第十五話「探してないですよ、母さんのことなんて」

 キッチンでは藤枝家三姉妹の分だけでなく、使用人全員の夕飯も作られていた。

 大きな鍋や使用頻度の高いフライパンを延々、洗い続け。それが落ち着くと、今度は下げられたお皿を洗い。キッチン担当の使用人たちといっしょになって夕飯を食べ、また洗い物をして――。


「そのお皿をしまったら上がっていいですよ。使ったふきんはそこのカゴに入れておいてください」


 キッチンを取り仕切っている使用人の女性に言われて、ようやくキッチンを出た俺は壁に額を押し付けて盛大にため息をついた。


「……し、しんど」


 中華屋でバイトをしてたけど、こんなに大量の洗い物は出なかった。それに、こんなに神経を使ったりもしなかった。下げられてくるお皿がどれもこれも高そうなのだ。雑に扱って割ったり、欠けたりしたら……。

 考えるだけで手が震えてくる。生きた心地がしなかった。

 と、――。


「トウマさん」


 廊下を歩き出した俺は名前を呼ばれて足を止めた。聞き覚えのある声だ。肝……と、いうか金タマが冷える声。振り返るのが怖い。それでも振り返らないわけにはいかなくて恐る恐る振り返ると、


「少々、お話があります。私の部屋に来ていただけますか?」


 秋穂さんがにーーーっこりと微笑んでいた。あまりにもにこやかな微笑みに、


「……っ」


 俺は思わず口から魂を吐き出しそうになった。生きた心地がしないっていうか、死にそうな気持ちになった。


 ***


 今朝も通された、執務室みたいな秋穂さんの部屋――。

 その部屋に入ると秋穂さんは窓を背にしてイスに腰かけた。優雅に、上品に、肘掛けに頬杖をつく。


「今日の夕飯、珍しく千鶴ちゃんがご飯を残したんです。どうしたのかって尋ねたら、ちょっと食欲がないだけだから心配しないでほしいと。でも、冷える時期ですし。風邪でも引いたんじゃないかと、お姉ちゃんとしては心配するじゃないですか」


 秋穂さんは頬に手を当てて、悩まし気な吐息を漏らした。

 綺麗で、スタイルも抜群の女性がそんな風にため息をつくのを見たら、大抵の男は心を奪われるか、鼻の下を伸ばすだろう。

 でも、今の俺はそれどころじゃなかった。


「ところで、使っていないキッチンでホットケーキを作ったそうですね。いえ、それについては構いません。問題は、そこではありません」


 せん馬の危機が現実になろうとしているのだ。


「……千鶴ちゃんも、いっしょだったそうですね」


 気を付けていたつもりだったけど使用人の誰かに見られていたのだろうか。

 ミコトがキッチンを借りたいと園田さんに言ったことは秋穂さんの耳にも入るはずだ。俺もいっしょだろうことも簡単に想像できる。そこから推察した……なんて可能性もある。

 どちらにしろ、俺は秋穂さんの一言に、二十年連れ添った金タマとの別れを覚悟した。

 秋穂さんが顔に張り付かせていたまやかしの微笑みは、すーっと剥がれて、流れて。


「今朝、お伝えしましたよね。うちの使用人たちにも、私にも、妹たちにも。決して近付かないでいただきたい。不必要に話しかけたり、下心を持って近付こうとしたり、万が一にも手を出すようなことがあれば……」


 くいっとあごをあげて俺を見つめる秋穂さんは人形のように無表情だった。ガラス玉のように無機質な目をしていた。


「自分からお願いしたことだと。ミコトちゃんもいっしょだったと。だから、追い出すようなことはしないでほしいと千鶴ちゃんが頼んで来たので、今回のことは目をつぶります。私も千鶴ちゃんに嫌われたくはありませんから。……ですが、次はないと思ってください」


 どうやら、またしても千鶴ちゃんに助けられてしまったらしい。せん馬の危機を免れたことに、ほっと安堵の息をつこうとして、


「男なんて同じと、私を失望させないでくださいね」


 息が、止まった。

 失望させないでと言いながら、秋穂さんの目はガラス玉のまま。何の期待もしていない、諦めている目をしていた。

 秋穂さんはひらりと手を振った。出て行け。そういう意味だろう。

 迷子の子供みたいに頼りなげな千鶴ちゃんの表情に、つい声を掛けてしまった。でも、秋穂さんのガラス玉みたいな目を見たら、軽率だったと思えてきた。

 でも、だけど、あのまま放っておくことなんて――。


「そうでした。もう一つ、この件でお伝えしておかないといけないことがあります」


 ドアノブに手を掛けようとしていた俺は、足を止めて振り返った。

 千鶴ちゃんの迷子の子供みたいな表情と、秋穂さんのガラス玉みたいな目のあいだで。間違っていたという気持ちと、あれで良かったと言う気持ちのあいだで。ぐらぐらと揺れていた俺の心が、

「このことを教えてくれたのは、ミコトちゃんですよ」


 凍り付いた。


 ***


 俺とミコトが使っている部屋は一階の廊下の突き当りにある。長い廊下を怒りに任せて乱暴に歩いて、ドアを勢いよく開けた。


「お帰りなさい、父さん。遅かったですね」


 ミコトはいつも通りの無表情で俺を出迎えた。

 すでに寝間着代わりのジャージに着替えている。仕事中は持ち歩けないからと部屋の金庫にしまってあった俺のスマホをいじっていた。


「どういうつもりだよ」


 スマホを奪い取って、俺はミコトを睨みつけた。ミコトは首を傾げたあと、


「……父さんが好きに使っていいって言いました」


 そう答えた。

 ミコトはスマホを持っていない。古関さんちの住み込みバイトのこともあったし、調べたいこともあるだろうと、俺のスマホは好きに使っていいと伝えてあった。

 そういうことじゃない。スマホのことじゃない。今、俺が怒ってるのは――。


「千鶴ちゃんとのこと、なんで秋穂さんに話した」


「……そのことですか」


 そのことについてだ。ツン、とそっぽを向くミコトに、俺はギリギリと奥歯を噛み締めた。

 ミコトが教えてくれたと秋穂さんがわざわざ伝えたのは、ミコトの目も使用人たちの目同様に気を付けろと伝えるためだ。俺の行動を抑止するためだ。

 それはわかる。わからないのは――。


「母親を探すのを手伝ってくれって言ったよな。あの三人の中にお前の母親がいる可能性が高いんだよな。……なら、なんで告げ口みたいな真似したんだよ。藤枝家から追い出されたら困るんじゃないのか!?」


「父さんとしては、せん馬にされちゃうのも困りますしね」


「茶化してんな! お前の母親を探すのにこっちは協力してやって……!」


「探してなんていません」


 怒鳴る俺を、ミコトは抑揚のない声で遮った。

 探してない――?

 わけがわからずに呆然としている俺を見つめて、


「探してないですよ、母さんのことなんて」


 ミコトはもう一度、ゆっくりと、はっきりと言った。

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