第90話温泉
そんなこんなで長い長い山道を登り、エルピスは両親が掘り出した温泉に浸かっていた。
先程のニルとの戦闘含めここ最近酷使し過ぎていた身体の疲れが徐々に抜けていき、動けなくなるくらいの脱力感に身を包まれてエルピスはほっと息を吐く。
秘境と呼ばれるだけあって山奥の中にひっそりと佇むこの風呂場は、何といっても露天風呂が最高である。
雪によって白く染められた山脈の中で風に煽られてゆらゆらと揺れる木々、それらの間をのそのそと歩きながら生きている魔物達の姿。
息を呑むほどの絶景でありながら異世界としての風貌も携えているこの景色は、エルピスがこの世界に来た中で最も良い景色かもしれない。
「うーん、落ち着く〜」
そう呟いてしまうのも仕方のない事だろう。
〈神域〉も解除し身一つでゆったりと湯につかれる事に幸福を覚えていると、ふと背後から声がかかる。
「エルピス様、クリム様から連絡が」
「母さんから!? あと普通に入ってこないでよ!」
いきなり母親の名前が出てきたのも驚きだったが、それよりも驚いたのはいきなり入ってきたメイドだ。
優雅に露天風呂に入ってきているときにいきなり他の人が入ってくれば、いくらエルピスに見られるものが無くても驚きはする。
着替えは慣れたからもう何も思わないが、入浴はさすがに無理だ。
異性に見られながらのんびりと湯船に入れるほど図太くない。
「申し訳ありません。エルピス様が荷物を置いた部屋の横がその部屋になりますので、なるべく早くいらしてください」
「いや、もう行くよ。母さんと喋りたいしね」
「──あら、意外です。見せるのは良いんですね」
「いきなり入られるとびっくりするけど、別に見られるものもないしね。
心構えさえしてれば大丈夫」
湯船から上がり全身を魔法で乾燥させながら、エルピスは軽くメイドと会話をする。
前にも言った通りエルピスには物がついていないので、別に見られたところで何が変わるわけでもない。
脱衣所で服を着替えエルピスは廊下を歩きながら母と話す内容を考えていると、いつのまにか言われていた部屋にたどり着いた。
「こちらのお部屋です」
そう言われて襖を開け中に入ると、驚く事に和風の建築様式に対して部屋の中は魔法陣だらけだった。
おおよそエルピスに理解できる要素が一つも無い多種多様な文字式が使われ、更にはそれらを組み合わせると言う離れ業さえしている。
こんな事が出来るのは父くらいだろう。
魔神の権能を使えば真似はできるが理解できない、後で解読してみるのもいいだろう。
そんな事を考えているとふとメイドに手を取られる。
「エルピス様、失礼ですがお手を失礼します」
「あ、え──痛ッ!?」
「アルヘオ家の者が血を垂らす事で発動する魔法故、失礼いたしました」
「ああ、大丈夫です。気にしないでください」
先に言えよと少し思うが、まぁ終わったことを口に出しても仕方がないだろう。
エルピスの血が一滴魔法陣に垂れると、それに反応して魔法陣が光りだす。
魔力自体は部屋の中にいる者の魔力を使う様で、微量ではあるが全身から少しづつ吸われていくのを感じる。
エルピスの魔力に呼応して光り出した魔法陣を眺めて居ると、微かな雑音と共に壁に映像が浮かび上がっていく。
写って居たのはイロアスとクリム、こうして顔を合わせて喋るのは何年ぶりだろうか。
「──久しぶりねエルピス。怪我や病気はしてない?」
「心配し過ぎだぞクリム。久しぶりだなエルピス」
「母さん、父さん!」
実に四年振りの両親との再会に、エルピスは胸が熱くなる。
語る事は多くあるが、それよりも先ずは両親の事を聞きたい。
そう思いながらもエルピスは、ふと疑問に思ったことを両親に聞く。
「そう言えば、フィアは居ないのですか?」
フィア・アルヘオとはエルピスの妹である。
まだ実際には一度も出会ったことはないが、クリムと文通をする際に何度か返事を送ってもらったこともある。
メイドに持ってきてもらった椅子に座り、先ず話すとすればその最愛の妹の話だろう。
直接会った事が無いのでまだ顔合わせが出来ておらず、この機会に顔が見えるかと思ったのだが……。
どうやら現実は非情らしく、フィアはこの場に居ないようだ。
「フィアなら友達と遊びに行ってるよ。まだ五歳なのにやんちゃになっちまって…。誰に似たんだか」
「お兄ちゃんみたいに強くなる~って、この前も
緑鬼種といえば冒険者組合の基準で言えば一般人でも倒せる相手、だが油断していれば冒険者でも負けることはあるし、あれらは他種族との性行で子供を作るので出来ればやめて欲しいものだ。
魔界の緑鬼種がどのようなものかまで詳しくは知らないものの、もし自分がその場いたのなら母と同じ行動を取っていたのだろう。
そんな事をエルピスが考えていると、イロアスが不安を口にする。
「お前は小さい頃から無駄に強いし頭も回るから不安は無かったんだが……なにぶんフィアはお前みたいに生まれつき強いわけでも無いし、頭もまぁ悪くは無いんだけどなぁ……なんか不安になるんだよ」
「そこがまた可愛いんじゃないのイロアス。
エルピスなんていつ覚えたのか親にまで敬語を使い始めちゃって、あの時の私の悲しさと言ったら…」
(そう言えば三歳くらいの時に初めて敬語を使ったら、母さんは二日くらい部屋から引きこもって出てこなくなったっけか)
イロアスや周りのメイド達にも特に何も言われなかったが、何分母は甘えられて無いと落ち込む人だから相当に堪えるだろう。
そう思いながらも何か上手いことごまかせないかと考えていると、イロアスがポツリと思い出したように漏らす。
「でも俺と二人の時は基本敬語使わないよな。クリムの時もそうだろ?」
イロアスが何気なく言ったつもりのその一言は、クリムの心に深く突き刺さったようで、恐らく必死に今までの良い記憶を思い出そうとしたクリムは絞り出すように一言。
「……無い。お母さん以外に呼ばれた事無いし、何かお願いされる様な事もなかったし、頭も10歳になってから一回も撫でてない気がする」
「そんなに落ち込まないで母さん。別に嫌いでやってた訳じゃないんだよ? ただなんて言うか……恥ずかしくてさ」
「……うわぁ」
必死に母親のカバーに回った息子を見て、父親が無意識に漏れる言葉がうわぁとは随分な良いようだ。
(そもそもの話お父さんがこんな話をしなければ、お母さんもこんなに落ち込まなかったのに)
そう思うが実際に会っているわけでもないので何かできるわけでもなく、エルピスは部屋の魔法陣から向こうとの位置関係を割り出しつつイロアスを睨み付けると、不意にイロアスの方から質問された。
「エルピス。俺が今から言う質問に正直に答えろ」
「急にどうしたんですか父さん? 一応答えますけど」
「お前一緒に旅してるやつ何人いる?」
「七人行動ですね、最近一人増えました」
「そのうち何人が女子だ?」
「4人ですね」
「エラとヴァスィリオの嬢ちゃんにセラちゃんは分かるが、何時の間に一人増やしたんだよ…」
怒っていると言うよりは、どうしようか悩んでいる様な表情を浮かべるイロアスの横では、聞いていなかったとばかりに驚きながらエルピスとイロアスの方をチラチラ見ているクリムの姿があった。
──確かにそう言われてみれば、父さんや母さんにはニルの事を言っていなかった。
「ニルは最近会ったばかりなので知らないのも無理はないですね」
「ニルって子は誰なんだ?」
「ニルの事を話すとなると、結構長くなるけどいいの?」
「子供と話すのに時間を気にする親が居るか。今日は好きなだけ話すぞ」
そう言いながらお父さんはエルピスの頭を撫でようとする。
魔素で形成された擬似的な手に関わらず、その手は何故か暖かい。
「あれは1ヶ月くらい前の事だったんだけど──」
#
「ふぅ」
天高く昇っていた太陽が地平線の彼方に落ちていくのを見ながら、エルピスは再び湯船に浸かり連合国での疲れを吐き出す。
クリムやイロアス達が魔族領に行ってからの4年間の話を三時間ほどかけて喋り、話す内容が少なくなって来たくらいで、クリムが『そんな話聞いてたら私もその子達と喋ってみたくなっちゃった』と言い出して、それにイロアスも賛同したので、その間にエルピスは食事と風呂を済ませて置こうと思ったのだ。
「にしてもほんっとに綺麗な景色だな」
僅かに紅葉を残した山脈の中にちらほら見える街と、真正面にある海まで吹き抜けの景色は見るものの心を穏やかにするには充分すぎるほどの美だ。
フィトゥスならこの景色をエルピスが見たいと言えば、実家でも何とかして再現するんだろうなぁ……と、先程アルヘオ家本邸に帰ってきたと報告のあったフィトゥス達の事を思い出す。
──そろそろお母さんとの
「ハァ……やっと終わった」
「お疲れアウローラ。質問責めにあったみたいだね」
「そうなのよ──って何でエルピスが居るの!?」
タオルを付けながら入ってきたアウローラを出迎えると、どうやらエルピスに気づいていなかったらしく、アウローラは驚きの声を上げる。
「おいおい頼むからやたらめったら物を投げないでください、痛いです」
飛んでくる物体を適当に避けつつ、エルピスは視線を町の方へと戻す。
やはり溜息が漏れ出すほどに綺麗である。
「ちょま、は、え? 何でエルピスが居るの? しかもなんで私の裸より街の方見てるわけ!?」
「そりゃここは公共の施設でも無いんだし、お風呂は1つでしょ」
「──そう言われると何も言い返せ無いのが不思議ね……というかだからなんで外の景色見てるのよ、せめてこっち見なさいよ」
「見たら怒るくせに」
「よく分かってるじゃない」
なんだかんだ言いながら湯船に浸かり、完全に困惑しているアウローラに対してドッキリを仕掛けてやろうと音もなく近づくと、エルピスはゆっくりと髪を撫でる。
この前灰猫もこれが一番落ち着くと言っていたし、エルピスもされて嫌な気はしないので大丈夫だろう。
それにしてもコンディショナーもシャンプーもこの世界には無いのに、髪の毛がサラサラだ。
随分と髪に気を使っているらしい。
「──ふえぇ!? な、何すんのよ! というかいつのまに」
「気配を殺して忍び寄るのは得意だから。髪綺麗だね、シャンプーでも持ってるの?」
「あぁもう! あんたのぼせてるでしょ?」
突然ジト目になったアウローラは、エルピスがギリギリ頭を撫でれる範囲まで逃げた。
これで遠くまで離れられたら辞めようかと思っていたが、どうやら髪を触る行為自体はダメでは無いらしい。
それにしても、のぼせているとは心外だ。
さっきからちゃんと魔法で体温管理しているし、身体だってあったまってはいるがのぼせるほどじゃない。
それに神人だ、そんなにやわではない。
「まだ温泉入って三十分くらいしか経って無いんだぞ? のぼせるわけ無いじゃん」
「なら考えられる理由は……もしかしてお酒飲んだ?」
「お酒っていうとあれか、お酒か」
(あれ? 何言ってんだ俺?)
そう思っていると不意に頭を鈍い痛みが襲い、一応つけておくかと使用していた体温調節用の魔法がいきなり切れた。
その影響で急激に体温が上がり息も荒くなる、若干ながら吐き気もしてきた。
どうやらアウローラの言う通りどこかで酒を飲んだらしい。
朝方街で飲んだ際に嗜むつもりで邪神の毒無効化を解除してはいたが、どうやらまだ完全には元に戻っていなかったようである。
まさかこれほど自分が酒に弱かったとは。
「何処でお酒飲んだの?」
「うーん分かんないなぁ…食事した時もそれっぽいのは無かったし、あるとすればあそこの水かなぁ」
そう言いながらエルピスが指差したのは、よくドラマなどで湯船に浮かんでいる水瓶。
エルピスがお風呂に入った時には既に湯船の上に浮かんでいたので、てっきり給水用の水かと思って一気飲みしてしまったのが今回の原因のようだ。
「間違いなく、何処からどう見ても、あれが原因ね」
「だよなぁ……温泉に浸かって早々に悪いけど、部屋まで運んでくれない?」
「別に良いわよそれくらい。だけどその前に取り敢えずは少し寝なさい、一緒に飲みに行ってた女友達も、飲んでも直ぐ寝たら多少はマシにはなるって行ってたし」
そう言いながらアウローラは温泉から身体を出し、温泉の囲いに腰を据えた。
何をしたいかは一目でわかるが、タオルがあるとは言えさっきまで肌を見られて騒いでいた人のする行動じゃない。
男としてでは無く今は病人扱いかと少し残念な気持ちになりつつ、エルピスは素直にアウローラの指示に従う。
「ほらおいで」
「……じゃあ失礼して」
絹のように滑らかなアウローラの肌に頭を乗せながら、エルピスはいくつか魔法を発動して眠りにつく。
酔いが覚めた時にこの状況を思い出したら、赤面確実だ。
そんな事を思いながら、エルピスは浅い眠りにつくのだった。
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