第185話仙桜種の村
魔界へと続く道は多くある。
そもそも人類生存圏内の外側で最もその領域に対して接している面積の多いのが魔界であり、ともすれば最も人類種が挑むべき場所でもあるのかもしれない。
だがその実態は人類種などには到底生きていけるよいうな環境ではなく、修練を終えた高位の冒険者であれば生きていくことは可能かもしれないが一般人ならば一時間持てばいい方だろう。
現に人間の繁殖力に無理を言わせて魔界の一角を攻略しようとした国もあったが、前線基地ではいいように食料として扱われそれこそ人間牧場といったような有様の被害が出たらしい。
それ以降は魔界に対して国家規模で侵略行為ないし国土拡張行為を行うことは暗黙の内にどこの国でも忌避される行為となっていたわけである。
そんな土地に足を踏み入れているのは馬車に乗った十数人の人影、ただし人間の比率はやはり目に見えて低くく目視で見る限りは一人か二人といったところだろう。
ゆっくりと、それでいて確実に進んでいく人影の一つが膝に手をのせると大きく息を吐き出した。
「あっつい! さっむい! どんな気候なのよおかしいでしょ!?」
大声を上げて不満を口にするのはアウローラである。
魔界の気候は周囲に存在する精霊や龍種などによって頻繁に変わるため、上は50度以上から下は-20度以下だ。
それが一時間から三十分程度の感覚でランダムに変化していくので、魔力を使用しての体温調整は体温によって身体的異常をきたす可能性のある生物には必須であるといえるだろう。
それを知っているアーテは戦術級魔法を使用できるアウローラが、体温調整という基礎的な魔法に困っている理由がわからず疑問を口にする。
「アウローラ様は体温調整魔法が使えねェのか?」
「使えるけどそう何時間も集中力が続かないのよ。あんな精密作業を長時間出来るのなんて相当熟練した魔法使いだけよ」
「人間は弱くって大変です。鬼人の肌ならこの程度の温度変化大丈夫です」
「そうよ人間ってか弱いのよ」
「エルピス様は体温とかってあるんですか?」
「さすがに元は半人半龍だからあるけどほとんど変化はないかな。マグマの中でも何不自由なく暮らせると思うよ」
マグマの中をなんの魔法的な補助すらなしにまるで海の中を泳ぐようにして泳いでいてもおかしくないのは、以外にも神人であることよりも半人半龍であることの方が関係している。
鉄をも溶かすことのできる息吹を吐き出せる龍から生まれたのだ、たとえその力を半分以下しか引き継いでいなくともマグマくらいならば何の問題もないのだ。
「思えば様々な種族が集まっているのもですよね、森霊種、天使、悪魔に神人。半人半龍と人間。さらに仙桜種と混霊種ですか、いよいよアルヘオ家らしくなってきましたね」
様々な種族の物が生活を共にしていたアルへオ家でも、戦時下という特殊な状況がなければこれほど様々な種族が一堂に会することなどないだろう。
種族差によって生まれる価値観の違いというのはやはり馬鹿にならないものであって、それくらいしなければ埋められない溝はこの世界の種族の溝である。
そんな中で一人話の中に疑問を感じて取り残されていたのは、神人という聞き慣れない種族名を耳にしたリリィである。
フィトゥスが一瞬何か重要な秘密を漏らしてしまったのかと他のメンバーの顔色を伺ってみれば、無視をしているというよりも共通認識なので気にする必要もないといった風貌だ。
ならば問いただすべきだろう。
「ねぇ、私の知らない秘密を全員が共有しているときのこのなんとも言えない不快感を口にする時ってどうすればいいか分からないのフィトゥス」
「間違いなく俺の足をちみぎることではないとだけ断言させてもらうよ」
「私は出発前にエルピス様本人から聞いているので、後は貴方だけですね」
「えぇ!? なんでヘリア先輩には言ってわたしには無いんですかエルピス様!」
さすがに自分と同じだろうと考えていた先輩までもが知っている秘密に、たまらずリリィは直接エルピスの服を掴んで揺さぶりながら言葉を投げかける。
それに対してエルピスは気まずそうにリリィから視線をずらすと、ぽつりとぎりぎり耳に聞こえる程度の大きさで疑問に対して答えた。
「ご飯食べに行く時間になっちゃったから言う暇無かったんだよね」
「そんな殺生な!?」
フィトゥスには教えて私には教えてくれないのですかと言いたげなリリィに対して、エルピスは苦笑いだけを返すとその場の空気を流す。
この場でエルピスが神の称号について説明をすることは簡単な事だが、目標の地点が近づいてきたからだ。
「それはさておいて。この目の前の山脈を越えれば魔界で良いのかな?」
目の前とはいってもまだ数キロほどの距離はあるが、それでも目の前に映る山の大きさは息を呑むほどのものがある。
かつて日本で見たどの山よりも大きく、高く座した山々は山脈となってその先の景色を遮っており、いまからあれを登ると考えると足の疲労も気になってくるところだ。
エルピスが投げかけた質問に対して答えるのは隣にいたフィトゥス、彼もまた先程までとは違って山様に服装を変えたのか少し厚着になっており見ているだけであったかそうである。
「はい。魔界を覆う山脈は全て標高8000を超える巨大な山で形成されており、そこを越えれば一応魔界ということになっています」
「一応? 正確には違うってこと?」
「確か山を越えた後に魔界は各所に難所があるんだよ、それを越えないと本当に魔界に入ったことにはならなかったはず」
フィトゥスの説明に対して補足を入れたのは、手元にどこから持ってきたのか魔界関連の資料だろう本を手にしたニルである。
わざわざ魔界と呼ばれるのだからそれなりに特殊な環境が待ち構えているとは予想していたが、その第一波が難所の存在であるならエルピスの好奇心も強く刺激される。
「なるほどね。それで今から向かうところはどんな感じなの?」
「魔界に入る道の中で最も難易度が高いとされる場所、仙桜種の村です」
──前言を撤回しよう。好奇心など皆無だ、クソ喰らえ、野犬の餌にすらできない始末である。
エルピスが仙桜種の村に行きたくない理由は二つ、一つ目はほぼ間違いなく戦闘に巻き込まられるだろうという確信があるから。
二つ目はそれよりも不味い、創生神時代のエルピスを知っている人物と出会う可能性があることだ。
エルピスがこの世界で学んだ経験則のうち最も大切なものは、創生神の知り合いと絡むとその後の人生が大きく変わる、である。
それが良い変化なのか悪い変化なのか判断はつかないが、物事の裏側であの創生神の顔がチラつくのはどうにもやりにくい。
「結局行くことになるのか」
「私達の村はここからそう遠くない。向こうにはもう来てるのはバレてる」
「師匠大丈夫なの? 辛かったら中に居ても大丈夫だよ?」
荷台から顔を出してきたレネスに対してエルピスは言葉を返すが、青い顔に冷や汗を浮かばせながらも力強くレネスは頭を立て振る。
「いや大丈夫だ。さっきまでに比べれば随分とマシだな、心拍数の上昇を感じる程度だ」
「全能感が表に出たのかな? まぁ悪い傾向ではないね、これからどんどん良い方向の感情が出てくると思うよ」
「全能感はいい感情なのかァ?」
様々な感情を味わってきたレネスだが、どうやらこれから先は苦痛を感じるものは少ないらしくホッと胸を撫で下ろす。
それほどまでに感情を受け切るというのは難しいことで、だからこそわざわざニルは
それから二時間ほど、整備されていない道を開拓しながらも順調に進んでいたエルピス達は、既に山の中腹を超えて七合目ありにまでやってきていた。
「エルピス様、仙桜種の里が見えましたよ」
厄介な魔物などがやってこないようにと、前に出て当たりを警戒していたフェルからそんな報告を受けてエルピスも目を細めてみれば確かに村のようなものが見える。
魔法によって隠されているのか認識しづらくはなっているが、一度その目で見て捉えてしまえばエルピスの目にはもうその魔法の効果も無くなっている。
とりあえずは目的地が見えたことに一安心しながらも、エルピスはしっかりと警戒を怠らない。
「悪いけど先導お願いできる? なるべくゆっくりね」
「お任せあれ。フェルを借ります」
「フィトゥスさん、そんな警戒しなくても襲ってこないと思いますよー?」
「念には念を押すんだよ」
意図を汲み取って警戒しながら辺りを索敵してくれている二人の悪魔は、エルピスにとって変えが効かないほどの存在になりつつある。
彼等ならば仙桜種に勝てるかどうかは怪しいところだが、絡まれたところでむざむざとやられるということはないだろう。
二人の姿が見えなくなり再びのどかな雰囲気が流れ始めると、アウローラが思い出したように疑問を投げかける。
「仙桜種って具体的にはどんな種族なんだっけ」
「私のようなのが大半だな。基本的には戦闘狂ばかりだが、中には生産職に身を捧げているものもいる」
「長い寿命の中でどんな建築様式が使用されているのか気になるわね」
「見れば分かるがそんなに良いものではないぞ、古臭い建築物の名残だけが遺産のように積み重ねられているだけだ」
アウローラの質問に対してレネスの言葉は自虐的だ。
全能感がその身を貫いているというのにそれほど言うということは、余程トラウマでもあるのか建築様式が気に入らないのか。
そうなってくるとエルピスとしては余計気になってくるところで、盗み聞きした内容が実際どんなものなのかとワクワクしながら足を進める。
「見えて来たぜェエルピス様、あそこが仙桜種の村だ」
「おぉぉぉ! おお? 微妙に反応に困るんだけど」
「建築様式混ざりすぎてどこの国かわかったもんじゃないな」
「俺知ってる。建築ゲーで何も考えずに建物作るとこうなるよ」
目の前に広がっている多数の建造物は、そのどれもが材質からして違ったものばかりである。
レンガでできた小さな小屋、石でできた誰が住むのかも分からない塔、かと思えば手前には和風の建築様式も見て取れるし奥には砂でできた家のようなものまである。
混沌ここに極まれり、好き勝手に家を建てればそりゃそうなるだろうと言わんばかりの結果であるが、創生神が作り出した生物がこれを作るというのなら納得はいく。
そんな仙桜種達の村には出入り口が一つしかないらしく、門のようなしきりこそないものの結界によって阻まれ他の道からの侵入は困難なようなのでエルピス達は堂々と真正面から村へと向かっていく。
結界の境を越えようかという程になると村の奥からこちらへ向かってくる人物の姿が見え、エルピス達は足を止めた。
「ようこそ神よ、我等の村へようこそおいでくださいました。私の名前はリーベ、レネスの父です」
エルピス達の前に立ったのは、レネスの父を名乗る仙桜種の一人リーベ。
黒い髪はゆえる程には長く、身体から発せられる威圧感は確かに仙桜種のそれである。
顔こそ決してレネスに似ているとはいえないが、彼等は元より繁殖をほとんど行わず永遠の寿命を生きる身なので、長い年月の中で新しく生まれたレネスと顔が似ていなくてもそれほど不思議ではない。
「これは丁寧にありがとうございます。魔界に行くにあたって訪れたただけなので、それほど長い期間は居られないでしょうが少しの間よろしくお願いします」
「ええ、もちろんです。レネスは後で家に来なさい、案内はエイルにさせましょう」
「エイルですか? どこかで聞いた名前ですが──」
「おっす、久しぶりだな迷宮以来か。鍛治神とはその後どうだ?」
先程までは居なかったのに、気づいたら目の前にいたのは迷宮でエルピスとしのぎを削りあった仙桜種のエイルである。
あいもかわらず飄々とした雰囲気には変化もなく、エルピスに向ける視線は好戦的であるし品定めしているようだ。
「連絡は取っていますが直接会っては居ませんね。何か言っていましたか?」
「いや特に面白い話は何も。それよりお前ら人数多いな」
「12人居ますからね。6人ずつにでも分けます?」
「そうしてくれ。適当に別れればいいから」
散策をするのであれば村という単位の中で12人も固まって歩くのは邪魔でしかない。
そうなれば仲良し6人組を作ってくださいという史上最悪な文言が飛んでくるわけなのだが、嬉しいことに今回の6人はどのメンバーが来ても問題なく話せる自信がある。
目の前で能力まで使ってジャンケンしている一行の姿を眺めながら、余ったらそちらの方に入れてくれとだけ伝えるとエルピスは少しの間を暇しながら待つ。
結果は予想していた通りといえば通りであり、もはや慣れてきた感触に右半身を掴まれながらもエルピスは少しだけ言葉を漏らす。
「まぁこうなる事は半分わかってたけども」
「そりゃあ僕はここでしょう」
「ニル、エルが困ってるわよ?」
「ドキドキしてるくらいだから別に大丈夫だよ」
エルピスの右半身に抱きつき自分の居場所はここであると主張するニルに対して、エラはにっこりと笑みを浮かべるとエルピスには触れずに正面に立って言葉を交わそうとする。
肉体的な接触と言葉による接触、もちろんニル相手なので苦痛ではなくむしろ幸福だといえるが、公衆の面前でやられると別の意味で心臓がドキドキしてくるのだ。
「アウローラ、ここは我慢するとしましょう」
「そうね。トコヤミちゃんと仲良くするのも悪くないし」
「アウローラ様よろしくです!」
いつのまにか姉のように慕われているアウローラは、トコヤミを引き連れて村の散策へと向かう。
そんな背中を眺めていると、後ろからやってきたアーテが嬉しそうにエルピスと肩を組んだ。
「俺いっつもエルピス様と一緒だな!」
「そうだねアーテ。よろしく頼むよ」
「リリィ、そろそろあいつぶっ飛ばして良いかな」
「悪いけどフィトゥス、私もエルピス様の方なのよ」
怒りの感情に身をやつしたフィトゥスに対して、リリィはさらに煽りを入れると笑みを浮かべて見せつけるようにこちらへと歩いてくる。
戯れているだけなのだからエルピスから何も口にすることはないが、フィトゥスの表情が鬼気迫るものであるがために後でカバーしてあげるくらいはしなければならないだろう。
「とりあえずこれで別れたな? ひとまずエルピスがいる方を案内する。他の奴らは適当にそこら辺を見て回ってくれ」
それから村の中をエイルに案内されること一時間。
便宜上村と呼んではいるものの桜仙種の村は小さな都市ほどの大きさがあり、長い歴史の中で桜仙種たちが作り出した文化財産をすべて見て回ろうと思うといったいどれほどの時間がかかるのか考えるのもおっくうである。
「それでどれくらいの間ここに居るつもりなんだ?」
「二日くらいかな。そんなに長くは居られないと思うよ」
「二日か……少し早いな」
エルピスが提示した二日という時間は確かにそれほど長くはない。
だがエルピスは元からこの村を素通りしてもよかったと思っているし、レネスの父が案内役としてエイルを紹介していなかったら一日いたかも怪しいところだ。
確かにレネスとの関係を深める上でこの村に滞在する時間をいつかは確保するべきだと思っていたが、今回の旅の目的は両親に会いに行くためであるので致し方ない。
「なにか問題でもあった? わりかしこれでも時間割いてるつもりなんけど」
だから否定の意味を込めて少し強い言葉でエルピスが返すと、エイルはその整った顔をゆがませて苦笑いを作りだる。
「問題というほどではないがな。仙桜種の間でお前の話が盛り上がっていてな、たぶん引っ張りだこになるぞ」
「いますぐこの村を出たくなってきたよ」
エルピスがレネスと戦っていたのは村に来て仙桜種達と戦闘することができないから。
なのにこの村に来てからエルピスが感じ取っている明らかな戦闘に対する意欲はそんな事など忘れているかのようで、エイルの言葉のとうり長居すればするほど面倒なことに巻き込まれそうである。
頭を悩ませているエルピスだったが、ふと袖を引っ張られる感覚に意識を取り戻すと古びた本を持ちながら首をかしげるエラの姿があった。
どうやらそのあたりにでも無造作に置いてあったのか、外に放り出されたこれまた古びた椅子には本の跡が埃となって刻まれている。
「エル、これはなんだと思う?」
「これは……なんだこれ」
手渡されるままにそれを受け取り中身を見てみるが、この世界で見てきたどの言語とも違うようだし著者が誰なのかすらわからない。
もしかすれば何か知っているかも、そう思いエルピスがニルの方を見てみるとにっこりと笑みを浮かべながらさも当然のようにしてニルは答えた。
「これはハンムラビ法典の原本じゃないかな。あっちの世界の遺物が流れ着いたのを確保してるっぽいよ」
「よく知っておるの、さすがは神獣じゃ。わしの名はノレッジ、よろしく頼むわい」
白いひげをこれでもかと蓄えて、柔和な雰囲気をまといながらエルピス達の前に立ったのはノレッジと名乗る桜仙種である。
神獣と呼ばれたのはニルだろう、この世界を昔から知っている生命体はなぜかニルの事を狂愛の女神ではなく神獣と口にしていた。
「ははっ、仙桜種の間でその呼び方流行ってるの? あんまり好きじゃないなぁ名前があるのにそんな呼び方されるの」
一瞬自嘲気味に笑ったかと思うと、ニルの表情はエルピスが初めて見るほどの苛烈なものに代わる。
隠す気もない程の殺意はニルがこれ以上踏み込んでくるなという明確な拒絶の形であった。
「怖いのう、わしよりよほど未来が見えるお主がそんな事を言っておると怖いわい。
「――エルピス様、さっきから神様神様言ってますけどもしかして神様なんですか?」
「今それどころじゃないんだよ。重要な事じゃないし」
「私からしたらなによりも重要なんですけど!?」
凍り始めた空気を和ませようと声をかけてくれたリリィにたいしてエルピスが冷たく当たるのは、それくらいニルと目の前の老人が戦闘行為を始めないかどうか心配しているからだ。
これが街の暴漢たちであったらどこからでも止められる自信があるが、桜仙種とセラ相手にエルピスが抜ける気などどこにあるだろう。
圧倒的上位者が不機嫌になったことで漏れ出た魔力は付近の環境を目に見えて変えてしまい、草木は枯れて大気は重たくなっていく。
エルピスが戦闘も覚悟して武器を取り出し始めたころ、ニルとノレッジの間に割って入る人物がいた。
「喧嘩するなよー、一応何しても自己責任だが暴れられたら困るから俺も止めるからな」
「ほらニル行くよ」
「命拾いしたねお爺ちゃん、その減らず口をなんとか直しておくんだね」
ようやく落ち着いた空気に首根っこをつかみながらニルを引きずってとりあえずはノレッジとの距離を離す。
謝罪をするにしろしないにしろ、これ以上喧嘩した人物と顔を突き合わせていればそれこそ本当に戦闘に発展しかねない。
身動きが取れないように引きずりながら、エルピスは少し他のメンバーから離れて言葉を投げかける。
「ニルがここまでキレるのはじめてみたかも。なんかあった?」
「――別に何も」
「そっか」
答える気がないのであれば仕方がない。
ニルの服についてしまった土を払い落とし、綺麗になったことを確認すると何もなかったかのような顔をしながら他のメンバーと合流する。
フィトゥスやエラはこれくらいのことは想定していたとばかりに自然体であるが、圧に負けたアケナとアーテの表情は凍り付いてしまい苦笑いを隠せないでいた。
「エルピス様ァ、頼むからなんとかしてしてくれ」
「俺の前でキレてるって事は俺にはどうもなりません。そもそもなんでキレてるか分かってないしおれ」
「トコヤミ……お姉ちゃん死んじゃうかも知れません」
「――ほら、そんなこと言ってたらうちの名物が見えてきたぞ」
落ち込んでいるアケナの事を無視してどんどんと進んでいったエイルがエルピス達に見せたのは、推定年齢で数万年はあろうかというほどの大樹である。
高さは20メートルほどとこのクラスの寿命を生きる木々にしてはそれほど大きくはないものの、その存在感は一度目にしてしまうともう目を離せなくなってしまうほどに強い。
枝からひらひらと舞い散っているのは木の葉のようにも見えるが、その実態は木が吸い上げた魔力を物質として変換した魔力の塊である。
その魔力につられるようにして様々な妖精がふわふわと飛び交っており、さながら龍の森の奥地にあるあの神木と同じような姿をしていた。
「わぁぁ!」
「おぉぉ! すッげェ!!」
「仙桜種の村名物創生の木だ、見て帰った事のあるやつは世界でも数人だな」
「もちろんそれって仙桜種に勝負を挑まれて生き残った人じゃないと無理だからでしょう?」
「当たり前だろ、俺らがこれを見せるのはそれくらい珍しいんだ」
龍の森の中にある神木も神か神が許したものしか入れないように設計されていたし、そう考えると彼らに勝つくらいのことができなければこの神木を目にすることが許されないのも当然のように思えた。
生物が目にするのに資格がいる景色などと口にしてしまうとそれがたいそうすごいもののように思えるのだが、だとしてこの木が他者を引き付けるに足るだけの何かを持っていることをその意味も含めて理解している人が何人いるのだろうか。
この場においてそれはただ一人、やはりこの世界の中でも異質な存在である狂愛の女神であろう。
「……足りないな」
手に落ちた魔力の塊を手にしながらニルはあえて意図して言葉を口から漏らす。
明らかに怪しい行動であり、先ほどの知恵者の言葉を借りるのであればはるか先の展開を読んでいるであろうニルの言葉はエルピスを不安にさせるには十分なものである。
「何か言った?」
「何を言ったでしょう?」
だからこそエルピスは彼女にその言葉の意味を問いかけ、そして彼女はにっこりと笑顔だけを浮かべると軽い笑みを浮かべて誤魔化そうとする。
それはつまりエルピスに対して隠し事をしているという明確な宣言であり、桜仙種と関わり始めてからこういった言動が多くなった辺り、直近の行動がおそらくエルピスの人生を大きく変えてしまえるほどの何かを持っているのだろう。
彼女の言動について頭を働かせてみるものの、エルピスにわかるのはせいぜいこの木がまだ
だが聞き間違いでなければ彼女の言葉は何かが足りないと口にしていた、それが時間であれば彼女にとって大きな問題ではないはず。
だとすればニルがわかっていてすぐに対処をできないような問題か、もしくは今解決すべきではない問題なのだろう。
自慢ではないがエルピスは自分が知恵者として劣っていることを理解している。
だからこそエルピスに出来ることはというといつもどうり彼女を信じる事だけなのだ。
「とりあえずこれだけ見たら後は飯と寝床くらいのもんだな、先に宿にでも行きな」
「じゃあそうさせてもらおうかな? エラ達はどうする?」
「私はリリィさん達と一緒に村の物を見てきます」
エイルの言葉に思考を取り戻して視線をエラに向けてみると、どうやらまだ観光を続けるらしい。
「悪いけど僕はこれで席を外させてもらうよ。悪巧みしないといけないからさ」
「俺様は特に予定もないしエルピス様について行くぜ」
「なら俺とアーテは宿に直行だね、先に行ってるから何かあったら宿にまでお願い」
「……ではトコヤミを探してきます」
ニルは早々にどこかへと向かってしまい、エルピスとアーテは村の中にある宿屋を探しに来た道を再び戻っていく。
一人ぼっちで残されたアケナは一瞬エイルと視線を交換したのちに気まずい空気から逃げるようにして妹を探しに小走りで村の中を走っていくのだった。
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