第十八話「これで父さんも一巻の終わりです」

 慌てて飛び退こうとして、


「いでっ!」


 それより早く、ケツを思い切り蹴り飛ばされた。誰だよ!? とは思わなかった。犯人はわかりきってる。


「……っんの、野良猫が!!」


 バランスを崩して前のめりに転がった俺は、ベッドの脇に手をついて歯を食いしばった。右腕一本で踏ん張って、一瞬、時間を稼ぐ。そのあいだに左腕と左足を伸ばして――。


「……」


 どうにかベッドの上の〝それ〟を踏ん付けずに済んで、ほーっと息をついた。

 ベッドの上で四つん這いの体勢になった俺の下で、一人の少女がすやすやと眠っていた。

 長くしっとりとした髪。垂れた目。ぷくりと厚みのある唇。秋穂さんに良く似ているけど、秋穂さんよりもずっと幼い顔立ち。

 夏希ちゃんだ――。

 髪をほどいているからだろうか。犬のぬいぐるみを抱きしめていないからだろうか。いつもよりもずっと大人っぽく見える。小学生か、せいぜい中学生にしか見えないなんて思っていたけど、俺の下で眠っている夏希ちゃんは――。


 カシャ……。


 俺の思考を、静かな部屋に響くシャッター音が遮った。ギシギシと軋んだ音がしそうなくらいにゆっくりと顔を横に向ける。

 ミコトが、俺のスマホを構えていた。


「何し……て……」


「夜這いの証拠です。……この場合は朝這あさばい、というのでしょうか?」


 夜這いでも、朝這いでも、どっちでもよろしい。撮った写真をどうするつもりなのか。それが問題だ。

 俺の疑問を見透かして、ミコトはすぐに答えた。


「もちろん秋穂に見せます。どう見ても父さんが夏希を襲っているようにしか見えない写真……完璧です」


 ……って、力一杯、右の拳を握りしめてガッツポーズしてんじゃねえよ! この野良猫が!!

 思いっきり怒鳴りつけてやりたいところだけど、ぐっと我慢する。

 何せ、俺の下では夏希ちゃんがすやすやと眠っている。大声を出して夏希ちゃんが起きてしまったら、それこそ一発アウトだ。証拠隠滅も言い訳もできなくなる。

 あとで絶対に痛い目見せてやる! 俺は歯を食いしばってミコトを睨みつけた。


「これで父さんも一巻の終わりです。秋穂にせん馬にされるか、最悪でも追い出されるでしょう」


 いやいやいや! 最悪なのは、せん馬の方だろ!!


「秋穂のことです。きっと徹底的に、自分たち姉妹から父さんを遠ざけようとするはずです。これで三人と仲良くなる機会はなくなりました。僕の目的は達成されたというわけです」


 淡々と話すミコトに、俺はぎょっとした。

 ミコトの目的――。

 つまり、ミコトがミコト自身を死刑にする。生まれて来ないように過去を変えるということ。

 俺がせん馬になるのと同じか、それ以上に最悪な展開だ。

 スマホを取り上げて、画像を消去しないと――!


「ミコト、待っ……!」


「それじゃあ、先に戻ってますね」


 スマホを手にきびすを返すミコトを慌てて追い掛けようとした。


「ノエル、やっちゃっていいわよ」


「バウッ」


 でも、俺よりも先に白っぽい影がベッドを飛び越え、ミコトに飛び掛かった。


「……ぶにゃ!」


 尻尾を踏まれた猫みたいな鳴き声を上げて、ミコトは尻もちをついた。床にはえんじ色の、ふかふかの絨毯が敷かれている。ケガの心配はないだろう。


「バウッ、バウッ」


 白っぽい影の正体は夏希ちゃんの飼い犬、ゴールデンレトリーバーのノエルだった。

 ノエルはミコトが目を白黒させているすきに、ミコトの肩を大きな前足で押して、


「ふにゃ!」


 コロン……と、絨毯の上で仰向けに引っくり返ったミコトに圧し掛かると、


「バウッ」


 伏せの体勢で落ち着いてしまった。


「重い……重いです、ノエル! 下りてください!」


 手足をジタバタさせるミコトをよそに、ノエルは大きなあくびをした。ミコトの薄っぺらい胸にあごを乗せて、二度寝まで始めてしまった。大型犬のノエルの体重は三十キロぐらいあるだろうか。小柄なミコトを押さえつけるには十分な重さだ。

 ノエルの素早い動きに、ぽかん……としていた俺は、


「いつまでそうやって私を押し倒しているつもり?」


 頬をつーっと、やけになまめかしい手付きで撫でられ。


「ト・ウ・マ」


 囁くように名前を呼ばれ。ぱっちりと目を開けた夏希ちゃんがにんまりと微笑んでいるのに気が付いて。


「~~~っ、んぐっ!」


 絶叫しそうになったところを、夏希ちゃんの小さな手にふさがれた。


「静かにしなさいよ、バカ。階段を挟んで隣は秋穂姉さまの部屋なのよ?」


 ため息混じりに言って、夏希ちゃんはツンとした表情であごをしゃくった。どけ、という意味だろう。俺は慌ててベッドから飛び降りた。

 夏希ちゃんは悠然とベッドから起き上がると、内側にもこもこの毛が生えた室内履きに足を通し、長い髪をさっと手で撫でつけた。着ているのは足首まで隠れる白色のワンピース。もこもこで温かそうな生地の、ゆったりとしたロングワンピース姿だ。

 夏希ちゃんはいつも胸の前で犬のぬいぐるみを抱きしめている。

 だから、全然、気が付かなかった。

 ゆったりとした服の上からでもはっきりとわかるほど、おっぱいが大きい――!!

 秋穂さんもかなり大きいと思ったけど、夏希ちゃんも負けてない。下手したら夏希ちゃんの方が大きいかもしれない。残念ながら見ただけでカップ数を当てられるほど、俺は経験豊富じゃない。でも、間違いなく、Cカップ、Dカップのレベルじゃない。

 小学生か、せいぜい中学生にしか見えないと完全に侮っていた。

 ミコトの手から転がり落ちた俺のスマホを拾い上げ、夏希ちゃんは顔をあげた。俺の視線に気が付いたらしい。


「なに、なに? そんなにジロジロと見て。私の女らしさに気が付いちゃった?」


 にんまりと笑うと片手を腰に当て、あごを上げて、しなを作って見せた。

 その仕草が子供っぽかったり堂に入っていなければ、くすりと笑っていつも通りに話しかけられたのに。夏希ちゃんの仕草は見惚れてしまうほどに自然で、なまめかしいのだ。

 さすがは藤枝家の次女、秋穂さんの妹……と、いったところだろうか。

 千鶴ちゃんが〝私は、秋穂姉さんや夏希さんとは違う〟と言いたくなる気持ちが少しだけわかった。なんだか、ものすごく、緊張してしまう。

 俺の表情に夏希ちゃんは満足げに微笑むと、ミコトの隣にしゃがみ込んだ。腹の上にノエルを乗せたままのミコトはジタバタするのをやめて大人しくなっていた。

 と、いうか、ぐったりしている。すぴーすぴーと鼻を鳴らして熟睡するノエルの重みに、耐えられなくなっているのだろう。

 そんなミコトにスマホの画面を見せつけて、夏希ちゃんはちゃっちゃと操作した。


「あ……」


「はい、消去っと。……ノエル、おいで」


 ミコトが悲し気な声をあげるのも澄まし顔で無視して、夏希ちゃんはスマホを絨毯の上に置いて立ち上がった。

 夏希ちゃんに名前を呼ばれたノエルはパッと顔をあげた。


「バウッ」


 ミコトの上から退くと、ゆっさゆっさとお尻ごと尻尾を振りながら夏希ちゃんのあとを追い掛けてきた。

 呆然としている俺の隣に夏希ちゃんが、夏希ちゃんの隣にノエルが並んだ。


「……何、するんですか」


 スマホを手に立ち上がったミコトが、じっと夏希ちゃんを見つめた。表情の変化に乏しくてわかりにくいけど、完全に睨みつけている。唇もちょっとだけ尖っている。

 ミコトに睨みつけられても、夏希ちゃんは全然、動じない。後ろ手に組んで、くすりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「あなたたちが部屋に入ってきたときからずーっと聞いてたの。もちろん、ノエルも気付いてた。でも、私が待ってって言ったから寝たふりをしてたの。たぬき寝入り」


「バウッ」


「良い子でしょ?」


 夏希ちゃんに頭を撫でられてノエルは満面の笑顔だ。


「……で、なになに? ミコトは、私やお姉さまや千鶴とトウマが仲良くなるのが気に入らないの? 何か困ることでもあるの?」


 ひとしきりノエルを撫でたあと、夏希ちゃんはミコトの顔をのぞき込んでにんまりと笑った。


「別に、そんなことは……」


「ふーん、そう。それじゃあ、私の聞き間違いね」


 唇を尖らせてそっぽを向くミコトを見て、夏希ちゃんはあっさりと頷いた。予想外だったのだろう。ミコトは目を丸くした。

 でも――。


「ところで、私。トウマとミコトにお願いしたいことがあるのよね」


 そう言って不敵に笑う夏希ちゃんを見るなり、姿勢を低くした。警戒心剥き出しの野良猫状態だ。そんなミコトを見て、夏希ちゃんはますます笑みを深くする。


「もちろん、ミコトは快く聞いてくれるわよね」


「……」


「私のお願いを聞いてくれないなら、この家から追い出しちゃおうかしら。……もちろん、ミコトだけ」


「……!」


「お姉さまは可愛い妹のお願いなら、な~んでも聞いてくれるもの。追い出すなんて簡単。ミコトが追い出されて、使用人室に一人、残されたトウマの元に、私……毎晩、通っちゃうかも」


「…………!!」


 一言も発してないし、表情も変わっていない。でも、夏希ちゃんが何か言うたびに、ミコトの肩はぴょんぴょんと跳ねる。動揺しているのが丸わかりだ。

 と、――。


「古関のお邸に働きに行く予定だったっていうのも、嘘か何かの手違いでしょ? だって……」


 夏希ちゃんが俺の腕に抱き付いてきた。腕に当たる柔らかな感触に飛び退く俺を上目遣いに見て、夏希ちゃんは艶然と微笑んだ。


「ねえ……?」


 吐息混じりの含みのある声に、多分、俺の顔は真っ赤になっているはずだ。女子とは縁のない生活を送ってきた。耐性がないのだ。情けないくらいに。


「お姉さまや使用人たちの目を盗んでの密会。……どうかしら、トウマ。ちょっとドキドキしない?」


 夏希ちゃんもそれをわかっていて、俺の腕に抱き付き、頬を寄せ、柔らかいモノをぐいぐい押し付けてくるのだ。

 秋穂さんとは違う意味で恐ろしい――!

 緩みそうになる口角と必死に格闘していた俺だったが、


「もちろん、トウマにも拒否権はないわよ?」


 夏希ちゃんの笑みを含んだ声に固まった。


「なんでスマホの画像を消したと思う?」


 俺を助けるために捏造画像を削除してくれた……と、信じたいのだけど。

 俺は引きつった笑みを浮かべた。


「証拠なんていらないの。さっきも言ったでしょ? お姉さまには私の言葉があれば、それだけで十分」


 俺の淡い期待は、夏希ちゃんの言葉と上目遣いにあっさりと打ち砕かれた。


「と、いうわけで二人とも」


 俺の腕をつーっと人差し指で撫でて、


「私のお願い、聞いてくれるわよね?」


 夏希ちゃんはにーっこりと。なんにも知らなければ天使にしか見えない顔で笑ってみせたのだった。

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