第121話神の名を冠する女
数日前にやってきた酒場に改めてやってきたエルピスは、一人で静かに酒を煽りながら小腹を埋めていた。
明日城に行くとするとおそらくはもう土精霊の国に滞在する事はないだろう、いつもの流れなら何か問題が起きてそれを解決してその場を後にするだけだ。
酔い無効化を無効化し、酩酊していく感覚に身体を浸らせながらエルピスはかつて通った国を思い出す。
共和国ではもう少し料理を味わいたかったし、連合国ではカジノや山登りなどを体験したかった。
森妖種の国では弓を使って狩りにも出てみたかったし、帝国では大会にも出てみたかった…。
思い返せば異世界らしいことといえば道中が殆どで、共和国から王国へと帰る間に見た山を背負ったカバは中々に見応えがあったものだ。
「お客さん笑ったり落ち込んだり忙しいね」
「今日はそういう気分なんですよ、雪でも降らしてやりたいくらいです」
「そう言えばもう冬ですね…雪も降れば客足が伸びるんですが」
「……雪降らしましょうか?」
「もしできたら今日の御題は無しでもいいですよ」
頬杖を突くどころか上体を倒しカウンターに体を倒したエルピスは、マスターのそんな言葉を聞きながら小さく魔法名を口にする。
冗談で口にしただろうと思っていたマスターとしては、目の前で蠢き出したエルピスの魔力は驚愕に値するものだ。
いままで見たことのないほどの魔力の奔流は一瞬空へと飛んだかと思うと、次第に窓の外が白く雪で染まっていく。
「えぇ……」
「これでお代は無しですね!」
「まぁ約束ですから…って! また珍しい人も来ましたね」
マスターの言葉に背後にある出入り口に目を移してみれば、茶色のくたびれたフード付きのローブに身を包んだ人物がどんどんと床を踏み抜かんばかりの足取りでやってくるとどかりとエルピスの隣に座る。
身長は170前半くらいだろつか、身長から考察するのであればおそらくは土精霊ではないだろう、だがマスターがそう口にしたのだから知り合いではあるのだろうか。
何かを口にする前にマスターが酒を置くと、浴びるように飲み干すと大きな音を立てながらどかりとジョッキをカウンターに置いた。
「ううう、寒っぶ。急に雪なんて運が付いてないわ……ん? 君か誰かと思ったら、話は聞いているよエルピス君だよね?」
酒を一口で飲み切ってしまうあたり土精霊くらいには酒に強い種族なのだろう。
突如名前を呼ばれたことに警戒してしまいそうになりながら、なるべく普段と変わらない態度でエルピスは言葉を返す。
「そうですが……あなた誰ですか?」
「私は……その前に顔を出した方がいいか」
フードで隠れた顔をさらした瞬間にエルピスは妙な空気の変化を感じ取る。
赤い髪に紫色の瞳をした女性、改めて見直して身長はおそらく173くらい。
亜人種の女性としてはそれほど珍しいことでもないが、土精霊にしか見えない目の前の女性がそれだけの身長を保有している理由は謎である。
街中でも何度か女性の土精霊と出会うことはあったが、そのどれもが男性と変わらず成長が止まったままであった。
もしかすればゲイルと同じ遥か昔から生きている土精霊なのではないかという考えが一瞬頭の中を過ぎていくが、エルピスはその考えを即座に否定する。
「随分とお強いようですね。久々にこんな強い人を見かけた気分です」
「そういう君も流石に強いな」
神域によって得られる彼女の情報と完全鑑定すら無効化する能力の高さにエルピスの思考は戦闘がいつ起きてもおかしくないという事を認識する。
無意識の間に手の中に有ったのは今朝出来上がったばかりの愛刀であり、一触即発の雰囲気に騒がしかった酒場は静寂に包まれていく。
(熱い……氷が解けてる?)
次の言葉次第では戦闘が始まる可能性すらある。
そう思い油断なく警戒していたエルピスは自分の体から汗が垂れ始めたことで周囲の温度の高さを認識した。
カウンターに使われている木材が燃えにくいように加工されていなければとっくの昔に燃え上がっているだろう、彼女の手にしているグラスは既に半分溶けかかっておりその温度の高さを物語っている。
この暑さは目の前の女性から放たれており、燃え盛る大炎を幻視してしまうほどだ。
「こんなところで殺し合いを始めたらいったい何人死ぬんだろうね、考えたことはある?」
「考えたことはもちろんありますが、自衛の為には仕方がないことだと割り切っています」
「そっか、まあ別に戦闘する気はないからさ。
私は鍛冶神、君が探していたこの国を管理する土精霊達の王であり神である」
──失敗した。
目の前のそれが本当に鍛冶神であるならば、いやもはや疑う余地すらもなく鍛冶神を相手にして今のセリフは問題でしかない。
もしエルピスが国を作ったとして、その国でやってきたよそ者がお宅の国の民が死のうと仕方がないことだと口にしてきたら自分はどう思うだろうか。
戦闘になることはエルピスから手を出さない限りはないだろう、彼女がこの国を守りたいという気持ちがあるのは嘘ではないだろうしたとえそれが虚偽であったとしてもエルピスとしてはもはや戦闘どころか交渉の場につけるかすら怪しい。
全力で頭を回転させるエルピスに対してほんの少しだけ笑みを見せると、鍛冶神はとりあえず座るようにエルピスに手で誘導する。
鍛冶神とどこからか来た誰かが交渉している、しかもその見知らぬ奴は腰に剣を指したまま、周囲の土精霊からの敵意を買うのには十分な状況にエルピスはひやりと汗が流れ落ちる。
「さてエルピス君、まあとりあえず酒飲めよ」
「……いただきます」
「もちろん無効化はそのままだ、アタシと酒を交わせるなんて凄い珍しい事だぞ? 光栄に思いなよ」
戦闘になれば勝てるだろうか?
もし神樹を切った力が限界であればエルピスに勝機はある、ニルやセラがくれば負けることは殆どないだろう。
だがもしあれが限界でないとすれば?
生産職の神がわざわざ自分の身一つで戦う必要はない、自分よりも強い道具を作っていたって何にもおかしくはないのだ。
乾いた喉を潤すためではなく、空気に耐えかねて顔を隠す為に酒を口にしたエルピスは事前に決めておいた救難信号を出しながら鍛治神との会話を続ける。
「それでこちらに近づいてきた用事はなんだったんですか? 本当に偶然というわけでもないでしょう?」
「いや、それがねぇ偶然なんだよ奇妙なことに。
ふらっと久々に外を歩いていて、雪が降ってきたから中に入ったら君がいただけだ。
嘘はついていない、本当だ」
相手が神でなければ技能を使って判断することも可能だが、鑑定を無効化する人物に対して技能が有効的に作用するとは考えにくい。
「だとしたら日を改めて、もう一度正式にお目通りをさせてもらいたいですね。
今日の格好は神の前に出るにはあまりにも質素ですし」
「君も神なんだ、気にすることはないだろう? それとも私を狙っているのかな」
「残念ながら私には既に四人も愛するべき人がいるんです、新しく加えるつもりはありませんね」
面白くない冗談だと目で返したエルピスに対して、鍛治神は飄々とした態度を崩さないままである。
自身たっぷりとも言える態度だがそんな態度を鍛治神が取るのも無理はないだろう、彼女の容姿は確かにエルピスがいままで見てきた人物達の中でもトップクラスに位置する。
神の能力が関係しているというよりかは生まれ持っての美醜だろう、誰からも羨まれる程の容姿を持ちながら他者からの期待に押しつぶされない芯の強さを持つ。
もし時代が違えば確かにそういった可能性もあり得たのかもしれない、だが残念ながらそうなる事はなかった。
「そうか、まぁ
正式に来たいというのならそうすればいい、私はいつでも待っているよ。
好きな時にくればいい」
「ではさっそくですが明日、城の方に行かせて頂きますね」
「構わないとも、好きにすればいい。
それでは。失礼したね」
なんとも言えない距離感を保ちながらも神同士の会話はここで一端の終わりを見せる。
なんとも言えない空気の店内に耐えられなくなったエルピスは、金銭を支払い店から出ると宿屋の方へと歩いていく。
周りを見回しても鍛治神の姿はなく、エルピスは自らが降らした雪で肌寒さを感じながら帰路に着くのだった。
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そうして宿屋で事の顛末と状況を伝えたエルピスは、自室で灰猫やフェルと共に床についていた。
最初は二人は別部屋に泊まりエルピスは女子達と共に同じ部屋で寝る案もあったのだが、ニルの反対とエルピスの反対があったためその話はご破産になった。
エルピスの反対は灰猫やフェルとの会話の時間を作りたかったのと、たださえ気を遣ってもらっている二人にこれ以上気を遣ってほしくなかったからだ。
フェルは気にする様子もないが灰猫は常に自分の立ち位置を気にしている、ふと気づいたら居なくなっていたでは遅い。
ニルが反対したのは簡単な理由である。
いわく同じ空間に日長く居続けたら我慢が効かないから、わかりやすく彼女らしい事だ。
そうして男だけの部屋の中でエルピスは明日の予定を組み立てていた。
「とりあえず明日は灰猫とフェルについてきてもらおうと考えてる。
正直鍛治神相手にどうなるか分かんないんだけど、灰猫には交渉を、フェルには緊急時の戦闘要員をしてほしい」
床の上に大きな紙を開きながらエルピスが説明するのは、明日城に入った後の立ち回りについてである。
もはや鍛治神と直接対面してしまった以上隠す必要も無くなったエルピスは、神域によって城の構造を完全に掌握。
罠や死角などについて詳細が記入された地図を作り上げることに成功していた。
寝巻きに着替え、楽な格好をしている灰猫は尻尾をゆらゆらとさせながらエルピスの言葉に対して頭を縦にふるう。
「任せなよ、猫人族は気配の変化に敏感だからね。交渉もきっと上手くいく」
「私からも推薦したいですね。灰猫は中々にやりますよ」
自信満々な灰猫に対して、うんうんと頷くフェル。
いつのまにか仲良くなっていた二人を見てふとそのまま言葉をこぼしてしまう。
「仲良いな二人とも」
「まぁ二人で組むことも多いですからね」
「僕は別にエラとかアウローラとも遊ぶから良いんだけど、フェルはいっつも一人だもんねぇ……」
「人や混霊種を相手にするのには慣れていないんですよ…。セラさんニルさんに関して言えば天敵ですし」
言われてみれば灰猫は確かに少なくはあるがエラやアウローラ、それこそセラやニルとも喋っているところを見かけるが、フェルはほとんどと言っていいほどない。
悪魔のフェルからしてみればセラやニルの相手が難しいのは理解できる、あの二人は天使寄りの神なのでそういうこともあるだろう。
だができればアウローラやエラとは仲良くしてほしいものだ。
ともすれば必要なのは共通の話題だろうか、自分の事を思い出してみるがエラとは両親や家の話をすることが多いし、アウローラとは日本での話をすることが多い。
フェルにそれを喋らせるのは難しいだろうから、そうすると灰猫に効くのが手っ取り早い手法だろう。
「灰猫は普段どんなことをエラ達と喋ってるんだ?」
「僕は基本的には食事と戦闘についてかな。
エラとはよく戦闘訓練をしたりもするよ、移動が早いからその土地の物を買ってきてみんなで食べたりとか」
「なるほど…ありだね確かにそれ。灰猫そんな事してたんだ」
「フェルのタメ口ってなんか新鮮…じゃなくて確かにそんな事してたんだ。
知らなかったわ」
「エルピスもフェルも、ちょっと目を離したらふらっと居なくなって何かしに行ってるからね。
アウローラやエラがなんど頼ってほしいとぼやいてたことか」
思い当たる節しかない。
基本的に諜報任務を行うときはフェルと一緒に外に出ているし、他のメンバーを危険に晒すわけにも行かないので説明も特にこれと言ってしていない。
それがアウローラやエラを不安にさせてしまっているのならば、極力治した方がいいだろう。
「それ言われると厳しいな…」
「今回もきっとアウローラは連れて行ってほしいと思いますよ」
その言葉は確かに正解だ。
エルピスだってそんな事は分かっている。
だが──
「……これはここだけの話なんだけどさ、俺怖いんだよアウローラやエラが死ぬのが。
ニルやセラは死なない、多分死ぬとしたら俺の方が先に死ぬ、でもアウローラやエラはどうか分からない。
あの二人が死んだら俺はどうすればいいんだ…?」
目の前で他人が死ぬのが怖い。
自分があっけなく他者を殺しているからこそ、そうしてあっけなく他者が死んでしまう事を分かっているからそれが怖い。
怖いならば外に出てこなければいい、家に引きこもりそうして一生大切な物を守るために過ごしていればいい。
それは正論だ、だがそうしてしまったら二度と自分は外に出れないとエルピスは知っている。
だがらリスクを承知で旅に同行し、そして極力リスクを減らす立ち回りを選んだのだ。
「死を怖がるなら連れてくるべきじゃない……そう口にするのは簡単ですが、あの二人なら置いていかれるくらいなら自分も死ぬって言い出しかねないですね」
「僕はエルピスが何に困っているのか理解に苦しむよ。
そもそも君自身が死んだらどうするんだい?
今まで明確な死の危険性を感じたことがないから自分の死を甘く見ている。
そして残された人間がどんな気持ちになるのか、それも全く理解ができていないんだよ。
だから君たちは行動を共にしているのだとばかり思っていたけれどね、惰性で連れてきただけならいつかどちらかがどちらかの足を引っ張る。
そうして死んでいったパーティーを見ることはそう珍しくもなかったよ」
フェルの意見はそれこそ灰猫が口にする通り絶対に自分は死なないという思いが心の底にあるからこそ出てくる言葉なのだろう。
それに対して灰猫の答えは明確である。
どうせ死ぬのであればともに死ぬべきで、それすら許容できないのならばおいてくればいい。
他人に対して一緒に死んでくれという事がいったいどれだけ難しいか、ましてや相手は自分が最も大切にしている人物達である。
自分にはとてもではないが口にできない、だがエルピスが彼女たちに要求しているのはこれとほとんど変わらないものだ。
自分のために死んでくれ、彼女たちがもし死地に向かうエルピスを何もせずに見送ったのならばそう口にしたと捉えられても文句を口にすることはできないだろう。
「……ごめん、ちょっと外行って考えてくる。フェル、悪いけど警備頼むね」
「いってらっしゃいませ」
「朝までには帰ってくるんだよ?」
「分かってる」
見送られるままにエルピスは服を羽織り外へと出る。
雪は未だに土精霊の国を白く染め、寒さは身体の中を突き抜けていくようであった。
そうしてエルピスは一人夜の街へと歩き出す、向かう先もないままに頭を悩ませる中で、もしかしたら先程まで鍛治神が外にいたのはこんな状況だったからなのかもしれないとふと考えた。
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