第37話 闇

朝が来た。

『どんなに嫌な事があっても、どんなに辛いことがあっても朝は来るものだなぁ』以前にも同じことを思った気がするよ・・・ともう一人の龍一がつっこみを入れた。


カーテンを開けて眩しい日差しを浴びる。

朝日は明るくて暑くないから好きだ。

でも今日の朝日は見たくなかった龍一。

朝日が上るのを止められないように、今日と言う日が来て、その時間の渦を泳ぎ進むことを止められないのも運命と言うやつなのだろう。


『はぁ、ため息しか出ないや』


やる事を失った龍一には気力自体がなくなっていたのだ、今日と言う日はどんな楽しい事があるだろう、そんな希望に満ち溢れた言葉なんかでやしない。唯一『好きな事』だった絵を描くこと、これを失ったのだから最もである。真っ暗なトンネルの中で懐中電灯を失うようなものだ、戻る事も進む事も出来なくなった龍一の心の中は漆黒の闇となっていた。その闇の中に自分を閉じ込めてしまったのだ、絵は描こうと思えば描ける、しかしあまりのショックにあの日描く事を捨てたのだった。


描いたところでどうせ認める人なんかいやしない、別に認められたいわけじゃない、折角描いた絵を踏みつけにされて唾を吐きかけられるのはもう嫌だった。いや、嫌なのではない、恐くなったと言うべきだろう。


恐怖に心を支配されてしまい、自ら暗闇に逃げ込んだのだ。


恐怖すなわち恐れは怒りを生み出し、苦しみと痛みを伴う。描かなければあんな目に会う事もないと言う恐れ、そしてあの日受けた事への怒り、そして悲しみと苦しみと心の痛み、闇に堕ちる全ての要素が1日で揃ってしまったのだ、その扉を開いてしまうのも当然と言えば当然である。


取り敢えず顔を洗って歯を磨き、居間に行くがおはようの一言もなかった。だが朝食は用意されており、母親の優しさが少しだけテーブルの上にあった。物心ついた時には味噌汁やスープ、お茶が無いとご飯を食べることが出来ない身体になっていた龍一だったが、この日の朝も味噌汁とお茶がちゃんと用意されていたのだ、その気遣いにはありがたかったが、はやり昨日の喧嘩は納得が行ってなかった龍一。


無言で朝食を終えると、口の中をゆすいで黙って玄関を出て家を後にした。こんな龍一でも一応エチケットと言うもののつもりらしい。


家から学校はどんなにゆっくり歩いても10分、つまり友人に会わなければ10分かかることなく学校に到着してしまうのだった。当然ながら独りぼっちの龍一はクラスメイトに会っても話すことなく、話しかけられる事もなく、なんなら速度を上げて通り過ぎるので7分以下で到着してしまうのだった。


玄関でクラスメイトに会っても声を掛けられる事は無い、通学路と同じく龍一も声を掛ける事は無かった。


こうなってくると学校へ来る意味なんか感じるわけもなく、龍一の中には虚しさしかなかった。もしかするとこの中学校の中で『虚しい』と言う気持ちを初めて知った男かもしれない。だが、虚しさと背中合わせに刺々しさは前面に出ていた、近寄りがたい空気と言う奴だろう、打ち込むモノを失った苛立ちが心からあふれ出して狂気へと変わっているのだ。その狂気に満ちた心を龍一本人も分かっており、人にぶつけないように気を付けていたのだが『邪魔だ』と後ろから声を掛けられると同時に背中を突き押された。


2、3歩前に出ると振り向いた龍一。


『あ??』


そこには卒業したが、用事があって学校を訪れた先輩が2人立っており、眉間にシワを寄せて睨みつけていた。

この時代は当たり前の事で、逆らったらヤるぞこの野郎と言う表情だ。

しかし今日の龍一は先輩なんか関係ない、喧嘩上等だった。


『押すなやコラ』


龍一が噛みついた。


通常この時代は先輩に盾突く等あり得ないご法度行為だったから、周囲に居た生徒達は一気に緊張感に包まれた。後輩が先輩とやり合うのか?先輩に一方的にやられるのか?と言う興味だけでかなりの人数が3人を取り囲んだ。火事と喧嘩は江戸の華なんて言葉があるが、現代の龍一の街でも同じだ。


『あぁ????』


引き下がるわけにいかなくなった先輩は思い切りいきがって見せるが、龍一はそんな脅しに屈服しなかった、なぜならモヤモヤした気持ちをぶつけたかった、勝とうが負けようが龍一には関係なかった、とにかく今黒い塊をぶつけたかったのだ、ぶつけたところでどうにかなるわけでもないのだが、龍一には今だった、龍一には今が大事だった、それが喧嘩だろうと何だろうと、今を、1分1秒を生きてると感じたかったのだった。じゃないと闇に飲み込まれて心の扉を閉めてしまうから。


『こらガキ!やっちまうぞこの野郎』


『一つしか違わねぇだろ!』


龍一の正論でのつっこみにギャラリーが笑った。

真っ赤になった先輩の一人が前蹴りを入れてきたが、鞄で受けた龍一はそのまま押し込んで前蹴りを打った先輩の左足をドン!と踏み、右肩でタックルして突き飛ばした。しかしもう一人に羽交い締めにされた龍一。『この野郎…』と言いながら起きて来た先輩の水月に思い切り前蹴りを入れて、頭を一度前に下げてから後頭部で羽交い締めにした先輩の顔面に頭突きを入れた。鼻から溢れ出る血を両手で抑えながら四つん這いになって『いでぇえええええ!!!』と叫んだ。その横っ面に蹴りを入れ失神させた、水月を押さえて動く事も出来ないもう一人に近づいた龍一は、先輩の足を払いつつ首に手をかけて転ばし、何度も何度も殴りつけた。


一発おきに盛り上がっていたギャラリーは、龍一の氷の様に冷たい喧嘩の仕方に言葉を失い、目を丸くして呼吸すら忘れていたようだった。


『なにやってんだ桜坂!!!』


生活指導の小田切が駆け寄って龍一を引き離そうとするが、龍一は殴るのを止めない。『離せ!離さないか!』制服を引っ張ると破れる程度じゃ止まらない龍一に対し、腋から腕を入れて、その太い腕で思いっきり引きはがした。勢い余って小田切と龍一が床に転倒すると、龍一はまだ届く足で気を失っている血だらけの先輩の身体を蹴りまくった。小田切に首に腕を回され、まるで犯人とそれを連行するSPの様に相談室に引きずられて行った。


その残された現場はまさに惨劇の跡、喧嘩当たり前のこの時代でも、床が血まみれというのはなかなかお目にかかれる光景ではない。

すぐさま保健室の先生が駆けつけて失神した2人を介抱していた。


『小田切に殺されるな桜坂』


引きずられて行く中、ギャラリーからそんな声が聴こえた。

生活指導の小田切は、大学生の頃にプロレスラーに憧れて身体を鍛えていたらしく、50歳越えてもその身体はガッチガチのムキムキマッチョだった、故にゴリゴリの不良でも小田切には歯向かわない、しかも小田切は普段から自分で改造して作ったショートサイズの竹刀を常備していたので、その腕力と竹刀から繰り出される打撃は凄まじかった。どれくらい凄まじいかと言うと、お尻に一撃入れられると痛みで3日はまともに座ることが出来ないほど。もちろんこの時代だからこそ通用した、いわゆる体罰である。


相談室に連れ込まれ、椅子にだらっと浅く腰かけて上目遣いで小田切を睨みつける龍一に対し、机の反対側に静かに座った小田切が話し出す。


『なんであんなことしたんだ?』


『先にやってきたのはあいつらです』


『1対2で2人があんなになるか!誰とやった!』


『俺1人です』


『隠すな!誰をかばってるか言え!』


『1人だって言ってんだろ!』


『なんだその口の利き方は!』


『おめぇが信じねぇからだろ!あぁ?』


『この野郎!』


立ち上がった小田切はサンダルを脱いで龍一に投げつけた。

サンダルを胸に投げつけられ、汚れをはらっている隙に小田切が近寄り、自家製のショート竹刀で龍一を何度も何度も殴りつけた。流石に痛くて龍一がガードの体勢で丸くなったが、容赦なく小田切が所かまわず殴りつけた。『やめろ!!!』と声を荒げた時、竹刀が龍一の顔面を直撃した。鼻血がジョー!っと勢いよく出るのがわかった龍一だったが、そのまま小田切を睨みつけた。


まさか顔をあげるとは思わず、驚いて動かなくなった小田切に対して『殴れば言うと思ってるのか?どんなに殴ったって1人でやったのは事実なんだから、このまま殴り殺したって言わねぇぞ』と凄んだ。


百戦錬磨の生活指導もたじろぐ程恐怖した。過去にこんな生徒は居なかったからである、これが本当に1人でやったことだとしても、泣いて詫びる生徒ばかりだったのだろう、今の龍一にはそんな事で感じる恐怖と言う感情はない。


それは当然のことだ、暴力や脅しで感じる恐怖など希望を失う程の恐怖に比べたら他愛もない事でしかない。恐怖から逃げたその暗い場所に届く程の恐怖などありはしない。


『と、取り敢えず血を拭いて保健室へ行きなさい』


『小田切先生よ、この件担任に報告したらどうなるんだ?』


『先生を脅すのか?』


『いや、言わねぇから俺がボコボコにした2人にちゃんと話聞けよ』


『わ、わかった、じゃぁその・・・』


『転んだ・・・』


『そ、そうか、その・・・すまなかったな』


『いえ、傷つくことには慣れてますから、では』


その後、龍一にボコボコにされた2人は、1人が突っかかったことが始まりだと認めたらしく、小田切が龍一を呼び出してその内容を説明してくれ、改めて謝罪してくれた。


だがその噂は学校中に広がり、同級生はおろか、先輩すらも龍一から距離を置いた。話す人もおらず、ただただ学校と家を往復する日々だった。




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