第35話 帰り道

辺りがざわざとする中、龍一はやっと立ち上がることができた。そして考えた『何をしたらいいんだろう』


頭の片隅にもなかった惨事、片隅にもないのだからあるわけがない、あるわけがない事が起こったのだから龍一のCPUは暴走か機能停止のどちらかになる。この場合は機能停止となってしまったのだ。必死で再起動を行い、ゆっくりと脳を立ち上げる。


パソコンの様にファンファーレは鳴らないが、それはそれは静かに、まるで霧が晴れるように龍一のCPUは目を覚ました。我に返ると途端に恥ずかしさでいっぱいになった、何が恥ずかしいのか答えられないが、とにかく周りの目が恥ずかしかった。その恥ずかしさはやがて恐怖に代わり、見ている人たち皆が自分を笑っているように感じたのだった。


慌てて荷物をまとめる龍一。


自分の絵を必死で地面に這いつくばりながらかき集めて、来るときに入れて来た鞄に詰め、停めていた自転車の荷台にゴムひもで括り付けるが、焦っているので全くうまく行かない。ゴムが外れたりフックが車輪のスポークに引っかかったり絵の入った鞄が崩れ落ちたりした、その度に寒気にも似た感覚がざわざわと頬からつむじまで駆け上がり、冷や汗がジワリと滲んだ。顔が熱くなって頭皮が痒くなるのがわかる、いつもだ、恥ずかしい目に合うと高揚して血行が良くなり頭が痒くなる。『くそっ…』とひとつ吐き捨てながら頭をガリガリを掻きむしり必死で絵を自転車に積み込むと、来た道を帰らないと帰れない方向音痴だと言うのに、ただただガムシャラにその場から逃げた。


立ち去ったのではない、逃げたのだ。


恥ずかしくて、辛くて、人の目が怖くて。


息が切れる程走って、立ち止まった龍一は自転車を停めて、自分に起きた出来事をケタケタとあざ笑う両ひざを両手で摩った。呼吸が落ち着くと、落ち着いたその呼吸が急に乱れ始めた、それから直ぐに全身に震えがゆっくりと走った。つま先から這いつくばって頭の天辺を目指す魔物の様に。


海岸線と呼ばれる道路で立ちすくみ、ガタガタと震えた。

大人に絡まれた怖さが今頃来たのだった。


震えが止まると龍一は道路から海を眺めた。

寄せては返す波を何分見ただろうか、見ても見ても、どんなに見続けても飽きることが無く、時間の経過を感じない不思議な景色、潮の香と波の音、髪の毛の隙間を通り抜ける風、ここでは全てが優しかった。その優しさが凶器となって龍一の心を抉った。


傷ついた時、時に優しさは刃物になったり鈍器になってその傷を広げる。龍一はついさっきの出来事を思い出してしまい、涙が溢れそうになった。下唇を噛んでこぼれ落ちる涙を堪えると、絵の入った鞄を自転車の荷台から取り出した。


鞄の中から絵を1枚取り出すと、ブーメランのように海へ飛ばした。大きく弧を描いて右に飛び、左にカーブして波に突き刺さった。


龍一が絵を描く事を止めた決心の表れだった。


『たった一度あんなことがあっただけで?』『世の中は広いぞ…』人の心の傷に無神経と言う名の塩を塗り込む人間も多々いるだろう、本人が受けた痛みの大きさも、その傷の深さも知らずに『頑張れ』と応援するつもりでさらに追い込む人間もいるだろう、今の龍一はそんな無責任な応援も慰めも届かない程の傷を負ったのだ、たった一度で大好きな絵をやめてしまおうとするほどのショックだったのだ、いや、やめてしまおうとする…ではなくやめたのだ。


龍一の夢を壊すには十分な一撃となった出来事は、一緒に龍一の心を破壊した。


次々と何日もかけて描いた絵を、魂を込めた絵を1枚1枚海へと投げ捨てた。


それはまるで決別の儀式の様でもあった。


波はまるで考え直せと言わんばかりに捨てた絵を押し戻してくる。しかしそれも時間と共に沖へ、さよならも言わずにゆっくりと絵は龍一から離れて行った。


最後の1枚を思いっきり投げ捨てると色んな思いが一気に込み上げて涙腺が崩壊した、絵との別れが悲しいのか、受けた屈辱が悔しいのか、悲しいのか寂しいのか全く分からないぐちゃぐちゃの感情が涙と言う形で溢れ出した。


空気を読んだように雨が降り出し、龍一の心を一層搔き乱す。叩きつけるような雨の中龍一は声をあげて泣いた。音を一切かき消す雨音は当然龍一の叫びも打ち消した。この日、龍一の一番の味方はこの雨だった。

思いっきり泣きなさい、そう言わんばかりに雨脚は強くなって龍一を包む。


どれだけ泣いたかわからない程泣いた、嗚咽しながら道路に崩れ落ちてずぶ濡れになった、悲しさの後に悔しさが込み上げ道路に額を押し付けた。拳を握ってアスファルトを何度も殴った、その度に水がバシャバシャと跳ね上がり、顔に泥が跳ねあがる。『ぬおおおおおおおおおおおお!!!!』叫ぶその声も誰にも届かない、天を仰いで叫ぶその顔に痛い程降り注ぐ大粒の雨、その雨は口の中を直ぐにいっぱいした。


龍一は溺れそうになって吐いた。


この日、完全に龍一の中で心が砕け散った。


一点を見つめたまま歩き出す龍一だったが、その方向は家に帰れる保証はない。ただひたすらに突如振り出した大雨に打たれながら自転車を漕いだ。ペダルが酷く重かった、身体が冷えて小刻みに震えが出て来た、朝は暑くて快晴だったのに…。そんな思いもこういう時の雨は寒さを加速するものである。


『はぁ…はぁ…ここは…』


海岸線をずっとひたすらに進むと、見覚えのある銅像が見えた。


『誰だっけ…』


銅像を見上げて考えるが、銅像に降り注いだ雨粒が弾けて龍一の目にショットガンの様に跳ね返った。『おととと…』突然目に雨水が入り、驚いてよろめくと何かにぶつかった。


『いてぇなこの野郎!』

不運は続くものだ、今は戦国時代、どこにでも喧嘩を売って来る不良がいる。そしてその不良が龍一にぶつかったと言うわけだ。不良は大体群れている、この不良も例外ではなく3人組だった。ぶつかった弾みで傘を落した不良がいきなり龍一の左肩、シャツを鷲掴みにして詰め寄った。この真っ赤な長袖Tシャツに不良に人気のブランド名【MIKU HOUSE】が書かれているリーゼント頭の男がリーダーだろう、大概はショボい下っ端がイキがるものだが、この男にはオーラがあった。不良のオーラと言うよりは『道理を通す』という部分でのオーラだ。ぶつかって置いて謝りもしない龍一の言動に対して怒っていると言うのが見て取れた。


しかし龍一は謝ることなく、掴まれた左肩の手を振りほどいて、黙って立ち去ろうとした。


振りほどかれまいとより強く握った不良の一人は、そのまま龍一を引っ張って引き寄せた。『待てやコラ』よろめいた龍一は自転車ごとその場に転んでしまった。


『てめぇぶつかったら謝るのが筋だろ!』それを皮切りに、3人が転がった龍一に蹴りを見舞った。ショー的な「踏みつけ」ではなく、本気の蹴りだったので、つま先が肋骨を抉り、踵が頬を容赦なく龍一を傷つけた。


『道理通せやコラ』


その声が耳に入った龍一。

「道理?道理って何だよ、一生懸命描いた絵を気に入らないからと言って踏みつけにする事か?そいつを捕まえても謝罪すらさせずに俺に帰れと命令することか?」脳裏で屈辱の出来事がループされた…いきなり立ち上がった龍一は赤い長Tの不良にタックルを仕掛けて飛び込んだ。その勢いで水溜まりに赤Tの男は背中から落ちた。スローモーションのように水しぶきが上がり、降り続く雨粒とぶつかって、空中で弾け飛んだ水滴が爆発のようにも見えた。四つん這いで走り寄り赤Tの男の両足を自分の両足でロックすると、ひたすらに殴れるところを全力で殴った。『道理?道理ってなんだよ!道理って何だよ!』そう叫びながら拳をただただ落とした。イイのが一発入ったらしく赤Tの男は失神したようだった、残りの2人が慌てて龍一を赤Tの男から引きはがそうとしたが龍一は足のロックを強めて殴るのを止めなかった。顔面を蹴られ、髪を引っ張られ背中を傘で殴られ、頭に衝撃を受けてから記憶が飛んだ。


『にぃちゃん!にぃちゃん!』


その声で脳が覚めた龍一、ゆっくり目を開くと光に照らされたババァの顔のドアップだった。飛び起きると激しい痛みが身体にあったものの、雨が上がっていたのはわかった。見上げるとあの銅像の下だった。


『不良達が移動させてくれたのかな』


心配して声をかけてくれたババァに尋ねる龍一。

『ここってどこなんですか?』


『湯川原(ゆのかわら)だよ』


なんと龍一の方向音痴センサーに引っかかる言葉が飛び出してきた。

『湯川原と言ったら金獅子の居る所…湯中のエリアか…ありがとうございました』ババァにお礼を言うと、龍一なりに何かヒントになるものを探し、それを見つけた。スーパーマーケット「ジオン」の看板だ。


『よし、ジオンまで行けたら帰れる』


夢を失った龍一だったが、今は『帰れる』と言う小さな希望を握りしめる事ができた。

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