第30話 前だけ向いて歩くんだ

龍一が目を覚ましたのは3日後だった。


玄関で倒れたまま目を覚まさず、両親がベッドに運んで様子を見ると、その夜高熱が出たので夜間救急病院に運ぶと「右の肋骨にヒビが入っている」との事だった。身体の痛みもあり、受けた恐怖と父親に信じてもらえなかった事にショックを受け、身も心も崩壊したのだろう。


『あれ?俺・・・いてぇ』


起き上がろうとした龍一を激痛が襲った。ヒビと聞くと折れていないのだからさほど重症ではない印象を受けるが、呼吸をしても痛いのが実際のヒビによる痛みだった、3日目だからその痛みが刺すようなモノなのは容易く想像できるだろう。


薬を持ってきた母親が部屋に入って来る。

『龍一、良かった、もう起きないんじゃないかと心配したよ、痛みは?』

赤ん坊の頃に引き取ってもらい、育ててもらったことには感謝の気持ちは持っていたものの、正直母親の優しい言葉を聞いたのはこの日が初めてだった気がした龍一は戸惑いながらも『うん、大丈夫』と答えた。


『骨にヒビが入ってるから学校は暫く行けないからね、全治3ヵ月だってさ、痛みが無くなったら学校は行っていいみたいだけど、体育なんかはダメだそうだよ』


裏切った仲間の事を思い出し、三ヵ月学校に行かなくて良いのはラッキーと感じた。許せないし、目を覚ました瞬間から怒りが込み上げてくる、仮に学校行ってあいつらに会ってもどんな顔をしていいのかもわからなかったからだ。


しかし、いざ学校へ行かないとなると何をしていいのかわからない。取り敢えず机に向かうと引き出しからスケッチブックを取り出して開いた。開くたびに過去に描いた絵達が次々とページを彩って行く。

『はぁ』ため息をひとつつくと、誰も居ない居間へ足を運んだ、食べ物は無いかとあたりを見回すと1枚のチラシが目に飛び込んできた。地元の寂びれた倉庫エリアを改造して観光地にすると言うプロジェクトが完了し、ついにオープンするというものだった。


『一つ言えるのはな、前向いて歩かなきゃぶつかっちまうってことだ』


歯抜けのタクシー運転手、スンの言葉を思い出した龍一はとんでもない事を閃く。夢は漫画家だが、まずは自分の絵が本当に雑誌編集の人が言ったようなプロレベルなのか確かめるべく、この観光地で絵を売ってみる事だった。


龍一の魂に火が付いた瞬間だった。ヒビ休みを良い事に朝から晩まで一心不乱に描き続けた、中学生の頭をフル回転させて多彩な作品を用意することにした。水彩画、モノクロペン画、ベタ塗りの抽象的なものから、切り貼りしたパッチワークのようなイラストまで時間をかけて時には深夜を超えて朝まで没頭した。珈琲をブラックで飲むと眠れなくなると言う母親の独り言を思い出し、描き上げたい作品を前に眠りたくなかった龍一は夜中にこっそりブラック珈琲を飲んだ、残念ながら龍一にはブラックの効果が全く無く、机に突っ伏して朝まで寝てしまい、よだれで水彩画を滲ませて台無しにしてしまった。だが、珈琲のおいしさを知ることが出来た龍一はこの日を境に珈琲を飲むようになった。のちの龍一の珈琲好きはこの時に始まったのだ。


父親が眠ったのを確認すると、煙草を吸ったりもした。吸い込むたびに肋骨に痛みが走ったが、それが逆に気付けにもなった。こんなに作品作りにのめり込んだのは初めてだった龍一は疲れを感じることなく描き続けたが、身体は正直だったので珈琲や煙草で自ずとストレスを解消していたのだった。倒れる様に眠りに落ちたこともある、指の皮がめくれて血を出したこともあり、絆創膏を貼って描き続けたが、滑るので感覚が上手く取れず線に影響が出るので絆創膏を剥がし、治りかけた指の皮がまた剥がれて血を流した。痛さもあったが、それを勝る楽しさが今の龍一を支えていた。


自分をゴミの様に捨てた生みの親、好きだった女の子との死別、心無い虐めの連続、自殺してしまったクラスメイト、理不尽な怒りをぶつける父親と母親、そしてやっと出来た仲間の裏切り、色んなことがあり過ぎて、それらの傷は中学二年の龍一にはあまりに深く、ずっとずっと孤独が付きまとい、何度も心が割れて砕け散りそうなギリギリを今保っているのは、やっと見つけた「絵を描く事の楽しさ」だった。


3ヵ月経ったある日の事、父親が『痛みが無いのならそろそろ学校へ行ってみないか』と話しかけてきた。鬼の様な父親がよくこの3ヵ月間ブチ切れる事無く見守ったものだ。実は龍一の怪我を医者から伝えられた時、肋骨のヒビの他にも身体中の痣や傷を見てショックを受けたのだった、怪我をしていない場所を探すのが難しい程ボロボロだった龍一、本当にリンチを受けていたのだと知り、話しを聞かずにぶっ飛ばしてしまった事を後悔していたのだ。


雰囲気の違う父親の申し出を聞き『うん、明日からでいい?』と聞くと、父親は『無理しなくて良いからな』と答えると、仕事に向かった。


翌朝内心行きたくはなかったが学校へ向かった。玄関ではクラスメイトが『大丈夫か?』『もういいの?』『無理しないでね』と声を掛けてくれた、社交辞令だろうとは思いつつも悪い気はしなかった龍一。でも湯中の金獅子のダチだから何されるかわからないと言う恐怖から、腫れ物に触らないように接しているのかな?とも思ったりもした。


『龍一』


中村と花田がそこにいた。


『あの時はごめん、俺たち怖くて…』


龍一は勇気を振り絞って無視をした、勇気を出して無視と言うのも不協和音の様なスッキリしないおかしな響きだが、『気にしてないよ』と言ってしまえば直ぐにまた仲間に戻れると言う選択肢を切り捨てるのだから、勇気が必要だったのだ、いや、勇気ある決断なのだ、殴ってもいい、罵声怒声を怒りの赴くままにぶつけたっていい、だが龍一は無視を選んだ、裏を返すと精一杯の龍一の優しさの表れでもあった。孤独、また孤独になるのが怖かった、少しでもまだ仲間と繋がっていたいそんな思いもどこかにあったのだろう。


『無視すんなよ!どうせお前だって逃げようとしたんだろ?』


戦っている龍一の心に一刺ししてきたのはタカヒロだった。


『逃げりゃよかったじゃん、たいしたことないのに3ヵ月も休んで恩着せがましい』


『逃げようとしたよ!でも逃げた後にお前らが来たら卑怯者になるから逃げなかったんだよ!』ついに龍一は我慢の限界を超えてしまい、タカヒロに怒りをぶつけた。


『金獅子を追い返したヒーローは龍一、先輩たちのリンチに仲間の為に一人で耐えたヒーロー龍一、たいしたもんだよ、学校中の噂だぜ?気分はどうだよ、最高だろ?カッコイイ龍一くんよ!』


『おい、タカヒロ!言いすぎだろ!』

間に入って止める中村と花田を押しのけタカヒロが前に出ると龍一に掴みかかって言葉をぶつけた。


『結局お前はそうやって人を踏みつけにして登っていくんだよ!』


『何言ってんだタカヒロ!俺はお前らが絶対来ると信じてリンチの最中でもずっと待ってたんだぞ!お前らなら絶対来るって!』


『はぁ?ほら出たまたヒーロー気取り』


『タカヒロ言ったじゃねーかよ!仲間のピンチには必ず駆けつけるって!』


『気安く名前で呼ぶんじゃねぇよ!仲間じゃねぇから行かなかっただけだ!』


『なんでだよ!なにが気に入らねぇんだよ!』


『うるせぇ!』


『中村も花田も同じ意見なの?』


『ごめん、龍一に関わるとろくなことが…正直怖くてさ…』


『あんなに楽しかったのに!仲間だと思ってたのに!』


『そう思ってたのはお前だけだよバーカ…』

決定的な一言をタカヒロが言い放ってしまった。


3人は龍一の前から去り、教室へ向かった。唇から血が出る程悔しくて噛みしめた龍一、教室へ入るとクラス全体がヒソヒソしている、小学生の頃に感じたあの孤立感を感じた龍一がふと黒板に目をやると「桜坂に関わるな」と大きく書かれていた。ヒソヒソ声を背中に受けながら黙って黒板に書かれた文字を消して自分の座席を目指すと、机には花瓶が置かれていた。


『幽霊じゃね?』『幽霊だ幽霊』『こわーい』


伝統的な嫌がらせだが、机に花を飾られているのは心に刺さるほどダメージの大きいものだった。1時間目が始まる前に校内放送で『2年C組桜坂、職員室へ来なさい』と呼び出しがあった、席を立って教室を出るまで背中にはヒソヒソ声がグサリグサリと突き立てられた。


職員室に入り担任のもとへ辿り着いたと同時に後ろから生活指導の小田切先生のビンタを受けた、クラクラしていると担任の野呂先生から右頬にビンタを受けた。『お前他校の不良と付き合いがある上に、先輩たちと喧嘩したんだってな!』そう言うと野呂先生に突き飛ばされ、靴を脱いでその靴の踵で何度も頭を殴られた。それが終わると小田先生に代わり、胸ぐらを掴まれて『どうなんだ?』ピシャーン!『どうなんだ?』ピシャーン!と質問ビンタを何度も何度も繰り返された。頬が熱く、腫れているのが殴られながら分かった、全部ほぼ真実なので『はい』と答えると『バカ野郎!』と怒鳴られてまた殴られた。


教師による地獄の様な体罰は15分程続き、『家に連絡するからな!帰れ!』と怒鳴られて解放された。後ろからのビンタで鼻血が出ていたが、どうでも良かった龍一はクラスに鞄を取りに行くと鞄は無かった。クスクスと言う笑い声で何となく察したのでゴミ箱を見ると鞄は無かった、周囲を見回すと教室の奧の水飲み場に置いてあり、3本の蛇口から水がジャバジャバと鞄に降り注いでいた。水道を1つづつ止め、水分を含んで3倍くらいに重くなった鞄をたすき掛けにすると、ゲラゲラと笑う声を全身に浴びながら教室を出た。


『平気だ、どうせ俺は幽霊なんだから』


帰り道、それでもやっぱり悔しくてブロック塀を左手で何度も殴った、血が出てドロドロになった左拳。でも右手だけは使わなかった、何故なら龍一には絵を描くと言う強い思いがあったからだった。


『前向いて歩かなきゃ、前向いて、前だけ向いて歩くんだ』


左手からダラダラと血を流しながら家に帰った。

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