君好みの隠しごと

藍ねず

第1話 君好みの隠しごと

 

【怪奇現象研究会】


 掲げられた看板はいつも少し曲がっている。背の高い部長が入退室の時、毎度扉にぶつかることが原因だ。逆に言えば、看板が曲がっていれば部長が来ている証拠である。看板は常に私が直しているのでね。入る時も、出る時も。


 私は看板を正し、教室の扉を開けた。


 怪奇現象研究会は部員数二名の同好会である。部員は私と先輩だけ。毎日吹奏楽部の練習音や運動部の掛け声を聞きながら、判定の難しい怪奇現象について談義する。それだけの同好会だけど、先輩はいつも楽しそうだ。


 私は床を見下ろして、足の踏み場もないほど散らばった資料に嘆息した。


「おぉ、来たなぁ後輩!」


「来ましたよ、先輩」


 先輩は今日も今日とて自分で集めた資料を散らかしている。

 元々倉庫だった教室を貰ったらしいが、こうも片付けの出来ない生徒に明け渡したのは間違いではなかろうか。ねぇ、顔を見せたことがない顧問の先生。根負けするにも生徒は選ぶべきだと思います。


 大量の資料を見比べている先輩は、口角を楽し気に上げていた。


「今日は怪奇現象〈ススカゲ〉について語ろうではないか! さぁ後輩、お前の見解を俺に語れ!」


「先輩ちょっと煩いです。議題は分かりましたから、まずは座ってくれません?」


 肩を落とした私は顔を向ける。


 今日も天井から逆さまになっている先輩は、照明器具に大きな足でしがみついていた。


 彼の姿は、言わばコウモリだ。


 二本の腕と胴体の間には薄く丈夫なハネがあり、両手足の爪は鋭い。全身は黒く、細められた目の色は判断できない。大きな三角の耳はどんな情報も聞き逃さないと豪語してたっけ。怪奇現象研究会という、噂話を主力にする同好会においては持ってこいなのだろう。


 私は先輩が散らかした資料を拾い集める。部室に来るたび、集めた資料を片っ端から見ては床に放るのはやめてほしい。場所が窮屈にしても。資料の片付け場所が限定されていたとしても。

 棚には他の部活の不用品などが詰められているので、私達の資料は机か棚の上が定位置だ。人数が少ないことは弱さであるな。残念である。


 椅子に腰かけた私は、天井から下りた先輩を観察した。背中は常に曲がっているのだが、それでもやはり背が高い。縦に長い。その体を飛ばせるためのハネもやはり大きく、両腕を体の前で交差させればマントのようだ。


 縮こまるように座る先輩は、鋭い歯を見せて耳を揺らした。どうやら私の意見を待っているらしい。


 私はフードを触りつつ、先輩が要求する資料を引っ張り出した。


 〈ススカゲ〉


 それは都市伝説から飛び出した怪奇現象。道路や壁、空き家や教室といった様々な場所に黒い影が浮かぶようになったことが始まりだ。


 最初は誰もが気味悪がったが、清掃業者によって簡単に消せることが判明した。消せると分かった行政はホームページに「発見した場合はお住まいの地域の清掃業者へ連絡を」と掲載した。今ではススカゲ専門の清掃業者が現れる程だ。


 ススカゲが浮かぶ原因については心霊現象研究家とかよく分からない学者とかがテレビ論争をしていたが、最近は番組で取り上げられることも少なくなってきた。

 イカのような心霊研究家がタコのような評論家と墨の吐き合いを始めた番組は神回として有名である。それはそれは醜い争いだったことだろう。


「ススカゲって全国に現れるんですもんね、前触れなく」


「そう! 俺としてはその場に残る思念という説を押したいところだ」


「現れた場所に残された思いが、ススカゲになっているという説でしょうか。正直この怪奇は謎が多すぎるので、どの説を押して考えても時間の無駄では? 別の怪奇について語ってもいいと思うのですが」


 片付けが出来ない先輩だが、資料のまとめ方は上手い。いつどこで情報を入手して、発信者は誰で、どういった根拠があるのか並べられた紙面は見やすい報告書のようだ。私ではこう出来ないので、見習いたい所でもある。


 私は手袋を何の気なしに引っ張り、先輩は饒舌に続けた。


「どの怪奇とて語れば同じさ! 怪奇現象とは恐怖ではない。そこに出た現象を俺達が知らない、解明できないから怪奇と名付けているだけだ。その怪奇を剥がした先には何があるのか、大変興味深いではないか! なぁ後輩!」


「耳だこのお話をありがとうございます。では先輩の希望通りススカゲの怪奇を剥がすとして、発生場所には思念があるのだと仰いましたね。その心は?」


 入部してから二日に一度、いや、ほぼ毎日聞いている先輩の考えにため息を吐く。そんな後輩の姿は見えているだろうに、気にしない先輩は大きなハネを両腕で広げた。


「まず、俺はススカゲを壁から浮き出たものでは無く、外側から付着したものだと考えた。掃除すれば簡単に消せてしまうのだ。そこは想像に難くないだろ?」


「続けてください」


「うむ。簡単に消せてしまうのは、ススカゲとして張り付いた思いが他者にとっては何でもないからだ。思いを残した者以外にしてみれば、それは只の残骸だ。顔も知らない他者の思いなど蹴散らせるだろ? そういうものだ」


 尖った歯を揃えて、彼は口角を上げる。先輩の体が揺れる度に黒いケープ風の学生服もはためいた。

 主張に若干の主観が入っている気もするが、反論する材料を私は持ち合わせていないので黙っておく。


 先輩の声は喜色を孕んで微かに高くなった。


「そこから、俺はススカゲを誰か一名の思念、思いだと仮定した。強く強く残った思いがその者の形をとって現れた。壁などに付着することで思いを示した。しかし誰にも思いは汲み取れない。洗われてしまう、あぁ切ない怪奇だなぁ、ふはは」


 椅子を前後に揺らして先輩は音を立てる。言葉と行動が一致していないのだが、彼の縛られない思想は素晴らしいと素直に思おう。


「ならば次の疑問は、どうして現れたかですね。その場所に離れがたい何かがあったのか、思念者が亡くなってしまったのか。思いには種類もあります。あれは正の感情なのか負の感情なのか」


「後輩はどちらだと?」


「……どちらかと言えば、正ですかね。負ならば清掃は出来ないものだと思います。それこそ手を出した時点で呪いだとか死者だとか出てそうです」


「なるほど! 俺もその考えには同意である!」


 はしゃぐ先輩が椅子をより一層軋ませる。気分が高揚すると体を揺らすのは別に構わないが、自分の体躯は考えた方がいい。とは、言わない方がいいだろうか。


 私はススカゲの写真を何枚か見下ろし、先輩に問いかけた。


「では先輩、ススカゲはどうして全て同じ種なのでしょうか。獣人種でも昆虫種でも、鳥類種にも見られないな姿です」


「ふむ、たしかに全てのススカゲは二足二手で一頭の姿。翼も無ければ尻尾も無い。こんな種は珍しいな」


「除外されるんですかね、念として付着する時に。翼や尻尾」


「除外! その発想は新鮮だな! ならばどうして除外されてしまうのかだが――」


「先輩、興奮して牙が出始めています。ここで小休憩にしませんか」


 椅子を前後に揺らして口を開けた先輩。ギザギザの歯は伸びて牙に変形していき、今にも糸目が開眼されそうだ。


 私は机を静かに叩いて提案し、了承してくれた彼は腕を体の前で組み直した。


「オニオンスープでいいです?」


「よし!!」


 * * *


 他者に見せられない顔ってあると思う。


 クラスメイトでも、先生でも、家族でさえも見せられない顔。私は寝顔を見せられないし、頭痛で歪んだ顔もあまり見せたくない。周りには、私らしい顔を見てもらいたいものだ。


 スーパーのレジのおばさんは「レジのおばさん」の顔をしているし、学校の先生は「先生」の顔をしている。

 お父さんは「父」の顔をしているし、お母さんは「母」の顔を私には見せていることだろう。


 別にそれを責める気なんてないし、私だって「見せられる私」の顔しかしていない。


 私は自分の顔を覆う黒い煙を廊下の窓に映し、フードを目深に引っ張った。


 すれ違った蜘蛛型の女子生徒は床を複足で歩いている。二本の手は手紙を持っているが、あれはもしやラブレターなるものではなかろうか。ハートのシールだなんてベタだが可愛いな。

 上ずった声で「こんにちは!」なんて挨拶されれば、こちらも挨拶をしない訳にはいくまい。「こんにちは」と。頑張っては仕舞っておこう。青春だね。


 食堂に着いた私は色々な飲み物が出る販売機の前に立つ。先輩はオニオンスープが好物だ。コウモリって玉ねぎ食べても問題ないのだろうか。不思議である。吸血鬼が苦手なのは、ニンニクだったか。


 先輩のスープと自分の水を使い捨てのカップに淹れる準備をする。水はものの数秒で出てくるが、温かいスープは少し時間がかかった。それはいつものことだ。


 私の顔はグランドに向かう。外で活動している部活の生徒は空を勢いよく飛んだり、グランドを全力で掘ったりと各種競技に専念しているらしい。

 なんだろうあの速さ。鳥類種って何でもありかなって、違うな、生まれた瞬間から速いか遅いかは決まっているのか。グランドを掘るのはモグラっぽい種の生徒だな。


 私はメモ帳にペンを走らせて、黒い疑似尾を揺らした。


 ――この世界に「人間」と呼ばれる種は存在しない。


 それこそ怪奇現象や噂話によく登場する存在であり、路地裏や夜道で見られることがあるとかないとか。「この前、帰り道にニンゲンみたいなの見ちゃってさぁ~!!」「え~! やだこっわ!!」というのが目撃された場合の会話例である。別に何もしないってば。


 人間に見つかると連れ去られて実験されるとか、体にチップを埋め込まれて生態を観察されるとか恐れられているが、そんなことはしないので安心して欲しい。


 見つかる人間は擬態が下手な奴だ。ちゃんと変装して紛れ込めと口酸っぱく言われているのに。仮面や疑似翼等に慣れなくて、他者のいない所で外してしまう馬鹿がいる。そういう時を偶々見られたせいで噂話、ひいては都市伝説の完成だ。いい迷惑だっての。


 こっちは見づらい煙のマスクつけて、似合いもしない悪魔みたいな疑似尾を付けてるって言うのに。


 私は先輩のカップにオニオンスープが入った事を確認し、飲む気もない水と一緒に運んだ。


 私は都市伝説、人間だ。


 人間には人間の組織がある。壁や廊下、空き家や路地裏に、壁に見える出入り口を作り、奥には人間だけが過ごせる静かな街を形成しているのだ。

 世界の大半は獣人種や鳥類種、混合種など多様な種族に席巻されている。その中では尾も翼も無い私達にんげんは隠れるしかなかったのだと、年長者や歴史書は教えてくれた。


 しかし人間だけで生活するにも限界がある。そのため、こうして擬態することで壁を越えている訳だ。

 学校に通ったり会社に勤めたり、そりゃもう神経が磨り減るのなんの。


 同時に、人間以外の生態について気づいたことがあれば報告するようにも言われている。だから毎日観察は欠かさない。いざと言う時、こちらが実験対象にされるなんて御免なのでね。


 その点を考えると、我が先輩は要注意だ。彼はあまりにも勘が良すぎる。見解が的確すぎる。思考の視野が広すぎる。会話の中で冷や汗を流したことは数知れず、である。


 ならばそんな同好会やめてしまえばいいのにと思われるかもしれないが、だからこそ離れるのは愚策だと判断した。木を隠すなら森の中。怪奇を隠すなら怪奇現象研究会の中、ってね。


 私は煙のマスクがずれていないことを確認してから、肘で部室の扉を開けた。


「戻りましたよ、先輩」


「よく戻った後輩! そして聞け! ススカゲの形について思案していたのだが、これはもしや都市伝説、ニンゲンと繋がっているのではないかという新たな俺の見解を!!」


 あー……帰ろうかな。


 ちょっといなかっただけで先輩は資料をまた散らかしている。私はオニオンスープを大きな手に押し付け、水は机の端に置いた。ススカゲと人間の資料を出来る限り自然に、自分の方へ寄せながら。


 先輩は私の行動には触れず、栓のない蛇口のように言葉を垂れ流した。


「ニンゲンは俺達の身近に存在していると俺は思っている。そこから独自の仮定を組み立てた! ニンゲンには壁をすり抜ける力があり、その思念がススカゲを生み出しているのではないだろうか! 思念の元がニンゲンであるならば不完全な姿であることも説明できるぞ!」


 ……当たらずも、遠からず。

 百点ではないけど零点でもない。

 ど真ん中ではないが枠外でもない。


 白状すれば、先輩の言う通り。


 怪奇現象、ススカゲを生んでいるのは、都市伝説、人間だ。


 だからこの先輩は油断ならない。

 油断ならないけど、正解の真ん中を射ることは出来ていない。

 全てを汲み取ることなど、人間ではない先輩に出来る筈もない。

 百を聞いても、一を見てない他者が辿り着けるはずもない。


 私は資料を整え、脳裏には身近な人間の姿が浮かんだ。


 泣きながら帰って来た女性。

 二度とこちらには来ないと、唇を噛み締めていた男性。

 肩を落として顔を覆った同胞達。


 着席した私は、先輩の好奇心に耳を傾け続けた。


「では先輩、その説と私が出て行く前の説を繋げてみましょう。ススカゲは正の思念であり、外から付着したもの。だから他者には簡単には消せてしまう。その思念を生んでいるのが別の都市伝説、ニンゲンだとして、ニンゲンはどうしてそんな思念を出してしまったのでしょうか」


「そこがまた難題だ。壁をすり抜けるニンゲンが残していった思念。それをススカゲだと仮定し、ならばニンゲンはなぜそんな思いを? ふふふ、難題だー、難題だ!」


 先輩は片手にペンを持って白紙に自分の思考を書き連ねていく。私はその姿を見ながら、壁をすり抜ける時の安心感と緊張感を思い出した。


 もしも、自分が壁を抜けている姿をクラスメイトに見られたら。

 もしも、自分の運動能力の低さが人間だからだとバレたら。

 もしも、自分の尻尾が贋物であると気づかれたら。


 私は……私は、


「もう、こちらに来られない?」


 先輩のペンの音が止まる。


 私は資料を捲るフリをする。


 見づらさに慣れてしまった煙のマスクの向こうで、コウモリのような先輩は真面目に笑っていた。


「ニンゲンは壁を抜けられる回数に制限があるのではないか? だから最後の通行をする時、こちらの世界に名残を残してしまう。思い出、友達、家族、恋慕に肩書、なんでもいい。それらは決して負の感情ではないが、正にもなりきれていない」


 また、外れてないけど正解ではないことを口にする先輩。


 私は、指輪を捨てていた女性を瞼の裏に浮かべていた。


「しかし、それは確かに正の感情ですよ。思い出も、友達も、家族も、恋慕も肩書も。それらを残して帰らなければいけない感情が負だと、私には思えません」


 先輩の見解に自分の言葉を付け足してみる。別に言い返したわけではない、先輩を否定したわけではない。ただ、そう、思っただけだ。


 私達にんげんは何となく分かっている。怪奇現象のススカゲを生んでしまう原因を。それはどうしようもなくて、誰にも止められなくて、責められないのだ。


 他者にとっては簡単に消せてしまう思いでも。

 残した人達にとっては、尊い名残なのだから。


「後輩、お前はススカゲを美しいと思っているのか?」


 顎を上げて先輩の顔を正面から見る。オニオンスープを美味しそうに飲む先輩は、好奇心をたっぷりと声に乗せていた。


 ススカゲを美しい、か。


 私は後頭部を掻き、椅子の背もたれに体重を預けた。


「別に、美しいとは思っていませんよ。簡単に消せてしまう跡なんて」


「そうか、俺は美しいと思っているのだがな」


 先輩が大きな手で小さなコップを包み込む。首を傾けた彼は私を凝視しているのか、糸目では認識できなかった。


「ニンゲンは翼もなければ尻尾もない、身体能力も低いのだろう。だから人目につかない所でしか見られない。なのに都市伝説では実験だのチップだの言われているが、俺はあれらの説を否定する派だ」


「続けてください」


「うむ。ニンゲンとは恐らく、俺達を警戒している種だ。だからこそこちらを観察して自分達を守ろうとする知識のある者達だろう。きっと俺達の傍にも潜んで観察しているのだろうな」


 痛い所を掠める考えを持ってやがるな、やはり、先輩は。


 私はマスクの下で口を結び、先輩はスープを飲み干した。


 空のコップが机に置かれる。軽い音は、外の音に掻き消されることがなかった。


「そんな彼らが残して行った名残の跡。正のススカゲ。それを俺は美しいと思うのだが、同時にこれ以上発見されなければ良いとも思っている」


 先輩の口角が緩やかに上がり続ける。彼はいったい誰を笑っているのか。知りたくないし考えたくないな。


 私は思わずマスクに触れかけたが、資料を握ることで何とか思い留まった。


「発見されなければいいなんて、怪奇現象研究会の部長が言う事でしょうか。事例が減ることは怪奇解明への道が遠のくだけですよ」


「そ、う、な、の、だ! だからススカゲは増えてくれればいい、しかし俺の近くでは発見されたくない。この矛盾が伝わるか?」


「先輩の近くで発見されれば、ニンゲンだと思っていなかった誰かが消えてしまうかもしれませんもんね。先輩の仮説が合っていればの話ですが」


「あぁそうだ、もし俺の仮説が合っていればの話だ。万に一つでも正解だったならば、ススカゲが発見された時には俺のクラスメイトが消えているかもしれない。消えるのは担任かもしれないし、行きつけのコンビニの店員かもしれないし、唯一の後輩かもしれない」


 先輩の糸目が微かに開く。

 覗いた赤い瞳が細められ、私を確かに映していた。


 口角を吊り上げる先輩は右手を前に出し、尖った指を一本、私の顔に向ける。


 剥ぐことを許してないマスクに触れようとする。

 先輩の指先が煙を掠める。


 怪奇を剥ぎたい先輩が、私の顔を指している。


 先輩は私の眼前で手を広げて、四本しか指のない手で私の視界を塞いでしまった。


「怪奇が怪奇で無くなった時、怪奇の奥にある真相に辿り着いた時。それは至高の喜びと共に空しさもあるのだろう」


 掌が離れて視界が戻る。私の肺から息が漏れる。


 先輩の黒い両手は机に重ねた資料を掴み、勢いよく宙に放ってしまった。


 ゆっくりと落ちる紙の雨の中、私は先輩から目を離さない。


 彼は怪奇現象研究会の部長。


 しかし、彼が今まで解明した怪奇はゼロだ。


 先輩はいつも秀逸な語りを見せ、見解を謳い、挙げた仮定に酔う癖に、この部室から出ることはしない。目撃情報があった現地に向かう事も、見たと言う誰かに聞き込みをすることも無い。聞くとしてもご自慢の聴力で拾った声くらいだ。情報はもっぱら電子世界からの抽出である。しかもその収集は家でしてくるらしいし。


 学校での彼は天井で逆さまになるか、椅子で体を縮こませて考えるだけだ。


 ――お前、俺と共に怪奇現象研究会を立ち上げないか?


 なんて、突飛な勧誘を突然した癖に、活動はもっぱら部室内。


 私は黙って頷いた日が何カ月前だったかも思い出す気にならず、先輩のハネが起こした風からマスクとフードを守ることに意識を向けた。


 紙が翻って再び雨になる。夕焼けに照らされた先輩は、赤い瞳を瞼の向こうに仕舞ってしまった。


「なぁ後輩、雑種のお前の煙にも俺は興味があるのだが?」


「詮索厳禁ですよ。雑種ですので、どんな化学反応が起こるか分かりません」


「爆発する危険もあるということか!」


「霧散する可能性も、無きにしも非ず」


「そうか、ならば我慢しよう」


 チャイムが鳴る。同好会は解散の時間だ。先輩は陽気な空気で耳を畳んでいるので、チャイムのような大きな音は苦手らしい。耳が良すぎるのも考えものですね。


「それでは先輩。本日の議題でしたススカゲについて、まとめをどうぞ」


「うむ。怪奇現象ススカゲは、都市伝説ニンゲンが残した正の思念である。ニンゲンには壁を通り抜ける力があるが、その回数には限度がある。限度を迎えたニンゲンはこちらに来られなくなる為、名残の思念を残し、それが怪奇現象ススカゲとなるのであーる!」


「はい、お疲れ様です」


 声高らかに自説を叫ぶ先輩を横目に、私は床にしゃがむ。勘が良すぎる彼は我が道を走って頂くのがいい。変に盛り上げて調子に乗せると厄介そうだ。てか資料を拾うのはいつも私なのかよ。拾えよ先輩。


 私は何度目か分からない資料を整える任務を遂行し、鞄を肩にかけた。


 今日はどこから帰ろうかな。帰りにあったかい食べ物でも買って帰りたいんだけど。


「おぉ、後輩」


 先に扉を開けようとした私の手に、先輩の手が重なる。後ろから私を覆い隠した彼の爪は、やはりとても尖っていた。


 私の体が硬直する。扉を先に開けて、廊下で先輩が出るのを待つのがいつも通りなのに。


 背中を冷や汗が伝った。疑似尾が無様に震えた。私は大きな先輩の手だけを見つめて、遮られた夕焼けの影に沈み込んだ。


「廊下ではだ。気づかなかったか?」


「……ぇ、」


 先輩の言葉に反応が遅れ、私は静かに扉へ顔を寄せる。


 扉の向こうからは、健全な、健康な――骨の折れる音が聞こえた。


「ふむ、これは恐らく昆虫種の蜘蛛に分類される者達だな」


 私の腕に鳥肌が立つ。廊下ですれ違った、ラブレターを持った女の子。上擦った声のこんにちは。


 耳のいい先輩は興味がなさそうに実況していた。怪奇現象以外には微塵も興味のないコウモリ野郎だからな。


「どうやら女子の告白を男子が了承したようだ」


 告白成功したんだ。よかったね。


 そう思っているのに、渇いた喉は唾を飲み込むことも危うくなっていた。


「蜘蛛同士の告白は体がかかっているからな。今は丁度、足の交換中だ。恋仲になるならばお互いの足を一本ずつ食べるのだ。食べた相手は自分のもの、食べられた自分は相手のもの」


 人間では考えられない青春の一ページ。ちゃんと知っているつもりだった。

 昆虫種、蜘蛛属は告白して、お互いの足を食べる。もちろん告白が成功しなければ食べなくていいし食べられない。成功した後にやっぱり別れようってなれば簡単にバイバイ。足を失った数が恋をした数で、果敢に告白の道を通って来た証明になる。たとえ足が全て無くなってしまっても。


 それが、この世の普通だ。


「後輩、よかったな。今は大事な蜘蛛達の青春行為中だ。無粋に扉を開けていれば、雑種のお前はどうなっていたかな?」


 先輩の顔がフードの真後ろにやってくる。ドアの持ち手に押し付けられた私の手は、完全に先輩の手に覆われていた。


「お前がいつも被っているフードが落ちるだろうか。その霧は食べられるのだろうか。遅い足では逃げきれまい」


 頭の後ろで、先輩の口が開いている気がする。


 私では聞き取れない微細な音を先輩は聞き取っている筈だとか、見当違いなことが頭を回りながら。

 私では嗅ぎ取れない匂いを先輩ならば嗅いでいると察しながら。


「先輩」


 声が裏返らないように、私は腹部に力を入れる。


 夕焼けを遮る先輩は片翼を広げており、私の呼吸は微かに浅くなっていた。


「雑種ですみません。もう、出られますかね」


 先輩の口がゆっくりと閉じていく。

 先輩のハネが面白そうに仕舞われていく。

 先輩の手が、私の手を潰す前に離れていく。


「出られるぞ。ほら、」


 先輩は勢いよく扉を開ける。そこで初めて血の残り香を吸い込み、掃除はされている廊下に歩み出た。


 一気にこわばりが解けて、鎖骨の間を汗が流れていく。


 あぁ……あぁ。


「っと、」


 背後で先輩が扉にぶつかる。振り返ると、肩を摩る先輩の近くで〈怪奇現象研究会〉の看板が傾いていた。


 私の視線に気づいたのか、口角を上げたまま見下ろしてくるコウモリの先輩。


 私は鞄を肩にかけ直し、息を吐いた。


 コウモリのように大きく、黒く、薄いハネを持った先輩。

 いつも扉にぶつかって、看板を斜めにしてしまう先輩。

 オニオンスープが好きで、散らかすことが得意な先輩。


 そんな先輩は、怪奇にしか興味がない。

 怪奇にだけ酔いしれて、剥ごうとして、しかし明確な答えは求めない変わり者。


 私は、そんな先輩に誘われて入部した後輩。


 一つ学年が下ってだけの後輩。

 怪奇好きの先輩に目を付けられただけの後輩。

 先輩の唯一の、後輩。


 それが、私という雑種にんげんだ。


「帰るか、後輩」


「はい、先輩」


 扉の鍵を先輩が閉める。途中までは一緒に帰るのが、通例だ。


 帰ることが出来るのは途中まで。

 最後までは行けない。

 私と先輩は何処にも行けない。

 何も言えない。言ってはいけない。


 先輩は私の隣をゆったりと通り過ぎ、夕焼けを背にして笑い続けていた。


 糸目を開けて、赤い瞳でこちらを凝視して。


「さぁ、行くぞ」


 私は疑似尾を揺らす。彼の隣を歩く為、普通に、普通に、過ごす為。


 私がススカゲを残すのは今日ではない。


 私が怪奇現象になるのは、まだ先でいいんでしょ、先輩。


「今行きます」


 明日はどうか、心臓に優しい怪奇現象について語りましょうね。


 そんな意見は胸に仕舞って。


 私はいつも通り、〈怪奇現象研究会〉の看板を正しておいた。



――――――――――――――――――――


仮説を解明しない先輩と、決して顔を晒さない後輩の日常。

二人は明日も、その次も、狭い部室で解明する気もない怪奇について話しているのでしょう。

先輩の仮説がどこまで正解だったのか、後輩が語ることなど無いままに。


後輩がススカゲになる日はくるのか。

先輩が怪奇を剥いでしまう日がくるのか。


それこそ、誰にも分からぬ怪奇として。


小さな部室で活動している二人、怪奇現象研究会を発見してくださって、ここまでお読みくださって、ありがとうございました。


藍ねず

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