第二十五話「貧乏人同士、徒党を組むんですね」
荒れた裏庭の奥に建っているログハウスみたいな物置。高校から帰ってきた千鶴ちゃんは、その物置の前にいた。ジャージに着替えて柔軟体操をしている。
「よ、千鶴ちゃん」
俺が声を掛けると、千鶴ちゃんはびくりと肩を震わせた。きょろきょろとあたりを……特に俺の背後を気にしている。
千鶴ちゃんの不安げな表情に俺は苦笑いした。
「大丈夫、夏希ちゃんはいないよ」
俺の言葉に千鶴ちゃんはほっとした表情を見せた。
でも――。
「ノエルはいません、と言った方がいいでしょうか」
ミコトの言葉に再び、びくりと肩を震わせた。かと思うと目を泳がせ、そのうちに黙ってうつむいてしまった。
千鶴ちゃんが避けているのは夏希ちゃんじゃなく、ノエルじゃないか。
昨夜、ミコトから聞いたときには半信半疑だったけど、どうやら正解だったらしい。
「千鶴は犬が苦手なんですか」
「苦手……と、いうほど犬に縁がなかったので」
「じゃあ、ノエルが苦手なんですね」
「苦手……と、いうか……」
淡々とした口調で問い詰めるミコトに、千鶴ちゃんは困り顔で微笑んだ。
「私の方が、ノエルに嫌われている感じなんです。私がこの家に来た……四年前、かな。そのときにはもう、ノエルもいたんですけど……近付いたら鼻の頭に皺を寄せて、歯を剥き出して。それ以来、怖くて……」
「ノエルが?」
声をかけると、満面の笑顔でゆっさゆっさと尻尾を振って駆け寄ってくる。イスに座ろうものなら大きな前足を肘掛けに乗せて、身を乗り出してべろんべろんと顔中なめまわしてくる。
俺が知ってるノエルはかなり人懐っこい犬だ。大きな体で飛び掛かられて怖いというならわからなくはないけど、あのノエルが鼻の頭に皺を寄せて、歯を剥き出してきたなんて――。
「……ちょっと想像がつかないな」
腕を組んで唸り声をあげる俺を見つめて、千鶴ちゃんは悲し気な表情になった。母親に見捨てられた子供みたいな顔だ。
「ご、ごめん! 千鶴ちゃんの言ってることを疑ってるとかじゃなくて……!」
「ノエルがそういう態度を取る可能性は、十分にあると思います」
慌てふためく俺のことなんて完全に無視で、ミコトはやっぱり淡々とした口調で言った。
自分の言葉を信じてくれたことが嬉しかったのだろう。真っ直ぐに見つめて頷くミコトに、千鶴ちゃんはほっと安堵の息をついて微笑んだ。
千鶴ちゃんが夏希ちゃんを避けていた原因に心当たりがあったように、ノエルが千鶴ちゃんに〝そういう態度〟を取る心当たりも、ミコトにはあるようだ。
「千鶴、ノエルと仲良くなりたいと思ってますか」
ミコトに尋ねられて千鶴ちゃんの肩がぴくりと跳ねた。かと思うと、目を泳がせた。
積極的に仲良くなりたいとは思っていないようだ。怖いという気持ちの方が勝ってしまっているのかもしれない。
「千鶴に仲良くするつもりがないのなら、私から夏希にそう伝えておきま……ぶにゃ!」
さっさと話を切り上げようとするミコトの額を平手でぴしりと
「夏希ちゃんがね、千鶴ちゃんに嫌われてるんじゃないかって、すごく気にしてるんだ」
そう言うと千鶴ちゃんがハッと顔をあげた。
「夏希さんが?」
「うん。千鶴ちゃんが陸上部を辞めたのも自分たちのせいじゃないかって。そのせいで嫌われちゃったんじゃないかって気にしてたよ」
「ち、違います! そんなことないです!」
千鶴ちゃんは目を丸くしてバタバタと手を振った。
「走ることも体を動かすことも嫌いじゃないです。でも、特別に好きで、どうしても続けたかったってわけでもないんです。……ただ、この家にいるのが落ち着かなかっただけで」
振っていた手を力なく下ろして、千鶴ちゃんは困り顔で微笑んだ。
「もう一台、送迎用の車を買えばいい。もう一人、運転手を雇おうなんて話を聞いて、そこまでして続けることはないと退部したんです。……でも、そんな風に思われてたんですね」
「夏希ちゃんのことを嫌ってるなんてことは……?」
ないだろうとは思っていた。思っていたけど――。
「ないです!」
千鶴ちゃんがきっぱりと否定してくれて、俺はほっと息をついた。
お母さんは違うと言っても。複雑な事情や想いがあると言っても。今は同じ家に暮らす家族で姉妹なのだ。嫌い合ったりしないでほしい。できるなら、仲良く暮らしてほしい。
狭いボロアパートで、唯一の家族である母親に憎まれ、そのうちに憎むようになってしまったからこそ余計にそう思う。
「負い目や劣等感を感じて避けているところは……あるかもしれませんが」
迷子の子供みたいに頼りなげな表情を浮かべる千鶴ちゃんの頭を、俺はくしゃりとなでた。今まで避けてきただけで嫌っているわけじゃない。
それなら、お互いのことを知れば仲良くなれるかもしれない。本当の姉妹に、家族に、なれるかもしれない。すぐには難しくても、ゆっくりと時間を掛ければ、きっと。
そのためには、やっぱり――。
「千鶴ちゃんと夏希ちゃんがゆっくり話せる環境を作らないといけないよな」
俺は腕組みをして空を見上げた。あと数日で二月になるけど、まだまだ冬だ。陽が沈むのが早い。
今回の目的は千鶴ちゃんとノエルが仲良くなることじゃない。千鶴ちゃんと夏希ちゃんが仲良くなることだ。
千鶴ちゃんが積極的に仲良くなりたいと思っていないのなら……怖いと思っているのなら、犬嫌いを急いで克服する必要もない。
「今日……は、もう暗くなってきちゃったから明日とか。夏希ちゃんといっしょにお茶でもして、少し話してみようか」
そう言うと千鶴ちゃんの目が不安げに揺れた。俺は苦笑いして千鶴ちゃんの頭をそっとなでた。
「大丈夫。俺やミコトもいっしょにいるから。その方が話しやすいだろ?」
「貧乏人同士、徒党を組むんですね……ぶにゃ!」
「貧乏人って言うな。徒党って言うな」
よからぬことをたくらんで集まるわけじゃない。夏希ちゃんと千鶴ちゃんの仲を取り持つため。千鶴ちゃんと感覚の近い俺がいっしょの方が話しやすいだろうと思っただけだ。
ミコトの額を平手でぴしりと
「そのあいだ、ノエルには他の部屋にいてもらおう。学校に行くときもノエルがお留守番しててくれれば……」
千鶴ちゃんと夏希ちゃんが話せる機会も増える……と、言おうと思ったのだけど――。
「ダ、ダメです!」
千鶴ちゃんが叫んだ。予想外に大きな声が返ってきて、俺もミコトも目を丸くした。と、言っても、ミコトの場合はよくよく観察しないとわからない程度の表情の変化だけど。
「ノエルはアラート犬……みたいな感じ、なんだそうです」
俺たちが驚いていることにも気付かず、千鶴ちゃんは真剣な表情で言った。
「アラート犬……?」
「てんかんや心臓病といった発作を伴う病気を持っている人に付き添って、発作が起こる前に知らせる犬です。……とんばあちゃんに教わりました」
首を傾げる俺を見上げて、ミコトが言った。
とんばあちゃんはミコトを育ててくれた人だ。ミコトいわく、藤枝家の主治医で雷に打たれた俺を見てくれた戸延先生は若かりし頃のとんばあちゃんらしい。
なるほど。それでアラート犬にも詳しいのか。
「犬は人間よりもずっと耳も鼻もいいので、本人よりも早く発作が起きることに気が付いて知らせることができるんです。アラート犬が教えてくれたら薬を飲んで、発作で倒れても頭を打ったりしないようにしゃがむんです」
ミコトの説明に同意するように、千鶴ちゃんはこくこくと頷いた。
「夏希さんは心臓が悪いんです。いつも抱きかかえている犬のぬいぐるみに薬が入ってます。ノエルは特別に訓練を受けたわけではありませんが、夏希さんの異変に誰よりも早く気が付いて知らせてくれるんです」
感心して、ため息をついてしまった。
飼い犬といっしょに高校に通うなんてとびっくりしたけど、そういう事情だったのか。夏希ちゃんとノエルが特別に仲が良いのも頷ける。
「だから、夏希さんとノエルを引き離すなんてダメです。ちょっとの時間でも、絶対にダメです!」
「ちょっとくらいなら大丈夫じゃないですか?」
「絶対に、ダメです!!」
ミコトに言われて真剣な表情で首を横に振る千鶴ちゃんを見て、俺はくすりと笑った。
劣等感から避けてしまったり、遠慮してすれ違ったりしてるけど、千鶴ちゃんも夏希ちゃんもお互いのことを気遣っている。きっと、ちゃんと話せば仲の良い姉妹になれるはずだ。
「じゃあ、ノエルもいっしょに仲良くなれるようにしようか。……ミコト、策はあるか」
ミコトはちらっと俺を見上げたあと、
「もう一度、聞きます。ノエルと仲良くなりたいって思ってますか?」
千鶴ちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。
「嫌々ならやめておいた方がいいです。犬にも……ノエルにも伝わります」
策はある。でも、千鶴ちゃんに仲良くなるつもりがないなら協力しないし、教えもしない。そういうことだろう。
千鶴ちゃんも、ミコトの意図を察したらしい。
うつむいて、視線を彷徨わせて。唇を噛んで、足元をじっと見つめて。自分自身の手をぎゅっと握りしめたあと――。
「お願いします。私も、夏希さんとノエルと仲良くなりたいです!」
ミコトを真っ直ぐに見つめ返した。
「……本当に仲良くなりたいんですか?」
「はい、ぜひ」
「本当に?」
「はい、絶対」
全く引くようすのない千鶴ちゃんを無言でじっと見つめていたかと思うと、ミコトはなぜか俺の右腕にしがみついて爪を立てた。
「……仕方が、ないですね」
「イデデデ!」
これは……どういう気持ちで攻撃されてんだ! さっぱりわからん!
「うるさいですよ、父さん。黙っててください」
「って、言いながらさらにガリガリ爪立ててんじゃねえよ! ……って、このやりとり、前にもやったよな! やめろ、野良猫!!」
俺はミコトの頭をガシリと掴んで腕から引き剥がした。そして、
「なら、明日。お茶会でもしようか。……四人と一匹で」
俺とミコトのやりとりを見て、くすくすと笑っている千鶴ちゃんに向かって、にこりと笑い掛けたのだった。
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