掌編小説・『こころ』
夢美瑠瑠
掌編小説・『こころ』
(これは2019年の「夏目漱石の日」にアメブロに投稿したものです)
掌編小説・「こころ」
私はいつも、その人を「先生」と呼んでいた。
心理学教授で、だから、「こころの先生」で、松岡由貴という名前の、中年女性だった。
私は大学院生で、松岡先生のもとでサイバネティクスの研究をしていた。
いわゆる汎用される「サイバー」の語源となった学問で、「人工頭脳学」とも呼ばれる。
スーパーコンピューターを使って様々な現象を科学的に解析して、認知科学的なモデルを作り、実用的に利用できるシミュレーションを電脳空間で実行する、というような研究だった。
松岡先生と私は、そして、深く愛し合っていた。
私は松岡先生の知性と匂いやかな端整な美貌に、先生は私の若さと天性の明るい性格に、それぞれ魅かれ合い、誰にも知られずに不倫関係に落ちていた。
研究室で二人きりになると、いつも激しく唇を求めあった。
私の手が乳房に伸びると、先生は「ダメよ」と言って、手を払った。
なおもブラウスの上から乳首を強くまさぐると、先生は「ああ」と喘いで、だんだん体の力が抜けていく、という具合だった…
…
「靖雅くん、この前のレポート、すごくよく書けていたわ。巨大都市の機能というのをいろんなフェイズから丁寧に細かく調査して定義して都市というものの姿をを有機的に明晰にレリーフする、という発想がまず秀逸ね。さらに実験手順とアルゴリズムの構想と設計も完璧。サイバネティクスの神髄を穿っている研究だと思うわ。」
「ありがとうございます。僕はその研究を通じてあるべき理想の都市の姿、というのを提示したいんです。混乱した雑多な要素の塊みたいに見える都市機能を理想的なコンピュートピアに収束させていくための方法論を模索したいんです。都市デザインという普通混乱した分野をより総合的で整理されたアポロ的なモデルに進化させていくために一石を投じたいわけです。」
「うふふ。頑張ってね」
先生は観音様のような優しい表情で微笑んだ。
僕はうっとりとして、また先生の唇を奪ったのだ…
…
先生の夫は松岡漱石といって、有名な文豪だった。
まだ先生とただの師弟関係だった時にお目にかかったことがあるが、立派な髭を生やしていて、辺りを払う、といった感じの威厳があった。
小説は大体は至極真面目で、比較的平凡なストーリーだが、情景描写や人物造形が秀逸、で本格派の小説の王道を行く、といった感じだった。人間性の真実、というものをとことん追求したい、そういう偉大で英明的な知性の持つ意思の、小説というメディアへの清澄な発現、という趣だった。
…
しかし、先生は夫の漱石を嫌っていた。
二人はまた、ホテルの一室で戯れあっていた。
「ロートルだからね、毎朝、どっさり薬を飲まないといけないのよ」
「そうですか」
「うつ病とかノイローゼの気味があるから、その薬でしょ、糖尿病の薬に高血圧の薬、胃が悪いからタカジアスターゼ、肝臓のために小柴胡湯っていうのも飲むのよ。
猫アレルギーなのに猫を飼っているから年中喘息気味で、アレルギーの薬も飲んでいるの。結構スケベだからバイアグラとかも買ってくるんだけど、やっぱり駄目なのよ。身体も貧弱だし、小説以外は話すことも陳腐なのよ。何だかだんだん莫迦みたいに見えてきたわ」
二人で大笑いしあって、それからまた愛し合った。
文豪というものの権威をコケにするというような危うい会話にはたまらない妙味と滑稽さがあった。
…
その次の月に、小説雑誌に漱石の書いた中編小説が載った。
何の気なしに読んでみて、私は青くなった。
「妻と学生」というタイトルのその小説には、私と松岡先生の秘密の関係やら、内緒に交わしたであろう会話、情痴の時間の愛戯の数々、すべて事細かに正確に書かれていたのだ!
そうして、「…しかし、これらのことはすべて私の不徳の致すところであり、私は寛容の精神で妻の不倫をすべて宥すつもりである。私は妻を愛しているのだ。」と、結ばれてあった。
私は浮気現場を見つけられた間男のように、全身に冷や汗が流れて、背筋が寒くなった。
「な、なぜこんなことが全部分かったんだろう?先生が話したんだろうか?」
いや、そんなはずはない、流石は文豪だ。異能力を発揮して全てを見通したに違いない。
私は人間の知性や直観というもの恐ろしさ、底深さに心底戦慄した。
「こころ」ほどすごいものはないのだ、やはりそれは神秘的な小宇宙なのだ…
まだ稚拙な若造にとってはありがたい教訓を偉大な先達からもらって、私は漱石に深々と頭を下げたい気分になった。
<了>
掌編小説・『こころ』 夢美瑠瑠 @joeyasushi
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