第二十六話「……ノエルは過保護ね」

 夏希ちゃんと千鶴ちゃん、俺とミコト、そしてノエル――四人と一匹でのお茶会は、藤枝邸の一階にある応接室を使うことになった。

 どちらか一方の部屋というのは気まずいだろうし、大学から帰ってきた秋穂さんと鉢合わせる危険も冒したくないので、二階の食堂も避けることになったのだ。

 夏希ちゃんと千鶴ちゃんは応接室に入ると、イスに腰かけもしないで向き合った。

 夏希ちゃんはフリルがたくさんついた可愛らしいワンピース。千鶴ちゃんは白のニットにスキニージーンズと、二人とも私服に着替えている。

 いつも以上に緊張した面持ちだ。距離も五メートル近くある。話をするには離れ過ぎだ。

 夏希ちゃんに事情を説明して、まずはこの距離感をどうにかしないと。そう思って、千鶴ちゃんが夏希ちゃんを避けていた理由を説明した途端――。


「ノエルが苦手で避けてた?」


 夏希ちゃんが目と眉をつり上げた。


「ノエルが人を襲ったり噛んだりするとでも思ってるの!?」


「バウッ」


 犬のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて、もう一方の手でノエルの頭を撫でながら、夏希ちゃんは千鶴ちゃんを睨みつけた。

 夏希ちゃんの怒鳴り声と抗議するかのように吠えるノエルに、千鶴ちゃんはびくりと肩を震わせた。


「ご、ごめんなさい! そういうわけじゃ……!」


 これはまずい。慌てて千鶴ちゃんの肩を叩いた。振り返った千鶴ちゃんは俺を見るなり、ほっと強張っていた表情を緩めた。

 千鶴ちゃんに微笑み返して顔をあげると、夏希ちゃんにものすごーく睨みつけられていた。千鶴ちゃんと仲良くなりたい、家族になりたいと言っていたのはなんだったのか。

 ……と、思ったけど、夏希ちゃんにとってはノエルも大切な家族なのだ。


「夏希ちゃん、落ち着いて……」


 とにかく誤解を解こう、夏希ちゃんをなだめようとしている俺を完全に無視して、


「しますよ。襲ったり、噛んだり」


 ミコトはさらりと、わりときっぱりと言い切った。


「な……っ」


 多分、腹が立ち過ぎたのだろう。夏希ちゃんは声もなく口をパクパクさせている。

 千鶴ちゃんも千鶴ちゃんで、ミコトの言葉にびくりと肩を震わせて縮こまった。そりゃあ、襲うことも噛むこともあると言われたら、ただでさえノエルを怖がっている千鶴ちゃんはますます怖くなるだろう。

 千鶴ちゃんの肩を撫でながら、俺はミコトに顔を向けた。千鶴ちゃんとノエルの仲を取り持つのはミコトに任せたけど……本当に大丈夫なのだろうか。

 ここまで来て自分の目的を――俺とミコトの母親との仲を邪魔するという目的を優先するなんてことは……ないと思いたいけど。

 俺はごくりとつばを飲み込んで、野良猫を見下ろした。

 当のミコトは真っ直ぐに、ノエルでも千鶴ちゃんでもなく、夏希ちゃんを見つめていた。


「夏希の心臓発作に誰よりも早く気が付いて、吠えて知らせるくらいにノエルは夏希のことを大切に想ってます。大事な家族だと思ってます。なら、夏希を守るために千鶴を襲うことも噛むことも当然あります」


「そんなこと……!」


「あるんですよ。犬は人間の友達、犬は家族なんて言いますけど、あんなのは嘘です。犬と人間だからって、無条件に友達になれるわけでも、家族になれるわけでもない。実際、夏希とノエルは時間を掛けて家族になったはずです」


「……っ」


 犬のぬいぐるみの首がもげるんじゃないかと心配になるほど。夏希ちゃんはぎゅーっと犬のぬいぐるみを抱きしめた。

 唇を噛んで、ミコトを睨みつけて。それでも怒鳴り返すのを我慢しているのは、千鶴ちゃんと仲良くなるために必要なことだと思っているからか。

 ミコトが言うことも一理あると思っているからか。


「人間だって言語や文化の違いで誤解が生まれて、仲が悪くなったりケンカになったり……戦争したりするんです。人間とは全然違う言語や文化を持つ犬が……ノエルが、誤解することだってあります。誤解して、大切な家族である夏希を守ろうと必死になることだって、十分にあります」


 夏希ちゃんはミコトを睨みつけるのをやめて、足元でおすわりしているノエルに視線を落とした。ノエルは夏希ちゃんをじっと見上げて、首を傾げている。


「バウ……」


 ノエルの顔も鳴き声も心配そうだ。夏希ちゃんのことが、本当に大好きなのだろう。


「ノエルは大好きな夏希のために、犬社会とは言語も文化も全く違う人間社会の中で生きてくれています。だったら、ノエルと人間社会とのあいだにある溝を埋めるために、夏希はもっとちゃんと、ノエルと人間のあいだに立って気を遣わないといけません」


 ミコトも、夏希ちゃんからノエルへと視線を向けた。


「犬たちの命は人間社会の中で、人間よりもずっと軽く扱われる。そのことを自覚して、ノエルを犬として、犬だと尊重して、夏希はいっしょに生きていかないといけません」


 そう言うミコトの眉間に深い皺が出来ているのは、ミコトが訓練した犬たちのことを……人間の戦争に巻き込まれ、利用された犬たちのことを思い出しているからだろうか。

 犬たちは人間に殺されたとミコトは言っていた。殺した人間の中に、犬たちを守り切ることができなかったミコト自身も含まれているのかもしれない。

 今、夏希ちゃんに言った言葉は、ミコト自身の後悔から出た言葉なのかもしれない。


「ノエルが千鶴を威嚇したのは、夏希が千鶴は家族なのだとノエルにわかる形で教えなかったからです。千鶴と初めて会ったときも、今も。夏希の緊張を感じ取って、ノエルは千鶴を威嚇したんです。夏希を守ろうとしたんです」


 ミコトの後悔を夏希ちゃんは知らないけれど、真剣な思いは伝わったはずだ。

 夏希ちゃんはしゃがみ込むとノエルの首にしがみついた。


「わかってたつもりだったけど……ノエルは過保護ね」


「バウ……」


 心配そうな顔で首を傾げたノエルだったけど、夏希ちゃんに首の毛を撫でられて満面の笑顔を浮かべた。尻尾がゆっさゆっさと揺れている。おすわりの体勢で尻尾を振っているものだから完全に床掃除になっている。

 俺と千鶴ちゃんは顔を見合わせて微笑んだ。

 ミコトは満足げに頷くと、どこからともなく黒い紐を取り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る