第32話 ビッグ・ベイきさらぎ
数日後、龍一は自転車にまたがって地元に新しくできた観光スポットへ向かう事にした。自分が持てる全てを注ぎ込んで描いたイラストを売り込むため、場所や雰囲気などを見に行く、要するに『下見』に出かけるのだった。
自転車でゆっくり走って、軽く120分はかかる場所に位置するその場所は、元々築港で倉庫エリアだった場所を改良し、景観をそのままにしつつ情緒溢れる観光地へと変貌を遂げた場所。
方向音痴の龍一は、頼りにならない自分の勘は捨てて海へ向かう事にした。言ってしまえばそれも勘なのだが、海の側の観光地で港と言えば『あそこら辺』と言う『めぼし』は付いていたのだった。しかし、そこに行く為の道のりがわからない龍一はチラシに載っていた観光地『ビッグ・ベイきさらぎ』、その名前を思い出し、自分が前に住んでいた如月町だと考えていたので、バス停の前に止まってその時刻表を睨み付け、もう一人の自分を呼んで相談する、タイプ『分身』である。『どう思う?』『如月町行きで良いのでは?』『そうだね、きっとそうだね』
相談が終わると龍一はバス停のある道路を走った。要するにバス停からバス停に移動すればバスと同じ道のりで如月町に行けると考えたのだ、龍一にしては良い考えを出したものである。
しかし、直ぐにピンチは訪れた。
龍一は交差点に差し掛かり、バス停が一体どこにあるのかわからなくなってしまったのだった。どうすればいいのか息詰まった龍一が目にしたのは一台のタクシー、停車しているうちに側に寄って窓を2回ノックした。
コンコン
窓を開けた運転手がくわえ煙草で不愛想に、そして恐ろしく怖い顔で返事をする『あ?なに?あ?』
相当怖い、威嚇とも取れるその言動、しかし龍一は負ける事無くフッと息を短く吐き出すと『すみません!ビッグ・ベイきさらぎに行きたいのですがどうやって行くのか教えてください!』と言い放った。
般若の様な運転手は急に表情を緩ませると『お前、チャリンコであそこに行くのか?結構遠いぞ?』と言った。
『ええ、行きたいんですけど道がわからないんです』
『そうか、まずな、ここをな・・・』
運転手は龍一に、大雑把で尚且つわかりやすく優しく丁寧にビッグ・ベイきさらぎへの道筋を教えてくれた。
『ありがとうございました!』キチンと頭を下げてお礼を言うと、記憶が薄れないうちにと、いそいそと自転車を走らせた。
『この道を真っすぐ・・・スドーヨーカドーの前の交差点を左・・・』
ぶつぶつと念仏のように教えてもらった道順を繰り返しながら自転車を走らせる、信号待ちの度に記憶が薄れていくのを感じる龍一、それは立ち止まるからである。立ち止まる事で時間が止まり、念仏のように繰り返しても信号が変わるのを意識したり、道路の向こう側に立つ人を見て妄想が膨らんだりしてしまうからだった。
しかしこの方向音痴に、タクシーの運転手は余程簡素に端的に教え込んだのだろう、あの短期間で教えたにしては龍一の脳からなかなか消え失せる事は無かった。ある程度まで来ると見覚えのある街に入ったのを感じる龍一。
『あ、如月町だ』
龍一が小学校3年生まで住んでいた町である如月町、数年経過しているとは言え、見覚えのある景色は暖かく歓迎してくれているようにも思えた。辛い思いもした街ではあるが、いい思い出もあるわけで、今となっては全てを含めて『懐かしい』思いでいっぱいになった。裏切られてボコられた場所もあった、いつも遊んでいた公園もあった、その公園に自転車を止めてベンチに座ると、懐かしさと思い出と辛さが入り乱れて複雑に絡み合った空気に抱かれ、フワフワとした気持ちになっていた。
ふと気づくと20分程経過していたので、自転車にまたがって出発することにした。『あれ?』そう、すっかり教えてもらった道のりを忘れてしまっていたのである。だが冷静になって、自分の中のタイプ『探偵』を呼び出した龍一は、今どこにいるのかを分析することにした。如月町と言う事は間違いない、問題はどこにあるのか?である。龍一は新しく誕生したスポットであれば、ポスターや看板があるに違いない、そう考えて繁華街を目指して自転車を進めると、狙い通り廉売の入り口のガラス戸に大きなポスターが貼ってあった。
『きっと地図が書いてあるはず』
そう言いながら指でポスターをなぞると、一番右下に住所と地図が描かれていた。その地図をじっくりと解読する。
『えっと・・・』
現在地をリアルに理解するために道路に合わせて首を思いっきり傾げた。方向音痴で地図を見れないタイプの龍一はMAPと自分の脳の理解が一致しないとその先へ進めないのだった。
『えっと今ここだから・・・この道を真っすぐ行って・・・うーん・・・どこだよここは・・・でも・・あそうか、この道をとにかく真っすぐ行けば港なんだ、港まで行ければ何とかなるな』
思いっきり大きな独り言を言って脳に理解させながら確認を同時に行うと、自転車を走らせるのだった。道路脇に目をやるとビッグ・ベイきさらぎまで3km言う看板が見えた。『3kmならもう直ぐだな』龍一の方向音痴は距離と時間の関係性をとても甘く見ている、と言うかわかっていないのだった、つまり3kmを自転車でどれくらいの時間がかかるのかと言う概算すら出来ない、つまり3と言う数字だけで『近そう』と言う感覚でしかないのだった、だから簡単にバスや電車を使わず、直ぐに歩くか自転車を選ぶのだ、それが良いのか悪いのかはわからないが、本人が良いのだから問題はないだろう。
とは言っても3kmであれば普通に走ってもおおよそ15分前後、龍一が出したもう直ぐと言う答えとしては粗がち間違いでもないわけだ。
港に入ると既に観光客でごった返していたので龍一は『ここだな』と直感した。人の流れを掻き分けて進むと、倉庫を改造して作られた観光スポットが眼前に広がった。龍一が初めて見る光景、情緒とか浪漫とか、そう言うものはわからないものの、龍一の心をノックするような感覚は確かにあった。
『すげぇ、違う国みたいだ』
願わくば人が居ないこの場所をゆっくり歩いてみたかった。自転車をアーチ状の橋の上に止めると、レンガでできた橋の手すりに前から寄りかかり、両肘をついて景色を眺めた。波の小さな凪の状態の海、その微かに揺れる波紋に太陽が反射してキラキラと輝き、まるでほうき星が流れる様だった。
『いつか好きな人が出来たら、一緒にこの景色を見たいなぁ』
暫く龍一はその場所でボーっとするのだった。
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