第57話 考えるんじゃない、感じるんだ

この夜、龍一は机の前にしっかりと座り、一冊の漫画を開いた。

それは「大友克洋先生の作品 童夢」。

幼き龍一の心に衝撃を与え、絵でお金を稼ぐと言う夢と希望を植え付けた本である。


何度も何度も、何十回も何百回も読んだその本、龍一が本棚から童夢を出す時は本気の時だ、真剣に絵に向き合う時なのである。

童夢に触れるだけでエネルギーが流れ込んでくる気がした。

「自分は出来る、自分は描ける」そう思わせてくれるパワーを感じるのだ。


読む…それが目的ではなく、感じるのが目的。


じっくりと時間をかけて童夢からパワーを貰い、二周目に入る。

二周目はどのカットを模写するのかを感じるのだ。

龍一としてはオリジナルで描きたい気持ちもあったが、それは何か違う…しっくりこない…そんな言葉に出来ないモヤモヤする思いがあり、完全模写することに決めた。


珈琲を入れて、再度童夢を開く。

『夏休みはあと8日あるし』そんな思いが龍一の心にゆとりを持たせていた。正確に言えばゆとりなんか持っている場合ではないのに…しかし龍一の眠っていた魂に火が付いた、こうなった炎は消える事は無い、納得のできる作品を描き切るまでは。


深夜を回るまで童夢を舐めまわすように読み、これだ!と言うカットを探すのではなく、カットの方からこれだよ!と言う電波の様なものを受け取る作業をするのだ。

全て読み終わるが、電波が来る事は無かった…


パタン


音を立てて童夢を閉じるとビリビリと身体に痺れるものを感じた。

それは童夢の表紙だった。

少女が瓦礫の前を泣きながら歩いているシーン。

暫く見つめる龍一、それは『描けるのか?』と言う自問。

いや、描けないものなんかあるはずがない、問題はこの偉大なる作品に近づけるのか?違う、近づけるんだ、近づけなくてはいけないのだ。


そんな中、ふと、いつの間にか引退した自分にとって単なる付き合いだったはずの作品に対し、エンジン全開で挑もうとしている事に気が付いた。


思わず笑ってしまう龍一。


『俺…やっぱり描くのが好きなんだよな』


描かないと決めた龍一、あらためて絵が好きだと気が付いた龍一、急に胸が苦しくなって全身が小刻みに震え、涙が出た。


描きたい、描きたい、描きたい、描き続けたい。

しかし、あんな辛い目に合うなら二度と描きたくない、勉強もしなくてはいけない。どうしていいかわからなかった。


その時震えが止まった。


『この絵を最後にしよう』


龍一は童夢の表紙に『大好き』を目いっぱい詰込むことにした。

これが最後、自分の絵描きとしての生き様を見せてやると奥歯を噛みしめる。


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『桜坂!』


いつものように休憩時間に一人で廊下に座っていると吉田が声をかけて来た。

色々あったが、今は龍一を酷い目に会わせる生徒も居なければ、理不尽に喧嘩を売って来る先輩もいない、しかし龍一は独りで居たかった。もう何もしなくなったとは言え、やった事実は変わらない、執念深いとかそう言うものではない、やった方は忘れたかもしれないが、やられた方は一生消えない傷となって残るのだ、簡単にクラスのみんなに寄り添うなんてできやしない、そして、それをすることで負けた様な感覚を覚えていたからである。今後も付き合いをして行くことになる者もいるのだから、許すのが得策なのかもしれないが、龍一にとっては今後付き合っていく気持ちも無かったのだ。だが、寄って来るものを跳ね返すような事まではしなかった。


『よう』


『何がようだよ、眠そうな顔して、さては相当文化祭の出展作品にチカラ入れてるな?はははっ』


『そりゃそうさ、やるからには全員叩き潰すよ、これは喧嘩だもの』


『あー…言われてみればそうだよね、よし、俺も喧嘩売るわ!ははは』


『誰に?俺に?』


『あったりめーじゃん!四天王同士の戦いなんてカッコイイじゃん、ははは』


『あぁ、なんか校内ではちょっと噂になってるよな』


『ま、楽しみにしていてくれ、ははは』


『あぁ、わかったよ』


家に帰って来ると直ぐに龍一は童夢の作成に取り掛かった。

貯めていたお小遣いを全部使って四つ切画用紙を1枚、サインペンを数種類買い揃えた。描き損じなんかするつもりはない、一球入魂と言う言葉があるように、龍一は一紙入魂の心構えが出来ていた。失敗しても紙があると思うからダメなのだ、失敗は許されない、失敗したら終わり、そのヒリヒリとした作品との勝負が龍一を高揚させた。完全コピーであればケント紙につけペンで描くべきなのだが、完全コピーではない、最初は模写のつもりだったが模写と言うのも違う、ただただ童夢を描くのだ、龍一の童夢を描くのだ。似てるとか似てないとか、違うとか違わないとか、上手いとか下手とか、そういう次元を超越しているのだった、あくまでも自己解釈でしかないが、龍一にとってはそういう勝負だった。自分流に描くのではない、自分が描くのだ。


ここまで自分に都合のいい御託を並べたら、もはや『そうなのかな?』と思ってしまう程説得力が出てきてしまう。何言ってるかわからない状態ではあるが、これで良いのである、龍一のモチベーションの上げ方なのだから。


時間を忘れる程没頭した龍一。


気が付けばいつも深夜だ、龍一の頭の中にはもう「勉強」と言う文字は全く無かった、片隅にもないし、なんなら細胞にすらなかった、勉強ってなんだっけ?と言う状態、絵を描く時の当時の龍一は集中するがあまり、他の事は全く考える事は出来なかったのだ、だから当然勉強なんかしない、そして夏休みは残り4日となった。


だが、龍一の創作活動は止まる事を知らなかった。

手が真っ黒になる程の下描きを終えたが、納得が出来ずに描き続ける、何かにとり憑かれたかのように。やっと下描きが終わると今度はペン選びを始める、どの部分をどのペンで描くのか、太さを数種類用意した龍一は試し描きをしながら吟味する。メモ紙を用意し、どの部分に何ミリのペンを使うのかを記載して行く。今回は丸ペン独特のカーブも完全再現しようと考えているので、同じ個所でペンを使い分ける事もあると判断した。実は龍一は距離をパッと見て大体つかめる事に長けていた、例えば10cmはこれぐらいかな?と定規を当てるとほぼ10cmと言う能力。この能力が模写にも生かされており、それを応用してどれくらいの力で手首を曲げればどんな線になると言う予測も出来るようになっていた。本人は当然ながらその能力に気付いていない、描ける人間は皆が描けると思っているからだ、他の何かが得意な人間も少なからずそう思っていたと思う。だから龍一は描けないと言う人を見ると、描けないのではなく描かない、描こうとしないだろ?そう感じていた。


『完全再現』この言葉に龍一は、なんだかしっくりきて、ベクトルが更に上向きになる。


この日、絶好調にペンを走らせた龍一はそのまま朝を迎えた。

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