日の出と襷

ほずみ

日の出と襷

 缶コーヒーを片手に、屋上から札幌の街を照らし出す初日の出を見るのが恵太は好きだった。やわらかな朱色が雪を、雲をじわじわと染めはじめる。静かな街がざわざわと動き出す。

「いよいよだな」

 ぼそりと誰に言うのでもなく呟いたのと共に吐き出された白い息が立ち上って生まれたての空にゆるやかに溶ける。ビルから一段と勢いよく湯気が上がる。一日が、息遣いが、戦いがはじまる。

 缶をくずかごに投げ入れ、恵太はビルへ戻る。まさに今、空を統べんとする太陽を背にして。

 厨房に入ると既に湯気が立ち込め、同じ仕事着たちが忙しなく動いていた。

「卯野くん遅いよー」

 童顔の男が呑気に声を張る。ピリピリとさえする空気に浮いて苦い顔の恵太に届く。

「馬鹿言わんでください、一応まだ休憩っすよ」

 考える前に手を洗いアルコールを塗り込める。ホテルの朝は早い。まして元旦ともなれば。

「わ、隈すごいねえ」

 童顔は軽口を止めず手も止めない。器用なやつだ。恵太は目を細め、マスクの中でわざとらしく口を尖らせてみせる。

「喋ってねーで動いた動いた」

 背を肘でつつくと動いてますよう、という憎たらしい返事がひょろひょろと背にかかる。フンと鼻を鳴らして恵太は持ち場に戻ると、奥の方にいた鷲鼻がこちらに気付く。

「おい恵太。今年もチャンネル回しといたぞ」

 グッと親指で指されたのは厨房の裏のバックヤード。毎年正月にはこっそり小型テレビが設置される。衛生とか勤務態度とか引っかかるに決まっているが、こんな忙しい日に煩い支配人なんか来ない。恵太はぺこりと礼をして扉をチラと見る。そして、昨日見たスマホの画面を思い出す。

〈今年こそ走る。応援しろよ〉

 今更だろ。


 ぶかぶかの詰襟は動くには硬い。慣れない質感に戸惑いを残しながら、恵太が桜が散るのを見ていたあれはもう十年以上前。親から「中学生になったんだから」と言われ、先輩からは「一年なんだから」と言われ、なんだか自分っていうのが何者なんだか分からなくなっていくような。からっぽをひとり反芻する。

「おい志賀。何見てんだ」

 前の席の奴が先生に何か言われている。ちら、とそちらを見ると、何か本を堂々と机に置いて読んでいた。

「トレーニングの本です!」

「先生は教科書持てって言ったんだけどな」

 すんませーん、と教科書を持ちつつ、先生が黒板に戻るとその目は再び本へ。恵太は感心してしまった。したたかさではなく、熱感に。自分はそこまでの熱を持つことができるような気がしない。

 志賀夏樹は陸上馬鹿だ。寝ても覚めても走る事しか考えていない。話していると特段馬鹿だとは感じないけれど、しかしこの間の、初めての定期考査の結果を見るに本当に馬鹿らしい。まだそのくらいしか分かっていない。田舎のひなびた村でも小学校は俺の本校、夏樹の分校と二つあって、もう一方の奴らのことは知ってはいるけどそのくらい。夏樹くらい何かに没頭している奴なんか今まで見たことがない。恵太にとって志賀夏樹はエイリアンだ。

しかし田舎の小さな中学校には学年に一クラスしかないのだから部活なんて尚のこと。その年陸上部に入部したのは恵太と夏樹だけ。ジョグの時でさえ、恵太は夏樹と隣になるのが嫌だった。

 終業のチャイムで挨拶もそこそこに夏樹は教室を飛び出していく。その背を眺めきってから、溢れ出そうな溜め息を飲み込んで恵太は鞄を背負う。散る桜には既に青々と葉が賑やかで、季節は晩春から初夏へと動き始めている。刻々と、はじめての中体連が近づいている。廊下に出て夏樹の「コンチャー!(こんにちは)」とかいう大声が響いてきたから、今度こそ恵太は溜め息を吐き出した。

 部室から道具をガチャガチャ運びだす。ちんたら歩いていると先輩がうるさいから、とぼとぼの駆け足でグラウンドへ向かう。大声が響かなくなったからそうかなとは思っていたが、夏樹は既に着いていてポットに水を溜めていた。

「おうご苦労!」

「てめえ軽いモンから持ってきやがって」

 グラウンド脇のベンチ周りに荷物をやっと下ろして手をはたく。もう敷地周りの木々は繁っていて流れるのは緑の風だ。部活が始まれば座れないベンチにそろりと腰掛けて、適当に体操している夏樹を眺める。

「走んの? 今日先輩方まだ来ねえよ」

「ふうん」

 返事もそこそこに夏樹はトラックへ飛んでいった。長距離が好きらしい彼は暫く帰ってこないだろう。夏樹はエイリアンだ。恵太にも、先輩方にもそんな熱量はない。先輩方に関して言えばサボる人だって多いし、今日はみんな考査で引っかかって補習かなんかをやっているらしい。そんな風に思い浮かべている恵太だって、親が勧めるから入っただけで陸上に大した思い入れはない。

 五周くらいして夏樹が帰ってきた。クールダウンもせずにゴロンと芝生に寝転がる。少しだけ上がっているらしい息が心地よさそうだ。俺なんか息上がったら苦しいだけなのに。

「お前、オリンピックにでも出んのかよ」

 冗談半分で恵太は夏樹に尋ねる。冗談半分だった。夏樹は転がったまま顔を向けて、にかっと笑う。

「出るだろ! オリンピックだぞ」

「は、」

 冗談だろ、と思った。ここは山奥の田舎の中学校。コーチなんかいやしない。いるのは生徒が「非行」に走らないよう見張る名ばかりの顧問だけ。みんな口では「目指せ全道」なんて言っているがどこまで本気なのか分かったものじゃない。

「いけるだろ。メダルだって取れるだろ、たぶん」

「……陸上でメダル取ってるのってアフリカの選手ばっかなんじゃないの」

「え、まじ?」

 ガバリと夏樹が体を起こす、その背からハラリと芝生の葉っぱが落ちるのが青春っぽいなと思う。志賀夏樹は本当の本当に馬鹿なんだろうか。

ともかく、夏樹にとって彼の夢は本当の本当に冗談なんかでは無かった。それがようやく分かったのは一年の新人戦で全道を決めてしまったからだ。告げられるタイムと夏樹のガッツポーズを恵太は未だに忘れられない。エイリアンの不可思議さにはじめて強く惹かれてしまった。俺はずっとこいつのファンであり続けるんだろうと、そう思った。

 結局夏樹は中三の夏に全中で決勝まで行ってしまった。化け物だったわけだ。そんなだから高校も札幌のすげえ強いとこに推薦でひょいと進んでしまった。その背を見送って、恵太は山奥に取り残される。惹かれてなお夏樹のような熱量を感じられずに、雪解け薫る根開けの季節になる。友達と同じ高校に上がって、部活には入らなかった。

 ある日、ぼんやりと過ごす恵太のもとに、夏樹から久々にメールが来た。本当にぼんやりしていたから多分冬休みに入った頃だ。インターハイの結果を検索しはするけれど、恵太はもう二年あまり夏樹と連絡を取っていなかった。

〈飯の作り方教えてくれ〉

 なんだこれ。確かに恵太は仕事で家にいない父親の代わりに弟たちへ飯を作っている。でもそんなのただの家庭料理で、わざわざ人に教えるもんでもない。だけど断る理由も無いし。

〈いつうち来る?〉

 正直なところ、恵太は久々に夏樹に会いたかった。夏樹は正月以外ずっと陸上合宿なんだとかで、一月二日を指定してきた。大変だなあなんて携帯をいじりつつその日を迎える。弟たちは気を利かせて、いや関係ないか、お年玉を握りしめて早々に遊びに行った。父は確かその日も仕事だった。静かになった公営住宅を時計の音が占めて微かに薄暗い。疲れた目をぎゅっと閉じたとき、不釣り合いに大きなインターホンが鳴る。

玄関で出迎えた夏樹はあどけなさを残しつつも、どこか洗練されているように感じる。俺の知っている夏樹じゃないかもしれない。内心どきどきしつつ、よお、と言ってみる。夏樹も同じようによお、と返して勝手に上がり込んできた。それが自然だったから、恵太はほっと胸を撫で下ろす。

「まあ、まずはゆっくりしてけよ。なんとこたつがあるぜ」

 コートをいそいそ脱ぐ夏樹をよそにテレビをつける。丁度箱根駅伝が始まったところで、一区をランナーたちが走っていた。さむ、と先にこたつに入り、ぼんやりテレビを見る。

「正月から大変だな。夏樹もそのうち駅伝出そう」

 何の気なしに言って気づく。夏樹はこたつに入らず、立ち尽くしていた。じっとテレビを見つめている。

「どうした? 入れよ」

「俺、大学行けなくなっちゃった」

 テレビを見つめたまま、夏樹は言った。その意味を恵太はすぐには理解できなかった。いつか夏樹をテレビで見るものだと思っていた。このまま名門大学に進んで、トップアスリートになって、オリンピックに出るんだとばかり思っていた。

「俺んち離農しただろ。そんで緊張の糸が切れたのかな。母さんがガンになってさ」

 夏樹の家がある集落は今建設中のダムの底にある。この村を出る時に故郷を失った彼を不憫だと他人事に思ったこともある。けれど、何もこんな目に遭わなくてもいいじゃないか。声の震え方が、夏樹がエイリアンでもなんでもない人間であることを完膚なきまでに証明している。

「まあ、来年結果を出せば実業団に入れるかもしれないから。そしたらまだどうにか走れるな――」

 薄く笑って夏樹は恵太を向き、そうしてぎょっとした顔をする。まるでエイリアンでも見たみたいだ。そう思いながら恵太は涙を止められない。恵太にとって夏樹は中学の三年間を共に走った大事な友達だ。

「お前は泣かないだろうから俺が泣く」

 それだけしか言わなかったのに声の震えが酷かった。さっきの夏樹なんか目じゃない。でも仕方がない。恵太は二人分泣いている。馬鹿な夏樹は方々からかけられる同情に笑って返して、早々に諦めをつけなければいけなかっただろう。今となって考えれば、悔しいという気持ちを肯定してやりたかったのだ。歴々のトップランナーが歩んできたような道を辿れないことを、悔しいと思ってもいいんだと。

「うん。やっぱ恵太は凄いよ」

 夏樹は微笑んだまま目を落としてやっとこたつに潜る。そうしてテレビを向いてしまったから恵太から表情は見えなくなった。

「お前は覚えてないかもしれないけど、お前がフォームとかトレーニングとか口出してきてすっげえムカついて、でもだから俺は結果を出せたと思ってる。箱根走ってるとこ、お前に見せたかったな」

 息が詰まって口を結ぶ。静寂が降りた部屋にテレビからの歓声がさびしく響く。結局恵太は何も言えなかった。


 わあっ、と一段大きい歓声がバックヤードの扉から聞こえる。小窓から覗くと、どうやら画面左上に「ニューイヤー駅伝」の文字。今まさに一区がスタートした所だった。ああ、今年もちびっ子と選手のくだりを見逃した。

「ええ、もう九時十五分かあ!」

 童顔がげんなりと声を上げる。ニューイヤー駅伝スタートの歓声は、ありがたいことに何よりも正確な時報だった。確かにもう九時過ぎというのはやばいな。朝食のピークは乗り切ったが、昼食の準備がまだだ。

「恵太、何区だって」

 鷲鼻がちら、とこちらを伺う。どうせ言っても考慮してくれないくせになあ。

「ラストの七区っす。だから襷リレーは一時くらいっすかね」

「……それは、災難だな」

 一時は昼食ラッシュでてんてこまいだ。宿泊客だけじゃなく、近くの百貨店に福袋なんかを買いに来た客が大量にやって来るから、忙しさは朝食の比じゃない。俺たちコックに暇はない。

「だよねぇ、卯野くんの友達、折角今日がデビューなんでしょ?」

 童顔が眉をぐいぐいとしかめて声を張る。マスク越しだってのにどこに元気が残っているんだ。

「いいっすよ。音だけは聞かせてもらうんで」

 強がりだ。厨房内は常にガチャガチャと音が鳴っているし、第一せわしなく動いているからテレビの音なんかに意識は向けられない。童顔も察してか「そっかあ」としか返さなかった。だがいいのだ。テレビの向こうで、夏樹が走る。それだけでいい。夏樹のチームからは選手の当日変更は無かったようだ。今日、確実にあいつは走る。寒空の下を、ついに走り出す。


 何も言えなかったあの日。結局何を教えたんだか覚えていないが、帰り際に夏樹が握った手の汗はまだ皮膚の裏に感触として残っている。

「応援してくれよ。いつかニューイヤー駅伝に出て、世界選手権に出て、オリンピックに出る選手になってやるからさ」

 頼むよ、の少し弱った声色が印象的だった。

 季節は巡って、無事に実業団に入れた旨がメールで送られてきた。当たり前だ、最後のインターハイで決勝まで進んだこと、そして表彰台まであと一歩だったことを恵太はしっかりチェックしていた。今までフィールドとか短距離とかに浮気を繰り返していた夏樹がどうやら中長距離に絞ったらしいことも、何となく察することができた

 それに対して自分は。惰性で決めた調理師学校のパンフレットをめくりながら、改めて「自分」の無さをぼんやりと反芻した。とりあえず「応援してる」と夏樹に返して、弟たちの飯を作るために立ち上がる。すると携帯が震えた。夏樹からの早すぎる返信だった。

〈今電話していい?〉

 またなんの風の吹きまわしだろう。飯は電話しながらでいいやと、こっちからダイヤルを押した。

「もしもし、夏樹」

 案の定夏樹はすぐに出た。丁度暇だったのだろうか。

『恵太! やったよ! まだ走れる!』

 心底嬉しそうな声だ。陸上馬鹿は健在らしい。

「ああ、俺も安心した。これでまた応援できるな」

『へへ、やっぱ恵太の声でそう言われるといいな』

 もう一年声なんか聞いてなかっただろ。調子のいい奴。

『でさ、もし俺が駅伝デビューできたらさ。恵太、俺に飯作ってくれよ』

「は? 飯はおごるよ。どっかいいもん食いに行こうぜ」

『いや、恵太が作ったのがいいんだ』

 本当に何の風の吹きまわしだ。俺は別に、料理がうまい訳でも無い。調理師学校だって何の気なしだ。短大より金がかからなくて、手に職つけやすそう。ただそれだけ。

「なあ、なんで俺の料理なんだ。教えてくれって言ったり、食わせろって言ったりさ」

 電話の向こうで、ふふ、と夏樹が笑った。

『なんていうか、俺おまえの料理好きなんだよ。中学の時、たまに食わせてくれてただろ。心がさ、あったかくなるんだよ』

「……はあ、分かんねえけど」

 不思議な気持ちだった。自分が作る料理なんかに興味を持ったことなんて無かったから。恵太はフライパンに片手で卵を割り入れながら、なんて言えばいいか思案した。

『だからさ、作ってくれよ』

 夏樹の声は明るくて、暖かかった。太陽みたいだ。

「なに食いたい?」

 ガスのつまみを回す。チチチと音がする。携帯の向こうがこっそり笑った。俺が乗り気になったのが可笑しいのか。

『オムライス!』

 恵太は卵をかき混ぜる手を止めた。丁度いま作っていたのがオムライスだったから。

「いいのかよ。唐揚げとかハンバーグだっていいんだぜ」

『恵太のオムライスがいいんだよ』

 へんなやつ。そう返そうとして、恵太は自分のにやけに気付いた。まったく調子が狂う。

「りょーかい。……駅伝、見るからな」

 恵太はこっぱずかしくなって電話を切った。オムライスか。俺固焼きのしか作れねえし、練習しとかないとな。携帯を食卓の脇に置いて腕をまくった。

 朝太陽を浴びると目が覚めて、晴れた日に走ると気持ちがいいように、夏樹は俺の心をすくってくれる。そうか、夏樹は太陽なのだと、なぜだか納得してしまった。

 ほどなくして弟どもがぞろぞろ返ってきた。部活終わりの汗まみれを一気に風呂場へ放り込んで、オムライスを盛り付ける。ケチャップは、太陽の形にしてみた。

「腹減ったあ! 兄ちゃん今日なに?」

「オムライス特大盛り」

「やったあ分かってるぅ」

一人はお気に入りの部屋着、一人はハーフパンツだけの半裸、一人はパンイチで食卓につく。もう何を言うのも疲れた。オムライスと適当に作ったサラダを置いてやれば、三人揃っておおーー、と言う。いただきますも言うか言わないかで皿を持ち上げ、ダイソンのように吸引していく。

「美味いか」

 尋ねて驚く。普段はそんな事聞かないし、さっさと食って片付けるのがいつもの事だったから。弟たちも不思議に思ったのか顔を見合わせる。そうして口の中身を飲み込んで、にかっと笑った。

「うまい!」

「最高!」

「日本一!」

 三つの太陽が咲いた。口のあたりがむずむずする。

「……ありがとよ。よし、兄ちゃんも食べよっと」

 立ち上がってコンロへ向かう。後ろにはふふ、と笑い合う弟の声。俺はこっぱずかしいと逃げるんだな、と恵太は渋い顔をする。そして、俺の料理が誰かの太陽になるのなら。夏樹の太陽になるのなら。そう思った。


 恵太はちら、とテレビを盗み見た。今テレビに映っているのは六区のトップランナー。間もなく中継所に入るらしい。

「卯野くん、お友達ってどこの会社?」

「コメカミノルタ」

「じゃあ今三位らしいよ」

 童顔はちょこちょこ見ているらしい。その表情が少し険しかったから、一位とはそこそこ離れているのかもしれない。今年こそ初優勝って言ってたんだけどな。

 バックヤードの扉ごしにもつんざく実況アナウンサーの大声が聞こえる。今度こそ覗くと六区のトップランナーが七区の選手に襷を渡していた。六区のランナーは区間賞級のタイムだったらしくガッツポーズをしている。走っていった七区のランナーは受け取った襷を大事そうにかける。沿道からは大歓声。誰しもが、そのチームの優勝を確信しているように見える。まだだ、まだ決まっちゃいない。

 ライスにバジルをかけてホールに出す。まったく正月なんだから和食を食べてくれ。注文表を見てボールに卵を割り入れる。畜生オムレツはそんな一気に幾つも作れないんだぞ。せめてスクランブルエッグとかにしてくれよ。

「卯野ォ!」

「ハイ!」

 鷲鼻が大声を出したので脊髄反射で返事する。何かやったかとそちらを見ると、鷲鼻はもう近くまで来ていて恵太のボールをもぎ取った。

「コメカミノルタが中継所に入る!」

 目を見張る。一瞬なんだと思ったが、そんくらい見ろって事か。今日の上がりに牛丼でもおごらなきゃな。

「あざす」

 会釈して扉を押し開ける。後ろで「オムレツかよお」と鷲鼻がつぶやいていた。

 画面を見ると、六区のランナーが大画面からワイプに移ったところで、次に大きく映し出されたのは中継所。

 息をのんだ。

「夏樹」

 画面端からぬっと現れた彼は締まった体を新春の陽の光にかがやかせている。その背中には積み重ねてきた努力が見える。夏樹はその長い腕をぶんぶんと振った。間もなく六区のランナーが同じ画面に映る。その顔は険しかった。六区ではあまり前との距離を詰められなかったのだろう。拳に巻いた襷をほどいて一度ぴんと張ったランナーは、マイクもつけてないのにはっきり聞こえるような声で叫んだ。

『志賀ァ!』

 夏樹も叫んだ。

『任せろォ!』

 汗の染み込んだ襷をいま夏樹が受け取った。そして六区のランナーの背をバンと叩いて、颯爽と走り出していった。

 恵太は、声が出せなかった。ようやく夏樹が夢見た舞台にいるのだという実感が押し寄せる。前に会ってから五年以上は経っているのだから、そりゃあ変わっているとは思っていた。しかしその肉体はこんなにも美しかっただろうか。その顔つきはこんなにも精悍だっただろうか。

 やはり太陽だと、恵太は思った。

 恵太は足早に厨房へ戻って注文表を見る。しめた、雑煮四つに新春御膳二つ。こいつは正直作ってあるのを盛り付けるだけだ。恵太は雑煮に使う丼ぶりを取り出した。


 昼の二時を回ろうとしている。厨房内に少しずつ余裕ができる。年越し前から一時間だけの休憩で飛び回っていたが、もう少しで今日のシフトが終わる。ビーフシチューをホールに出して、恵太はふう、と息をつく。するとチョンと肩を小突かれた。童顔だ。

「卯野くん。駅伝見よ」

「馬鹿あんた、皿洗いがまだあるでしょ」

「さっきやっちゃった。ね、いま注文来てないし」

 分かりやすい嘘だ。俺が立っている所から流しはよく見える。

「だってほら、あと少しで一位が決まるんだよ」

 そう言われてテレビを覗き見て、固まった。残り三キロの表示で画面は一号車、優勝争いの二人のランナー。さっき中継所をトップで出たあのランナーと。

「ね、卯野くんのお友達だよね! これは見なきゃ」

 少し険しい顔をして、夏樹がトップのランナーのすぐ後ろを追いかけていた。既にスパートをかけて久しいと見た。トップのランナーは流石といったところで、そちらに苦しさや焦りは見えない。

 ほらほら、と童顔の先輩に背を押されては無碍にすることもできない。鷲鼻の大将に怒鳴られませんように、と肩をすくめてバックヤードの扉を押す。

『志賀選手ここまで一分の差を詰めてきて、まだ余裕があるように見えますね』

 実況の男性アナウンサーが感心したように言う。

『志賀さんはオムライスが大好物みたいなんですが、自分ではうまく作れないみたいなんですよ』

 解説の女性が謎の豆知識を語る。

「この人、毎年情報よく仕入れるよねぇ」

 童顔は感心している。まったくだ。でもこの情報を言うなら絶対にもっと前だっただろう。

 ついに残り一キロを切った。トップのランナーがグンとスピードを上げる。その顔は先程よりも幾分か険しい。ケリをつけるつもりだ。恵太は焦って、すぐ後ろについていた夏樹を見る。その眉間にはぐぐ、と力が入っているが、それでも前についていっている。しかしこのままでは追い抜かすことはできない。コースはあと千メートル。

「あっ」

 童顔が声を出す。夏樹が一気に加速して前に出た。どこにそんな力が残っていたんだ。相手のランナーも歯を見せてくらいつく。並びそうになる。恵太は拳を握る。コーナーを曲がって残り二百メートル。

ふいに、ゴールからのカメラが夏樹をはっきり映した。

「……すっげえ」

 夏樹は笑っていた。心底嬉しそうに、楽しそうに。こんなプレッシャーの中、こんな過酷なレースの中で。


 ニュースでは仕事はじめがどうたらなんてやっている。恵太はあくびした。折角実家に帰ってきたのに、みんな仕事とか遊びとかで朝からいなくなってしまった。年初めの連勤がようやく終わったんだから、もっと労ってほしいものだ。ニュースもニュースだ。休日の人間に仕事はじめなんて言わないでくれ。

 つまらないテレビを消して伸びをする。ふたたび大きなあくびをすると、インターホンが鳴る。ほーい、と気の抜けた返事をしてのそり起き上がり、頭をボリボリ掻きながら玄関の戸に手をかけた。

 にやけた唇をそのままに。

「よお、ヒーロー。オムライス出来てるぜ」

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日の出と襷 ほずみ @kamome398

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