マイナスの女
@yumeoni
第1話
「市橋さんってさ、何かマイナスな感じが出てるよね」
鴻上瑛斗にそう言われたことを、楓はその後も何度も思い返すことになる。
高校2年の初夏、ゲリラ豪雨で雨宿りした店の軒先で、数分立ち話をした。鴻上瑛斗はサッカー部のエースで部長、成績もクラスでトップクラス、しかもイケメン。同じクラスだけど大人しくて目立たない女子ばかりが集まるグループにいた楓とは住む世界が違う。だから瑛斗が軒先に駆け込んできたとき、楓は内心緊張した。
「ほんっと、最近ついてないんだ」
瑛斗は髪の毛から水を滴らせながら、ぼやくように語り出した。足に違和感があり、部活の練習中凡ミスが増えたこと。そのせいで授業にも集中できなくなり、中間テストの成績が下がったこと。近所の犬に自分だけ吠えられたこと。傘を持ってきていないのに突然雨に降られたこと。
「それだったら、今雨宿りしてる人は皆ついてないことになっちゃうけどね」
楓は、緊張を悟られないよう、なるべく平静を装って言った。
「確かに、そうだな。俺以外もみんなついてない」
「私もついてない」
「そうだ。こんな雨の中、俺なんかのくだらない愚痴を聞かされている」
「ほんと、ついてない。この町で1番ついてない」
「いや、さすがにそれは言い過ぎ」
瑛斗は白い歯を見せて笑った。そしてその白い歯が合図になったかのように、雨は突然やんだ。空が明るくなった。
「何かちょっと気が楽になったよ」
そして瑛斗は軒先から足を踏み出すと、楓の方を振り向き、爽やかな笑顔であの言葉を言ったのだ。
「市橋さんってさ、何かマイナスな感じが出てるよね」
楓はとっさに何を言われたのか分からず、言葉を失った。
「マイナス……」
「あ、いや」
瑛斗は何か言いかけたが、それを打ち消すように遠くから瑛斗を呼ぶ声がした。同じサッカー部員の同級生がずぶ濡れで手を振っていた。
「おう、何だよおまえら。ずぶ濡れじゃん」
瑛斗は声を張り上げた。
「だって雨宿りする場所ないんだもんよ。瑛斗は相変わらず運がいいよな」
「はは、あいつらが1番ついてないや」
楓は先ほどの瑛斗の言葉を咀嚼しかねていたのでぎこちなく笑った。
「じゃあ、また明日学校で」
そうして瑛斗は爽やかな顔で友人たちのもとへ駆けていく。
その後、瑛斗は病院で足を見てもらい、怪我が発覚して1ヶ月ほど部活を休むことになる。だが、復帰してからは今まで以上の活躍を見せ、高校3年の夏の大会では初めてインターハイに出場し、ベスト8まで行った。楓はまだ瑛斗の言った言葉が胸につっかえていて、素直にそれを讃えることができなかった。
楓は実家から通える範囲にある私立大学に入学した。楓の成績で無難に入れる偏差値の大学だった。
楓は大学生になると同時に心に決めたことがあった。プラスの人間になる。マイナスとは言わせない。髪の毛の色を明るく変えた。眼鏡を外してコンタクトに変えた。化粧を頑張った。テニスサークルに入った。
結果、高校の頃とは別のグループに入ることに成功した。プラスかマイナスで言ったら絶対にプラスのグループ。勉強はほどほどにして、バイトや遊びに明け暮れた。ちょっと悪いこともしてみた。
初めての彼氏もできた。テニスサークルのひとつ先輩で、鴻上瑛斗ほどではないにせよイケメンの部類に入った。
思い描いた大学生活を謳歌していたが、あるとき彼氏の浮気が発覚した。相手は楓のひとつ後輩で、楓のことを慕っているように見えた。
奪ったスマホからメッセージのやり取りを見ると、楓のことをあざ笑うような悪口が連なっていた。
「お前さ、何か無理してる感じが痛いんだよね。一緒にいると疲れるんだよ」
別れの言葉は逆ギレのようだった。
楓はサークルを辞めて髪の毛の色を暗くし、コンタクトを外して眼鏡に戻した。化粧は最低限にして、勉強を頑張った。授業は100パーセント出席し、ゼミでは積極的に発言した。結果、教授に気に入られ、教授の口利きで誰もが知る有名企業の内定が決まった。
就職してからは、仕事を一生懸命頑張った。上司からの評価も上々で、期待に応えようと休日も仕事の役に立つ勉強に充てた。
ある朝、起き上がれなくなった。過労と診断された。しばらく休職しないといけないことになり、迷惑をかけたくなくて退職した。26歳だった。
仕事を辞め実家でぼんやりと過ごしていると、高校の同窓会の案内が届いた。行くつもりもなかったが、「鴻上くんも来るってよ」と高校時代の友人からメッセージが来て、行くことに決めた。
鴻上瑛斗は高校卒業後、有名私立大学に進学し、その後持ち前のルックスと頭の良さを活かして、有名テレビ局のアナウンサーになっていた。イケメンでありながら時折天然ボケをかます愛嬌の良さが視聴者に受けていた。楓がたまたま観ていたときはコメンテーターがダイバーシティと言ったのをお台場シティと聞き間違え、お台場お台場と連呼し、共演者の失笑を買っていた。
同窓会でも、皆の中心にいるのは鴻上瑛斗だった。楓は会場の隅っこで誘ってくれた友人とその光景を眺めた。
「鴻上くん相変わらずの人気だねえ。楓、行かなくていいの? 何か話したいことあったんでしょ」
「いいの、いいの。どうせ私はマイナスの女だから」
「何よ、マイナスの女って」
楓はあの日瑛斗に言われたことをまだ根に持っていた。できれば楓のことをマイナスと言ったその理由を聞き出したいと思ったが、瑛斗の周りに常に人だかりができていて、そんなことを聞けるような雰囲気ではない。
「何でも。ちょっとお手洗い行ってくるね」
楓は会場の外に出て、通路奥にある女子トイレに向かった。手を洗いながら鏡を見ると、そこには華やかさの欠片もない26歳の女の顔が映っている。
「どうせ私はマイナスの女」
トイレを出たが、元の会場にすぐに戻る気にもなれず、近くにあった非常出口のドアに手をかけ、外に出てしまう。このまま帰ってしまうのもいいかと思った。初夏の夜風が涼しく気持ちが良い。
楓の後ろでドアが開いた。何の気なしに振り向くと、鴻上瑛斗が立っていた。
「市橋さん、こんなところで何してるんだよ」
「鴻上くんこそ。ここ非常出口だよ」
驚いて言った。
「うん、非常事態。喋り疲れた」
「アナウンサーなのに? 人気者だもんね」
楓がおどけて言うと、瑛斗の顔が陰った。
「人気者なんて、そんな良いもんじゃないよ」
瑛斗は語り出した。実力もないのに人気ばかりあるせいで先輩アナウンサーからいじめのようなものを受けていること。視聴者からは言い間違いの多さについてかなりの数のクレームが来ていること。人目が気になって外で自由に振る舞えなくなったこと。
「羨ましいよ。私も一度でいいからそんな風に言ってみたい。私、ずっと鴻上くんみたいになりたかったんだ」
気が付くと楓は口に出して言っていた。
「え?」
今度は楓が話す番だった。大学デビューしたこと。失敗したこと。憧れの企業に就職したこと。失敗したこと。今無職なこと。
「私、鴻上くんみたいになりたかったんだ。鴻上くんのことを好きなんじゃなくて、鴻上くんみたいになりたかった。でも、なれなかった。鴻上くんは私たちの希望なんだよ。だから、それくらいの不自由さは我慢しなさいよ」
時間が経って風が少し冷たくなっていた。非常出口の緑色の光が瑛斗の何かを考えるような横顔を照らしていた。
「……昔もこういうことあったよな。雨の日に市橋さんと2人で話したんだ。俺、今でも時々思い出すんだよ。あの時のこと。あの日市橋さんと話したあと、自分の中に燻っていた不安と向き合う気分になれたんだ。そして、早めに足の治療をしたからちゃんと治せて、インターハイでベスト8まで行くことができた。その時ついた自信で大学受験も頑張れたし、憧れのアナウンサーにもなれた。だから市橋さんには感謝してるんだ」
「そんなの、鴻上くんの実力でしょ。私は関係ないよ」
「いや、本当に。皆と喋り疲れたっていうのは半分嘘でさ。本当は久しぶりに市橋さんと喋りたかったんだ。最近プライベートでも色々悩んでたし。でも、今話してて確信したよ。やっぱり市橋さんには人を癒やす力がある。あのときも言ったと思うけど、マイナスイオンが出てるんだよ。市橋さんと話しているといつのまにか元気になっている。それだってすごい才能だと思うけどな」
楓は、あっけに取られて瑛斗の顔を見た。
「マイナス、イオン……」
「うん」
頷いた瑛斗は、確かにあの雨上がりのときのような爽やかな顔をしていた。
「そんなこと言ってないよ。マイナスって言ったんだよ」
楓の頭の中にずっと居座り続けていたあの言葉。決して聞き間違えなどではない。
『市橋さんってさ、何かマイナスな感じが出てるよね』
「えぇ? マイナスなんて、俺そんな失礼なこと言わないよ。マイナスイオンって言ったと思うけどなあ。まあでも……」瑛斗は頭をかいた。「言い間違いの多い天然ボケアナウンサーで人気の俺だから、分かんないか」
そう言って照れ笑いする瑛斗は、ダイバーシティをお台場シティと聞き間違え、共演しているお笑いタレントからツッコミを入れられたときの顔によく似ていた。
気が付くと楓は瑛斗の肩を思い切りひっぱたいていた。
「痛っ、何だよ」
瑛斗は痛がるけれど、楓はさらに力をこめて瑛斗の身体をひっぱたき続けた。
「そんな、そんな大事なところで天然ボケかましてるんじゃないわよ!」
「痛い痛い」
逃げる瑛斗を追って会場に戻った楓は、そのままの勢いでクラスメイトの輪の中心に入り、皆と喋った。瑛斗からマイナスイオンの女と紹介され、場が盛り上がった。
それから数日後、鴻上瑛斗はキャスターを務める朝の番組で、同じくキャスターを務める同い年の人気アナウンサー倉田恵理香との結婚を発表した。
「自分に自信が持てなくて、プロポーズを躊躇っていたんですけど、この前高校の同窓会に出たときにある人と話したら決心がついて、プロポーズを決めました」
テレビの中で鴻上瑛斗は白い歯を見せて笑っていた。楓の右手に瑛斗を叩いたときの手の痛みが蘇った。
楓は、無職で暇なのでSNSでマイナスイオンの女を名乗り、無料で誰かの話を聞くサービスを始めた。あなたにマイナスイオン浴びせます、のキャッチコピーを掲げて。無料なので依頼は次々に舞い込んだ。楓と喋る前は陰っていた顔が、楓と喋ったあとは皆爽やかな表情になって感謝の言葉を口にした。鴻上瑛斗が言ったように、確かに楓には人を癒やす才能があったらしい。口コミで評判が広がり、裁ききれなくなった辺りで1時間1万円の料金をとるようにしたが、それでも依頼はひっきりなしに続いた。
マイナスイオンの女としてマスコミの取材も受けるようになり、今度ラジオ番組への出演が決まった。いつか鴻上瑛斗の出ている番組にも出てやろうと企んでいるところだ。
マイナスの女 @yumeoni
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