第十話「せん馬って言うんでしたよね、そういう馬のこと」

 翌朝――。

 朝食を食べ終わると秋穂さんの部屋に案内された。と、言っても偉い人の執務室みたいな部屋だ。部屋に入ると正面に大きな机があって、窓を背にする位置に秋穂さんが座っていた。


「おはようございます、トウマさん、ミコトちゃん。昨夜はゆっくり休めましたか?」


 秋穂さんはそう言って、にっこりと微笑んだ。

 昨日、千鶴ちゃんに向けた、きゅるん♪ とした笑顔とはもちろん違うけど、俺たちを案内してくれた女性の使用人に向けた微笑みとも違う。なんとも冷ややかな、目だけが笑っていない微笑みだ。


「ありがとうございます、ゆっくり休ませていただきました!」


 ぞくりとするものを感じて、俺は思わず背筋を伸ばした。


「両親は仕事で、この邸にはほとんど帰ってきません。邸のことを取り仕切るのは長女である私の役目。そして、妹たちを守るのも……私の役目です」


 秋穂さんはイスから立ち上がると俺たちに背を向け、窓の外へと目を向けた。

 白のブラウスにタイトスカート、肩からはストールを羽織っている。上品な服装だけど、女性的な丸みのあるスタイルが強調されるから、目のやりどころに困る。

 下手に見て、下手に鼻の下を伸ばしていたら、なんとなく危険な気がする。そんな気が、ひしひしとしていた。

 理由はわりとすぐにわかった。


「身内の恥をさらすようでお恥ずかしいのですが、少しだけ私たちの父の話を聞いていただけますか」


 秋穂さんは淡々とした、感情を抑えた声で言った。


「私たちの父……と、いうよりは祖父もおじたちも曾祖父も。藤枝家の男が皆、そうなのですが……ことごとく女好きなんです。愛人も、愛人とのあいだにもうけた子供も、数人や数十人では済まないほどの女好き」


 そう。抑えているだけだ。


「祖母やおじたちの奥さまや曾祖母が、どれだけ泣かされてきたことか。厄介ごとを押し付けられてきたことか。私の母は仕事にしか興味のない人で、ほとんど邸に帰ってきませんでした。代わりに子供を認知しろだの、養育費を払えだのと押しかけてくる愛人たちの対応をしてきたのは長女の私。娘の、私が、小学生だった頃から対応してきたんです……!」


「……ひっ」


 抑えているだけで、腹の底にはマグマのように煮えたぎる怒りと言う名の感情が沸々、ドロドロと渦巻いているらしい。抑えた声で話しながら、抑えきれなかった感情を拳に乗せて、窓の前に置かれている棚か何かを秋穂さんは殴りつけた。響いた鈍い音に、俺は思わず悲鳴をあげた。


「愛人たちに腹は立ちません」


 細く、長く、ゆっくりと息を吐き出した秋穂さんは、再び、感情を抹殺した声で話し始めた。


「彼女たちも被害者です。悪いのは父や藤枝家の男共。愛人たちの苦情を処理し、時には罵声を浴びせられたり、殴られたりしてきた祖母やおじたちの奥さまや曾祖母、私に向かって」


 くるりと振り返った秋穂さんは、キラッキラな笑顔を浮かべると横向きのピースサインを目元に当てて、


「めんご、めんご~☆」


 と、怖いくらいに明るい声で言った。

 かと思うと、何事もなかったかのように腕を下ろし、居住まいを正した。


「……などと、ふざけたことしか言わず。ほとぼりが冷めるのを期待して逃げ回り、現在も音信不通の父や藤枝家の男共が……血が……すべて、全面的に、悪いんです」


 そう言ってすっと顔をあげた秋穂さんの顔からは、表情という表情が消えていた。恨みを抱いて死んだ怨霊だって、もう少し生気のある顔ををしている。


 なんというか……情緒が不安定過ぎる――!!


 奥歯をガチガチ鳴らしながら、俺は心の中で叫んだ。

 元凶である秋穂さんのお父さんに会うことがあったら、首根っこ掴んで近所のばあちゃんたちのところに連れていきたい。延々、説教を食らってもらいたい!


「お見苦しいところをお見せしました」


 秋穂さんは頬に手を当てて熱い吐息を漏らした。昨夜の何も知らなかった俺なら艶っぽいな~なんて鼻の下を伸ばしていたかもしれない。でも、今ならわかる。昨日も、さっきも感じた危機感の理由はこれだ。

 父親たちの女好きにたんを発した男性への不信感、嫌悪感。それが原因だったのだ――!


「世の男性がすべて、父や藤枝家の男共と同じではないことはわかっています。誠実な男性もいるのでしょう。古関さんのお宅で働く予定だったのですから……尚のこと心配は不要なのかもしれません」


 なぜ、ここで古関さんの名前が出てくるのか。昨日、古関さんのところで住み込みのバイト予定だったと言ったときも、夏希ちゃんが妙な反応をしていた。

 でも、古関さんちってなんかあるんですかー? なんて、のんきに尋ねられる雰囲気ではない。決して、ない。


「ですが、人間の男というものを、私は、どうにも信用することができないのです」


 すっとあごをあげて、秋穂さんは俺を見下みくだし……もとい、見下ろした。


「千鶴ちゃんにお願いされたから雇いましたが、出来るだけ、早々に、次の仕事と家を見つけて出て行っていただければと思っています」


「わかりました!」


 食い気味にミコトが答えた。

 ……って、なんでお前が答えるんだよ!


「それから妹たちにも、我が家の使用人たちにも。もちろん、私にも。極力、近付かないようにしてください」


「望むところです!」


 またもや食い気味にミコトが答えた。

 だから、なんでお前が答えるんだ! なんでそんなに良いお返事なんだ、この野良猫!!

 ミコトの良いお返事に秋穂さんは満足げに頷いた。かと思うと、すーっと目を細めた。


「不必要に話しかけたり、下心を持って近付こうとしたり、万が一にも手を出すようなことがありましたら……」


 秋穂さんはそこで言葉を切った。


「……そう言えば、トウマくんは競馬がお好きなんですよね。ミコトちゃんから聞きました」


 小首を傾げて微笑む姿は、まさに令嬢と言った雰囲気だ。今までの話をぜーーーんぶ忘れて、その微笑みを堪能したい。そう願ってしまうくらい上品で愛らしい。

 ただ――。


「そういう馬のこと、なんて言うんでしたっけ? 牝馬ひんばは、女の子のことでしたよね。牡馬ぼば……は、男の子のことで……確か、そう……」


 話の内容は全然、上品でもなければ愛らしくもなさそうだったが。

 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

 つい三日前に二十歳になって、ようやく馬券を買えるようになった身だけども。小さい頃からじいちゃんたちに競馬の話を聞かされて育ってきた。競馬番組もしょっちゅう見ていた。

 牝馬ひんば牡馬ぼば……あと一つがなんなのか、よくわかっている。


「せん……そうです、せん馬って言うんでしたよね、そういう馬のこと!」


 秋穂さんは、パン! と、手を叩いて満面の笑顔を浮かべた。

 そういう馬――つまり、去勢された牡馬ぼばのことだ。

 わざとらしいくらい明るい声の秋穂さんに、俺の奥歯はガチガチガチガチ鳴りっ放しだ。


「この十年。藤枝家とは別に私個人の人脈を築くために尽力して参りました。いつか帰ってくる父のため。合法、非合法を問わず……」


 秋穂さんは指でハサミの形を作った。そのハサミがちょきん……と、何かを切った。何かというか、ナニかというか――!


「こうしてくださるお医者さんや、情報をもみ消してくださる方とのご縁を結ぶため。今ではずいぶんとたくさんの方と懇意にしていただいております。たくさん、たくさん。深く、深ーく」


 思わず前屈みの姿勢で後退りそうになった。多分、狙われているのは後ろの丸いヤツだけど、そんな細かいことはどうでもいい。

 膝がガクガクと震えている。その場にへたり込みそうになるのを俺は必死に堪えた。


「不必要に話しかけたり、下心を持って近付こうとしたり、万が一にも手を出すようなことがありましたら……もう、十分におわかりですよね?」


 秋穂さんは艶やかな長い髪をさらりと揺らし、豊満な胸をなんの悪意もなく揺らし、にーっこりと聖母のように穏やかな微笑みを浮かべて、そう言ったのだった。

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