目線を合わせては一瞬固まり、目線をずらしてを繰り返すばかりだった。

「今日はね、たくさんお肉があったの。だから、腐る前に全部食べてもらおうと思ったの」

「へぇ……」

 未だにおどおどした義息を見ていると、少しずつ冷えてきている気がした。そうか、ここが廊下だから冷えてしまうのだ。もう部屋に戻ろうと義息を背にすると、義息は慌てて聞いてきたのだ。

「あの子犬!!どこにいる⁉」

 私は自室の扉の前まで来て、ゆっくりと扉を開ける。扉の奥まで入り、扉を閉める直前に義息に微笑んでこう言った。

「今日の夕飯、美味しかったでしょ⁇」


 夜十時、布団の中で目覚める。あれからすぐに布団に入って寝てしまったが、少し寝るのが早かったようだ。

 喉がかわいたので、キッチンに向かう。トイレからは義息の嘔吐おうとの音が聞こえてくる。私が部屋に入った後からトイレに籠っているとは思っていたが、まさかずっと吐いていたのだろうか。

 義息が産まれてからずっと私が育てた大切な子どもだ。だから、心配になるのも仕方ない。だって私はあの子の母親だから。水を飲み、義息のもとへ行こうとした時、ふと鏡に映る自分が見えた。気になって、再度鏡の前に立った。

 そこには、無表情の私が映っていたのだ。鏡に手を当てて、目を閉じて深呼吸した。慈愛じあいに満ちた顔を作り、ふたたび鏡に映る自分を見た。

 そこには、子どもを心配する優しそうな顔をした私が映っていた。私は満足して鏡から離れ、息子のいるトイレの前に行った。

 トイレの前に立つと、ゆっくりとノックをした。

「大丈夫⁇」

 トイレから嘔吐の音がぴたりと止まった。

 私はゆっくりとノックをした。

「大丈夫⁇」

 ……返事はない。

 私はゆっくりとノックをした。

「大丈夫⁇」

 私はゆっくりとノックをした。

「大丈夫⁇」

 そう、義息が出てくるまで、優しい母親を演じるのだ。

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