第91話風呂上がり

「──ええっと何この状況」


 身体に当たった冷たい風で目を覚ますと、頭の下には何やら柔らかい感触。

 そして視界いっぱいに広がるのは顔を覗き込むようにして身を乗り出しながら、笑顔でこちらを眺めているアウローラだ。


 吐息が顔に当たる様な距離にアウローラの顔がある事もエルピスからすれば理解できないが、いま最もエルピスが分からないのは何故こんな状況になっているかである。


 跳ねる心臓をなんとか抑えようと思っていると、アウローラがゆっくりと口を開いた。


「やっと起きたのね、目は覚めた?」

「──えっと、目は覚めたけど、どうしてこの状況になったの?」

「あんたがそこにあるお酒飲んじゃって、酔ったのよ」


 そう言われればなんだか凄い恥ずかしいセリフを言った気もするし、悪ノリで何か悪い事をしてしまったような気もする。

 もしアウローラにキスでもしていたら……そう考えるとエルピスの背筋を詰めたい汗が流れていく。


 付き合った以上いつかはそういう事もするだろうが、それはこんな場所で勢いでしていいものじゃない、場所と雰囲気をしっかりと作った上でするべきだ。


「──確認だけど俺何もしてないよね?」

「どうでしょうか?」

「本当怖いからやめてそれ!」

「そう?」


 エルピスが顔を青くしながらそう言うと、アウローラは悪戯っ子の様な笑みを見せる。

 下から見上げているからか、普段とはまた違った角度から見えるアウローラの顔はエルピスが思っているよりもずっと綺麗で、思わず触れてしまいたくなる。


 無意識に伸びていた手がもう少しでアウローラの顔に触れるその時、そのアウローラが口を開いたことでエルピスの動きは止まる。


「私の髪の毛触った以外には何もしてないわよ、でも女の子からすれば髪の毛触られるのって、凄い恥ずかしいから次からはやめなさいよ」

「あ、あぁ。ごめんね」


 そんな事を言いながらアウローラの膝からとっとと逃げ、エルピスはアウローラから離れて湯船に浸かる。

 メイド同様見られて困るものは無いのでエルピスは良いが、アウローラはそういうわけでも無い。


 見られて減るものがある以上は一緒にいるべきでは──というかそもそも付き合っているとはいえまだ同じ風呂に入るのは早いのでは?


 そこまで考えてふとアウローラがこちらを見つめている事に気付く。


「なんだよ、確かにちょっとダサかったかもだけど」

「いや、本当に付いてないんだなと思って。美術品見たいな身体してるわねあんた」

「そんな上から下までジロジロ眺めないでよ恥ずかしい!」

「羞恥心とかあったのね。てっきり無いのかと」

「そんなに見つめられたらさすがに恥ずかしいわ!」


 上から下まで自分の事を舐め回す様な視線で眺めてくるアウローラに対して、たまらないとばかりにエルピスは自身の体を手で覆う。

 見られて困るものがない以上隠すものなど無いのだが、とは言っても習性的なもので隠したくなるのが人間の心だ。


 それにアウローラの目線がいつもと違うのをエルピスは見逃さなかった、あれはあのまま近づいていると食われる。


「自分より恥ずかしい人がいるって良いわね。それに今からよ? 多分本当に恥ずかしいの」

「へ? 何言ってんのこれ以上はないでしょ」

「あんたさては私の裸気にして気配察知切ったでしょ」

「──うっ」


 図星である。

 気配察知は見るというより、実際に触っているくらいの情報量が頭に入ってくる。

 もしいまエルピスが〈神域〉なんて使えばつま先から髪の毛の一本に至るまで、アウローラの全ての情報が頭の中に入ってくるのだ、それはエルピスの精神衛生上非常によろしくない。


 では普段はどうしているのかと聞かれれば、迷宮の時と同じで索敵範囲を広げる事で情報量を多くして無視している。


「まぁそういうヘタレなところも嫌いじゃないけどね? 脱衣所の方見て見なさいよ」

「うっそでしょ!?」


 アウローラに言われ出入り口の扉を見ると同時に、音を立てて脱衣所とここを隔てる扉が開く。

 扉の先に居るのは、おそらく先程まで両親と会話していたであろう三人の少女達。


 それぞれが子供らしさを残しながらも、大人に負けない色香を発して居る美少女達が、今のエルピスには死神が鎌を持って走ってくる様にしか見えない。


「三十六計逃げるに如かず。転移魔法──」

「──阻害魔法〈テレポートキャンセル〉」

「いや、何そのチート魔法!?」


 一瞬白く染まった視界に安堵を浮かべながらそのままエルピスが転移しようとすると、それを読んでいたとばかりにセラが魔法を無効化する。


 転移魔法は自信を一旦魔素に変換し、移動、再構築の手順を踏むことによって短時間の間に遠い場所へと移動することができるのだが、セラはそれをさせないため周囲の魔素を完全に固定したのだ。


 魔素が固定されていると自分を魔素化しても、固定された魔素が邪魔すぎるせいで転移魔法は発動すらできないようだ。

 どうにかして逃げられないだろうか、そう思っていたエルピスの手を誰かが掴む。


 いまは藁だろうとなんだろうとこの場から逃れられるなら掴もう、そう思いエルピスが視線を手の主人へと移すと、そこにいたのはエルピスがいま一番会いたくない人物だった。


「背中流しますよ、エルピス」

「いやあのエラさんちょ、離して、いやマジでダメだって!」

「風呂場で暴れたらダメだよエルピス、マナー違反だから」

「普段公共の場でくっつこうとしてくる奴がなんか言って来てるんだけど!?」

「観念した方がいいわよエルピス。義父様からも許可を貰ったし、誰もここにはこないわよ」

「棚からぼた餅、鰯網へ鯛がかかる、鴨が葱を背負ってくる、天然礫のまぐれ当たり、寝ていて餅 」

「ニル、ぶつぶつ言いながら近寄るな! 俺の側に近寄るな──」


 魔法がダメなら物理的に逃げようとした所をエラに掴まれ、更にセラに両手を押さえつけられる。

 逃げ場を完全に失ったエルピスは、素直にセラ達にされるがままにされる。


 二度と毒無効化を解除して酒は飲まない、そう心に決めながらエルピスは遠い街の景色をぼーっと見つめるのだった。


 #


「お食事お持ちしました」


 なんとか命からがら風呂場から出て来れたエルピスは、窓辺で風を浴びながらエラ達の食事が終わるのを待っていた。

 先に食べていたわけでは無く、いまのエルピスは権能を三つ解放しているのだが、その権能の調整が上手くいかず神人としての側面が強く出てしまい食事を取れないのだ。


 早くて後二週間は権能もまともに使えないし、こうして食べ物を食べたりはできないだろう。


「ありがとう。いただきます!」

「いただきます。エルピスは食べなくても良いの?」

「俺は今ちょっと食べれないからいいよ、ありがとね」

「ならこれ直ぐ食べちゃうから、待ってなさい」


 そう言いながらも綺麗に食べるアウローラを軽く横目で見ながら、エルピスは外の景色に目を落とす。

 風呂から上がって速攻イロアスに文句を言いに行ったエルピスは、1つ気にかかる事を言われた。


 イロアスが通話を終える最後にポツリとこぼした『そう言えば、最近銃が森妖種の国から流れてきているらしい』と言う言葉がどうにも気になる。

 此処は辺境ではあるが、ここだって森妖種の領土内だ。


 空達との戦闘でも銃は出てこなかったし、それにこの世界で武器として通用するレベルの銃なんてエルピスも未だに数回しか見ていない。

 温泉都市という性質上あまりここら一帯はセキュリティも高くなく、だからこそお尋ね者に近いエルピス達もゴロゴロできているのだが、もし敵が森妖種国内で何かするとしたらここら辺で行動を起こす可能性が高い。


 エルピス達が身分証明も何も無しでこの街に入れたと言う事は、敵も何時でもここにこれると言う事だ。

 そして此処はアルヘオ家の土地がある事でも有名らしく、それ目的で訪れる人も少なくないらしい。

 つまりは──


「連合国の件でもう連合国関連の奴らは来ないだろうが、アルヘオ家の長男である自分の首を狙って誰かがここら辺に来ている可能性がある。

 もしかすればだが異世界人に襲撃される可能性もなくはない、警戒しなければいけないな──ってとこですか?」

「俺のセリフを全部取らないでよ。…もう向こうでの作業は終わったのか?」

「はい。首尾はバッチリです」


 エルピスが腰掛けている窓の外から聞こえる声の主ーーフェルはそう言いながら窓から部屋に入ってくる。

 ここに来るまでに一仕事任せていたのだがそれをどうやら終えてきた様で、服は赤く染まり翼は荒々しく羽ばたき続け、瞳孔は開きっぱなしだ。

 どうやらここに来るまでにかなり無茶をしたらしい。


「大丈夫か?」

「はい。神経、魔力回廊共に損傷していませんので、エルピスさんの近くにさえいれば勝手に回復します」


 そう言いながらエルピスと同じように窓辺に腰かけたフェルを見ると、確かに徐々に回復している様だ。

 もう返り血も消え、先程まで見えていた傷も今では跡すら残っていない。


 邪神の力が以前よりさらに濃くでているので、龍と同じ様に悪魔であるフェルも今のエルピスの近くにいるだけでその力を増幅させていくのだ。


「共和国の一件はどうなった? 当初の予定だと手紙渡してくるだけだったけど、その様子だとなんかあった?」


共和国の元盟主、アウローラを襲ったもはや名前すら覚えていない貴族に対してエルピスは手紙を送っていた。

その配送係がフェルであり、エルピスは相手の反応がどのようなものだったかを楽しみにしながらフェルにそう問いかける。


「それが…その……なんと言いますか──」

「何しててもスッキリするだけだから、そんな怯え無くても良いよ」

「それなら…言っても絶対に怒らないで下さいね?」


 これでもかとダメ押ししてくるフェルに違和感を感じながらも、エルピスは頷く。

 別に誰が何を言ってこようが構わないし、フェルが血だらけという事はエルピスが切れるほどの何かに対してフェルも切れて、相手にそれ相応の仕返しをしてきたという事だ。

 今更蒸し返す話でもない。


「手紙渡したら謝られて何かくれるって言うんで、今回のこと依頼したやつを好きにする権利くださいって冗談で言ったら本当にくれまして……そいつもろとも殺しちゃいました。てへっ」

「──は!? なにしてんの!?」


何をしても怒らないとは約束した。

約束したが、やりすぎだ。

怒りをあらわにしたエルピスを前にして距離をとりながら、フェルは話が違うと声高に叫ぶ。


「いま怒ってますよね!? 怒らないって約束じゃないですか!?」

「何のために俺が手紙書いて、わざわざあいつ見逃してやったと思ってんだよバカ! 

 これで殺した盟主三人目だぞ!? さすがに共和国のやつに怒られるわ!」

「僕これでも悪魔ですよ!? そんなこと言われても分かりませんよ!」


 こいつ言い訳ばっかしやがって……。

 エルピスが邪神の称号を解除しているおかげでこの前までとは比べ物にならないほどに強いフェルが怪我をしていたのは、恐らく盟主の周りにいる聖騎士クルセイダーや聖魔導師、もしくは先祖返りか最悪異世界人にでもやられたのだろう。


 だが闇討ちが得意な悪魔は正面切って戦闘しないとそうはならないので、わざわざ殺しに行くと宣言でもしてから戦ったのだろう。

 短い付き合いではあるがその程度ならわかる、フェルはそう言うところを重視したがる。


「ご馳走さま──どうしたの? なんかあった?」

「聞かない方が良いと思うよ……」

「私とあんたの仲じゃない。悩み事があるなら聞くわよ」


 お腹をさすりながらこちらに歩いて来たアウローラは、近くに置いてある椅子を取り、フェルに一瞥してから座る。

 エルピスはそんなアウローラを見て少し驚愕する、食べてきた量も量だが速度も速度だ。


 十分ほどで食べ終わったが、おおよそ一人で食べる事を想定してない様な量だったぞあれ。

 前世は大食いチャンピョンでも目指してたんだろうか。


 そう思いながらもアウローラが悩み事を聞いてくれると言うので、エルピスは素直に話す。


「今回の件を裏で企ててたやつ居たじゃん?」

「私のこと捕まえようとしてた奴と仲良かったやつよね。そいつがどうしたの?」

「──フェルが殺っちゃったらしい。しかも盟主もついでに」

「えっ!? ま、まぁこの際殺しちゃったもんは仕方ないか。ちゃんとバレない様に後始末してきた?」

「そりゃもちろん。今回は完璧ですよ、状況証拠も物的証拠も全て消してきました!」


 文字通り全ての証拠を消滅させてきたのだろう。

 申し訳なさそうな顔をしながらそう告げたフェルを見て、アウローラは深くため息をついたと思ったらフェルに真剣な顔をして言葉をかける。


「そう、まぁならいいでしょう。悪魔の君に言っても仕方ないと思うけど、あんまり人は殺さないでね。

 今更感はあるけどさ、無駄な殺生はしたくないし」

「アウローラさんは心優しいですね、僕なら生皮剥いで車輪にかけてますよ」

「あんたそれ絶対実行したでしょ……まぁもう考えてても仕方ないか。卓球しに行きましょ! 卓球!」


 今更終わった事をうだうだ考えていても仕方ないと割り切ったのだろう。


 そう言いながら浴衣を振り乱し、アウローラが廊下を走っていく。

 アウローラばかりに重荷を背負わせる訳にもいかないし、せめてストレス発散に付き合うべきだろう。

 そう思いながらエルピスのみんなの後に続いていくのだった。


 ちなみにフェルは今回の件でまたみんなから怒られて少し落ち込み、殺していいと思う人間でも事前にエルピスか誰かに報告する様に心に誓うのだった。

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