御伽怪談第一集・第三話「当たり前だの」
@KarindObata
第三話「当たり前だの」
一
寛政七年(1796)の初夏のことである。江戸牛込の山伏町に小さな寺があった。派手な
初夏の日差しは暖かく、源信和尚は蝉の鳴く声に耳を傾けながら縁側でまどろんでいた。庭には数羽の山鳩が遊んでいた。和尚は生米を撒きながら山鳩の姿を眺め楽しんでいた。
アカがのんびりと縁側に寝そべっている。山鳩が近づくと静かに頭を上げ、抜き足差し足で歩き出し、山鳩を狙う様子であった。猫にとっては単なる食事でしかないだろう。だからと言って、目の前で山鳩を死なせるのは不憫である。
源信は、
「ほれほれ……」
と優しく声をかけ、山鳩を助けようとした。
バタバタと飛び立つ山鳩を眺め、アカが、
「残念なり」
と、落ち着いた流暢な言葉を発し、深くため息をついた。あろうことか、人の言葉で話したのである。
一枚の羽根が地面に落ちた。遠く
「えっ? 今、アカが言葉を……まさか」
源信は目を丸くし、何が起きたのか分からなくなっていた。ふと、源信がため息をつくと、思わず懐に手を入れ、汗ばんだ手で
しかし、勘が働いたのは何も源信ばかりてはなかった。アカは慌てて飛び跳ねると、勝手口の方へ逃げ出した。
源信は逃げるアカの背中を追った。大股で走るその足は、老人にしては滑らかであった。それにもまして、逃げるアカの機敏さは、さすがに飼い猫とは言え、野生の生き物である。だが、所詮は小さな猫のこと、源信の足が……元とは言え……武士としての面目を保った。
源信は若い頃、大阪でサムライをしていた。鬼武者の再来と呼ばれ、そこそこ名は知られていた。それが、お城といざこざがあって、闇から闇。仲間たちは腹を切らされたが、彼は命はとりとめた。恨みはなかった。精一杯、戦って、結果が残っただけである。だが、それからと言うもの人生を虚しく感じ、僧侶となって仲間を供養する日々を過ごしていた。
源信はアカを取り押さえた。彼にとっては……年老いたとは言え……猫を捕らえるなど造作もないことであった。しかし、長年、愛し、慣れ親しんだアカを強く押さえる気にはなれなかった。アカの背中はとても柔らかく、日差しを浴びた暖かかい温もりを感じた。思わず源信の手から力が抜けた。その時、源信は激しい口調で叫んだつもりであった。だが、言葉とは裏腹に優しくささやいていた。
「おのれ、物を言うとは奇怪なり。まったく、化け猫となって、人をたぶらかすことは許し難し……」
少し涙の
「人語を使うからには訳もあろう。申し開くことあれば、ここで申してみよ」
のどかに郭公の声が響いた。空が広ければ広いほど郭公の声は良く響く。そんな中で源信は覚悟を決め厳しい表情となった。
ニ
「もし、何の釈明もなければしかたあるまい。殺生戒を破り、なんじを殺さん」
またもや郭公がのんびりと鳴いた。
その時である。アカは落ち着き払ってアクビをすると、ニヤリとした。
「愚かだにゃぁ、物を申すなど、わしだけに限ったことではあるまいに……」
源信はその言葉に少し
単に驚く源信を見上げたアカは、クスッと笑った。
「上方から流れて来た猫なら、十年あまりも長生きすれば、多かれ少なかれ物を申すものだにゃぁ。それより十四、五年も生きれば、神威を得るやつまでおって、
その言葉に源信は驚いた。だが、いつの間にか目は輝いていた。アカの話に興味が湧いたのである。
アカはやれやれと言った感じで、さも偉そうにつぶやいた。
「しかしにゃぁ、それまで命を保つ猫はあまりおらんが……」
源信は、ふんふんと首を縦にふり、言い放った。
「物を言う訳は分かり申したが、なんじはまだ、十歳にも遠かろう」
その時の源信は、まるで禅問答でもするかのような気持ちであったと言う。
アカは、源信を見上げた。
「化け狐の血を引く猫は、その年にならんでも、物を言うこともあるにゃぁ」
「そなたも化け狐の?」
アカは心なしか嬉しげな顔になった。
「あたりまえやろ。だからと言って、人を化かしたりはせんぞ」
源信はふと首を傾げた。
「はて、化け狐などいるものか?」
その言葉にアカは即座に答えた。
「おるで。そもそも化け狐と申す妖魔は、皆、九尾の狐の霊力を得たもんやねん」
九尾の狐については源信も存じていた。狂言の『釣り狐』の中で詳しく語られていたからである。しかし、そんなことが現実にあるとも思えなかった。源信は、またもや首を傾げた。
「九尾の狐? 猫又の先にいるやつか?」
「それや、それ」
「ふーん、そんなものか?」
「この狐と申す妖魔は、皆、神獣にておわしまするぞ。天竺にては、
さて、そこで語られた物語りとは……
昔、鳥羽院の頃、清涼殿で歌合わせの会があった。その時、突然、激しい大風が吹き、御前の四十二の灯火が一度にバッと吹き消され、東西がにわかに暗くなった。
「陰陽博士を呼べ」
ただちに陰陽博士が召し出され、占いが行われた。
安倍家の頭首・安部の
「これは妖魔の仕業にござりまする」
「速やかに祓い清めよ」
「ははっ、承りましてござる」
泰成は、四方に四面の壇を飾り、五色の弊を立て祈りはじめた。
その様子を見た玉藻の前は、
——正体が見破られた。
と思い、祭壇から一本の御幣を奪い取ると、そのまま行方をくらましたのである。
三
御門は、命令をくだした。
「玉藻の前を速やかに追え、けして逃すまじ」
直ちに
やがて一行は、玉藻の前を
大きな原の四方を、弓と刀で武装したサムライが取り巻き、百匹もの猛犬を野に放った。激しく吠える音が、地響きのように聞こえたと言う。この時より、われら猫族も犬を怖れる。
たくさんの
「胴は七尋、尾は九尋もある、怖ろしい九尾の狐が、口に御幣を
と告げるのであった。
その時、三浦の大助が、
「なれば、ここより矢を放つべし」
空に向かってキリキリと弓を絞り、矢を放った。この矢を合図として、配下の武者が一斉に
やがて化け物の悲鳴が野の隅々まで響くと、
「いざ、退治を……」
切り込み隊が走り寄る。
戦いは激しさを増した。九尾の狐にとりつく忍者とサムライたち。獰猛な犬までも食らいつき、血をすすり、肉を切り裂いた。
たくさんのサムライたちの手足は千切れ、忍者が殺されてゆく。あたりに肉片が飛び散り、血の臭いが充満した。
大将・上総介が、動きが鈍くなった九尾に対し叫んだ。
「とどめを……」
三浦の大助、これを承り、ついに九尾の狐は退治されたのである。
だが、やがてその執心が凝り固まり、殺生石となって、空を翔ける翼や、地を走る野獣たちが、人を捕ることその数を知らずと言う。
その霊力が狐を介して猫にも宿り、化け猫として生まれて今に至るのだ。
アカの語る物語は、源信にとって新鮮であった。今まで武家のことか仏法しか知らない彼には、まったく知らない世界の物語であった。
源信はそこで考えた。
——物を申すこと以外、別段、人に害をなす気配もない様子。人を捕って喰おうとすることもないであろう。この際、猫も黙ってくれるなら、拙僧も黙って、何もなかったことにしよう。
源信は背筋を伸ばしアカに向かって申した。
「しからば、今日、物を言ったことは、外に聞く者もない様子。当寺でしばらく共に暮らしたこの上は、何を苦しいことがあろう。これまで通り、なんじを飼うことにいたそう」
アカはドギマギし、息を吐いた。
「えっ? 良かった。坊さんに殺されるかと思ったにゃぁ。えらいおおきに」
アカは、源信和尚に三回ほど頭をさげた。源信が手を離すと、大きく間延びをした。それから目をパチクリして、顔を洗うような仕草をした。
源信が見るところ、さっきまでの賢さは、まるで嘘でもあったかのような感じがしたと言う。
だが、
「ほんまに誰にも言いなや」
アカは捨て台詞をつぶやくと、静かに庭を出て行った。
蝉時雨が激しさを増した。
四
その時、源信は去って行く後ろ姿を目で追いながら一抹の寂しさを感じた。やがて不安は的中し、アカは帰って来なくなった。
あのまま上方へ流れたものか、さもなくば、人の世にいれなくなったものかは分からなかった。ただ、姿を消しただけに過ぎないが、源信にとっては不思議な体験であった。
彼は今でも時々思う。
——果たしてあれは、何だったのであろう?
たとえ現実であるにしろなかったにしろ、確かめようもない出来事であった。もし仮に、あの体験が現実ではなかったとしたら、源信の頭がどうかしていたことになる。そう考えた方が気持ちは楽になれた。
アカは消え、寺に他の猫も近づかなくなった。人と言葉を交わしたので、去った時、他の猫にも教えたものか?
それとも、元々、近くに猫は住んでいなかったのか?
今となっては確かめようもないことであるが、それからと言うもの、源信は後悔の日々を送っていた。
——あの時、騒ぎさえしなければ……。今も縁側に寝そべって、餌を食べ、あるいは日向ぼっこなどしているであろう。
と思っては悩み苦しんだ。これは僧侶としてはあるまじき姿である。今までのせっかくの修行も、一匹の猫のために台無しとなった気がして、自らの心の弱さを噛み締めると涙が出た。
やがて、源信の心は答えのない無限の問答に入り込んでしまった。
化け猫とは言え、生きるものを手にかけて死なすべきだったのか?
あるいは助けて慈悲を見せるべきか?
それともその場で殺し、世の憂いを取り去るべきだったのだろうか?
源信は答えのない悩みに迷い続けた。
いくら悩んだところで起きてしまった出来事は変えられない。たとえ最善の答えを見つけたとしても、それが正解だとも限りはしない。だとしたら悩むだけ無駄な時間を過ごすことになる。だが、悩む者は、そのことに、けして気付くことはないのだ。
源信は、残りの人生をどのように生きて行くと言うのだろう。アカとの別れが大きく影響していることだけは確かであった。
蝉の鳴き声が、さらに激しく響いていた。『耳嚢』より。
化け狐の血を引く猫は、昔はかなりいたようである。特に京都が中心となっていた時代ではなおさらだろう。それが江戸時代となって関東にも流れてゆくこととなる。
これら化け狐たちは、元々は大陸から渡って来た九尾の狐を始祖とする。その悪の霊力がわが国に〈化け物〉を生んだ。
化け物は狐を介して狸と交わり、やがて狐狸の類が生まれる。それらは猫を手足のように使い、猫そのものにも宿るようになってゆくのである。
だが、不思議なことに、犬に宿ることは珍しかった。猫や鼠や、兎にすら宿ることがあり、その他の動物にも宿っていたのである。しかし、西日本でも四国の犬神くらいなものであろう。もちろん関東にはいない。
残念なことに、このような化け物たちは、現代社会ではほとんどいなくなってしまった。
昭和三十年代にはじまった新興住宅〈団地〉の造成が、化け狐の
* * *
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