序章Ⅴ

(なん……だ?)


 突然背後から襲ってきた謎の衝撃と、勢いよく噴き出す温かい

 俺は、崩れ落ちるようにしてその場に倒れ込んだ。雪の絨毯カーペットが見る見るうちに真紅に染まってゆく。


(これは……俺の血……か?)


 血。血液。体内をめぐる、紅蓮の液体。

 白銀の世界を侵食したのは、ほかでもない――己の鮮血であった。


(ハハハ……やっぱり……今日は一段と寒いですわ……)


 体温が急激に下がってゆくのが把握わかる。

 尋常でない量の血液が失われている所為せいなのか、真冬の夜の路上に寝ている所為なのか、或いはその両方か。骨のずいまで凍るような寒さが、横たわる俺を襲う。


 ただひとつ不思議なことに、刺されたとも殴られたとも異なる謎の不快な衝撃が俺に僅かな痛みすら感じさせなかったことは、見方によっては不幸中の幸いと言えるかもしれない。


 ――と、その時。


「チガウ。コイツジャナイナ」

(……は? こいつじゃ……ない……?)


 頭上から浴びせられる男のものであろう低く無慈悲むじひな音声。

 どうやら俺はただの人違いで死ぬことになるらしい。


「……イクカ」


 少しずつ足音が遠ざかってゆく。

 今年は、七年ぶりのホワイトクリスマス。

 だから言ったではないか――縁起の悪い数字であると。


(ふっ……ベリークルシミマスってか……)


 そう呟いたのは、ほとんど苦し紛れの行動に等しかった。そうでもしないとこの状況に耐えられなくなりそうで、数秒後にはこのまま自分という存在が消えてしまうのではないかという畏怖の念を抱いたからだ。


 しかし、その直後の出来事だった。


 ザスッ。バギッ……ドサッ……!


 突然を刺し貫くような不快音おとが鳴り、そのが雪の上に倒れるような物理音おとが辛うじて耳に届いた。


「……か……げ」


 そして、再び聞こえてくる何者かの声。

 意識が朦朧もうろうとして正確に聞き取れないが、恐らく俺を襲った奴とは異なる人物のものだと思う。


(どこの誰だか知らないが急いでこの場から離れた方がいい。きっとまだ犯人が近くにいるはずだから)


 俺の言葉は、届かない――。


 必死に警鐘けいしょうを鳴らそうとしても、それを口にする力は既に残っていなかった。言葉を届けることは勿論、相手の台詞を受け取ることもできない。立ち上がることも、すぐに死ぬことさえも。意識を失うまでの退屈な時間が、俺を苦しめる。


「……か……あげ」


 謎の通行人Bは今尚懸命に声を掛け続けてくれているようだが、やはり何を言っているのか分からない。しかし、そんな絶望的な状況にもかかわらず、俺の頭に浮かんでいたのは、今日出会ったばかりの名前も知らないひとりの少女の姿であった。


(……ごめんな)


 それは小さな約束をした少女への謝罪の言葉。

 出会ったばかりで名前も知らない相手なのに、どうしてこれ程までにあの子のことが気になるのか。この広い世界からすれば歴史にも人の記憶にすら残らない出会いで、取るに足りない約束なのに。


 俺は、その答えを持ち合わせていない。


 だが困ったことに、少女が一瞬だけ見せた表情が脳裏から離れないでいる。上手く表現できないけれど、何かこう、長い孤独からようやく解放された……みたいな。それはただの気のせいかもしれないし、俺の勝手な思い込みと言われたら否定はできないであろう。


 それでもあの時、あの場所で、俺は、あの子を一人にしたらいけないと思った。思ってしまったのだ。俺がもっとしっかりしていれば、俺にもっと力があれば、あの子との約束を破らずに済んだのではないか、と。


「……っ」


 最後の力を振り絞り、天に向かって手を伸ばす。

 神様、仏様、サンタ様、天使でも悪魔でも、なんなら世界を恐怖におとしいれる大魔王だっていい。

 もし、もしも一度だけ、この理不尽な運命を変えることができるのならば――


「生まれ……変わったら、今より……も、強く……」


 こうして俺、三枝光芭サエグサミツバの十八年という短い人生は幕を下ろした。

 最後に聞いたのが通りすがりの赤の他人の声だなんて、まさに俺らしい最期ではないか。

 何もできない。何も叶わない。女の子との約束ひとつ果たすことすらできずにただひとり死んでゆく、そんな人生。


 それでも、消えかかる意識の中で、何故かはっきりと聞こえたんだ――。


「……わかった」

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