第三十三話「……そういう不誠実なところが、大嫌いなんです」

「高校から帰ってきた二人にあなたたちを解雇したことを話したんです。そうしたら怒り出してしまって。夏希ちゃんにも、千鶴ちゃんにまで〝秋穂お姉ちゃんなんて大嫌い!〟って、泣きながら言われて……。ノエルにまで散々、吠えられたんですよ!」


 秋穂さんのことを夏希ちゃんは〝お姉さま〟と呼ぶし、千鶴ちゃんは〝秋穂姉さん〟と呼ぶ。ちょっと脚色は入っているけど、そこはツッコまないでおくことにした。


「夏希ちゃんのお部屋に二人と一匹は引きこもってしまって……出てきてくれなくなってしまって……。だから、落ち着くまで待とう。夕飯のときにもう一度、二人と話をしようって思っていたのに……」


 二人と一匹は夕飯の時間になっても食堂に現れず、部屋に呼びに言ったら書き置きが残されていた、と――。


「書き置きにはトウマくんとミコトちゃんをもう一度、住み込みで雇うように。要求が通るまでは戻らないって」


 そう言いながら、秋穂さんは顔を覆ってうつむいた。肩が小刻みに震えている。もしかして、泣き出してしまったのだろうか。


「秋穂さ……」


 そう思って秋穂さんの細い肩に手を伸ばした俺は――。


「……なんで、そんなに二人に好かれてるんですか。恨めしい……いえ、羨ましい」


「ひぇ……っ」


 手首をがしりと掴まれ、おどろおどろしい声で言われて、情けない声で悲鳴をあげた。


「私が、夏希ちゃんと千鶴ちゃんに好かれたかったのに……お姉ちゃん、大好き~って言われたかったのに! なんで、トウマくんばっかり……ずるい! ずるいです!!」


 完全に頭に血が昇っている。言っていることがメチャクチャだ。話がすっかり脱線している。

 夏希ちゃんと千鶴ちゃんが家出したことで、とっくに冷静さは失っていたのだろう。ただ、使用人たちの前でギリギリ体裁を保っていただけ。


「やっと千鶴ちゃんとも本当の家族に……姉妹になれたと思ったのに。また嫌われちゃった。夏希ちゃんにまで嫌われちゃった!」


 秋穂さんはギリギリと奥歯を噛み締め、顔を真っ赤にして怒りながら、ボロボロと泣き出した。かんしゃくを起こした子供みたいな顔をしている。


「二人共、本気で言ったわけじゃ……」


「どうしてトウマくんが二人の気持ちを代弁するんですか! 腹が立つ! ものっすごーく腹が立ちます、それ!」


 訂正。今の秋穂さんは完全にかんしゃくを起こした子供だ。

 ボロボロと泣きながらバシバシと机を叩く秋穂さんの右手を取って、そっと撫でた。手のひらが真っ赤になっている。

 秋穂さんは唇をきつく噛んだあと、ため息をついてうつむいた。


「……でも、もうそんなことはどうでもいいんです。嫌われてても構わない。二人が無事に帰って来てくれるなら、どうでもいいんです」


 俺の手を振り払って秋穂さんは背中を向けた。やっぱり痛むのだろうか。自身の右手を左手で包むようにして胸の前で抱きしめている。


「俺が戻ってきたって知らせたら、すぐに帰ってくるんじゃ……」


「スマホの電源が切れてるんです。GPSで追跡されないようにと切ったんだと思います」


「それにしたって、自分たちの要求が通ったかを確認するために電源を入れますよ。それに、明日の朝には帰って来ているかもしれない。秋穂さん、少し休んでください。大丈夫です。もう少し、待ってみたら……」


 少しでも秋穂さんの不安を和らげようと思って言ったのだ。二人のことを心配していないわけじゃない。秋穂さんが休んでくれたら、捜索に加わろうと思っていた。

 でも――。


「トウマさん、夏希ちゃんは心臓に病気があるんです。それに……あの子たちは藤枝家現当主の孫で、次期当主の娘なんです。どれだけ腹が立っても、嫌悪しても、父の血を引いている。あの子たちも、私もです」


 秋穂さんが心配していたのは、単純に家出のことだけではなかったらしい。 


「家出をした二人が、そのまま誘拐事件に巻き込まれる可能性も十分に有り得るんです」


 秋穂さんの表情がかげるのを見ても、すぐには実感が沸かなかった。

 二人の親代わりのような存在である秋穂さんがあれこれと心配する気持ちはわかる。でも、誘拐……。今日、食べる物にありつけるかどうかという子供時代を送ってきた俺には、どうにも馴染みのない言葉だ。

 俺の表情を見て、秋穂さんがため息をついた。


「私自身、誘拐されたことがあるんです」


 きょとんとして聞いていた俺は、言葉の意味を飲み込んでぎょっとした。


「ゆ、誘拐された……!?」


 秋穂さんは怨霊よりも生気のない目で頷いた。あ、これはお父さん絡みだな……と、思ったが案の定――。


「相手は父の愛人で、父とのあいだに子供をもうけた女性でした」


 秋穂さんはぼそりと、地を這うような低い声で言った。


「小学三年生だった私を誘拐して、父に要求したことはお金ではなく墓前に手を合わせることでした」


「墓、前……?」


「病気で娘さんが亡くなられたんです。私にとっては腹違いの妹ですね」


 千鶴ちゃんだけじゃないのだろうとは思っていたけど……。

 俺は額を押さえてため息をついた。赤の他人の俺でも、この脱力感だ。実の娘の秋穂さんからしたら、どんな気持ちなのか。実の父親をせん馬にするべく、広くて特殊な人脈を築き上げたくもなるだろう。


「誘拐した私を抱きしめて、女性はずっと泣いてました。あなたと同い年だった。ふっくらとした口元が似てる。やっぱり血が繋がっているのねって、そう言って微笑んで。お金があれば助かったかもしれないのにって、私の太ももを爪で引っ掻いて泣くんです」


 そう言いながら、秋穂さんは唇をきゅっと噛みしめた。大粒の涙が目に浮かんだ。

 お父さんの話をするとき、秋穂さんは怒りか冷ややかな表情ばかり浮かべる。

 でも今は、涙で声を震わせている。

 今、秋穂さんの中に浮かんでいる感情はお父さんに対する感情ではなく、誘拐犯だった女性に対する感情なのだろう。


「その女性は父を訪ねて、何度もこの邸に来ていたそうです。お金のことで相談をしに。でも当時から父はろくすっぽ邸に帰ってこなくて。使用人たちが連絡をしても、わかった、連絡しておくって言いながら後回しにして……」


 そうこうしているうちに、女性の娘さんは亡くなってしまった。

 あちこちの女性に手を出すのは最低だ。でも、この話はもっと別の意味で最低な話だ。


「……女性は、どうなったんですか」


「逮捕されました。私は警察に保護されて、迎えに来た使用人に連れられて邸に戻って、父と母に抱きしめられました。女性に謝ってほしいと、女性の娘さんに手を合わせてほしいとお願いしたんです。でも、父は、そのうちね……と、言ったきり。その後、どうしたのかはわかりません」


 目元を指先で拭い、大きく息を吐き出して、秋穂さんは背筋を伸ばした。


「父の女好きには嫌悪感しかありません。でも、そういうところが……人に対して少しも誠実じゃないところが、何よりも嫌いなんです。……何よりも嫌いだけど、それでも、そんな父の血を夏希ちゃんも千鶴ちゃんも引いている。私と同じように誘拐される可能性がある」


 真っ直ぐに俺を見つめて秋穂さんは目を伏せた。かと思うと、


「……そうなんですよ。腹が立つことにあのろくでもない父親の、藤枝の血を引いてるんです! 夏希ちゃんも、千鶴ちゃんも、私も!」


 秋穂さんは再び、顔を真っ赤にして怒り始めた。


「絶対にああいう不誠実な人間にはならない。ああいう不誠実な人間は許さない。男なんて絶対に信じない。そう決めてました。でも……!」


 握りしめた小さな拳を震わせる秋穂さんに俺は思わず身構えた。また、かんしゃくを起こした子供みたいになるんじゃないかと思ったのだ。


「トウマくんのことは信じてみようかなって、少しだけ思ったのに……どうして裏切ったんですか!」


 案の定、秋穂さんは唇を尖らせて、バシバシと執務机を叩き始めた。

 ただ、矛先が自分に向くとは思っていなかった。まさか、このタイミングで釈明の機会が来るとも思っていなかった。完全に油断していた。


「いや、あの写真は誤解で……!」


「わかってます、夏希ちゃんから聞きました! ミコトちゃんの罠だったって! でも、だったら、どうして誤解だって朝の時点で言ってくれなかったんですか!」


 ぴしゃりと言われて俺は首をすくめた。言い訳は結構です、と言って、俺の言葉を遮ったのは秋穂さんだ。


「トウマくんのことを信じてみようって思った私は間違ってなかったって……どうして、言ってくれなかったんですか!」


 ……なんて言うのは、多分、違うのだろう。

 ボロボロと泣きながらうつむく秋穂さんの頭をそっと撫でた。


「……そういう不誠実なところが、大嫌いなんです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る