川べりの男
オレンジの金平糖
川べりの男
川べりに野放図に広がる背の高い草を、風は薙ぎ倒し進む。地面に這いつくばった草たちが起きあがろうと抵抗するも、結局努力は虚しく、ひれ伏したままだった。
そこに一人男がいた。男は待っていた。長いこと待っている。
「——あと三十分もすればくるか」
男は右腕の服の袖を少しめくって時計を見た。
男はこれまでに何度も自分の在り方に疑問を抱くことがあった。同時に、それを見て見ぬふりすることの重要性を理解していた。そうしているうちに疑問を抱くことさえなくなった。いや、疑問や反抗心、全ての雑念を押さえ込んだ状態が無意識のうちに保たれるようになっていたのかもしれない。
なんにせよ、それらは昨日まではのことである。
「あれ、え? 佐々木? 佐々木将也……?」
その声が自分に向けられたものだと悟り、男が振り返ると、自転車を横に連れた青年が男の方を見て立ち止まっていた。男は青年の格好を一瞥して、再び背を向けた。
青年はどこか焦りを含んだ声でもう一度尋ねる。
「あの、人違いですかね?」
男は面倒くさそうに「さあ、どうだか」と背を向けたまま返した。青年が拍子抜けしたように、自転車のハンドルを握る手の力を弱めた。その隙を見逃さなかった風は彼から主導権を奪い、自転車を倒した。
金属とプラスチックを混ぜたような安物らしい音が汚らしく散る。青年は「すみません」と自分に言い訳するようにつぶやいて自転車を起こそうと腰をかがめた。
「少なくとも俺は違うと思うが」
それは特別大きな声というわけではなかったが、風の隙間を縫ってあたりにこだました。男に青年がその意味を理解する暇を待つ気はなく、青年が顔を上げて何か言おうとする前に足元にあった石を気怠げに蹴って川へ落とした。わずかな水滴と鈍い音が上がる。青年は言葉を発するタイミングを見失い、男の背に軽く頭を下げて去って行った。
「原田さんのとこの子じゃない! 覚えているかしら、ほら、向かいの家の」
男は声の主に露骨にうんざりした顔をして見せた。スーパーの買い物袋を二つ腕にかけた高齢の女で、彼女の無駄に明るい声が男の耳を詰まらせる。
「覚えてないな」
冷たくあしらわれたと気がつかないのか、彼女はビニールの袋を揺らしながら楽しそうに答えた。
「あらほんと! あたしはまだおぼえてるんだけどねぇ」
「そもそも原田さんのとこの子じゃない」
あらあら、と女は頬に手を当てた。ただ、彼女にとっては既に、男が「原田さんのとこの子」である必要性がなくなっていたらしい。今度は買い物帰りに出会った人として男と話を続ける気だった。今の彼女にとって原田さんのとこの子は最も安全で、思い入れがあったにすぎず、珍しいことに、この場においてそれは重要事項ではなかったようであった。
男にはそれが不憫に思えた。
男が意味もなくビニール袋に目をやれば、袋越しにオクラの種が一袋透けて見えた。
「オクラが実るのが楽しみだそうだぞ。あんたの孫は」
女は目を見開き、眉を寄せ、それから静かに笑みを浮かべた。
「そうね、あなたは『原田さんのとこの子』じゃないわね」
男は面倒なことになったと頭をかいた。しかし男の心配も杞憂に終わった。
「あたしの孫はね、オクラが嫌いなのよ。——あなたは原田さんのとこの子じゃないわ」
女は男の目の前から立ち去って行った。
「ああ、少なくとも俺は違うと思う。……あんたもそう思うんだな」
男はおかしそうに、ほんの少し安堵した様子で言った。風がそれをさらう。女に届いたかどうかを気に留める者はこの場にいなかった。
「よしゆきくん? よしゆきくんなの?」
学生服を着た少女だった。長い髪を後ろで一つにしばり、首に巻いた赤いマフラーに口元まで顔を埋めていた。
男は視界の端で少女の持っていた楽器のケースを捉えた。ケースには細かい傷がたくさんついていて、埃を被ったのとはまた違った汚れ方をしていた。
男は少女の急かされたような声を無視して時計を確認した。後十分弱といったところか。
「よしゆきくん、ヴァイオリン、拾ってきたんだよ。……ほら、これ!」
少女の目が潤んできたところで、ようやく男は言った。
「よしゆきくんとやらに何を求めてるか知らないが、少なくとも俺はそいつじゃない」
少女は、でも、だって、と口を動かした。収まりきらなくなって追い出された涙が一筋、頬を伝ってマフラーに吸い込まれる。
「そっかぁ。そうだよね」
男は何も言わなかった。それは、面倒だとかではなく、少女が他の誰より聡いことに気がついたからだった。
「よしゆきくんの代わりにして申し訳ないんだけど、一言だけいいかな……?」
少女は男がそれになんと答えたとしても言い切っただろう。それをわかっていたから、男はかすかに顎を引いた。
「救われてたよ、本当にありがとう」
なだめるように風が吹く。
彼女はきっと、この先でよしゆきくんに会えると思っているのだろう。男は無言を貫いた。
少女は去っていった。
「随分待たせたみたいだね」
長いこと待っていた。何十年か、何百年か。たとえ一日二日だとしても、何百年、何千年の重みがあった。
「長いことお疲れ様」
「……俺は今、何に見える?」
言いたいことはたくさんあったはずなのに、男の口から最初に出てきたのはそんな言葉だった。彼女は穏やかに言った。
「大丈夫。君に見えるよ」
時計は残り三十秒を表示していた。
「終わりが見えてから、突然気味悪くなったんだ。俺は親友だった自転車事故の相手でも、認知症に抗えずに忘れてしまった愛する孫でも、いじめから救ってくれた同級生でもない。それなのに俺は彼らにとって俺でもない」
時計の表示は残り十五秒を切った。
「……悪い。今日は仕事をしなかったんだ」
彼女はそっと首をふった。
「最後まであなたは立派だったよ」
残り五秒。
「罪は償えたか?」
「そうですね」
彼女は肯定も否定もせず、相変わらず微笑んだままだった。
「最後に会えたのがお前でよかっ——」
風が吹いた。川べりには一人の女が立っていた。
「私もまた、あなたの想い人ではありませんよ。仕事はきちんと引き継ぎますから安心して川の水になってくださいね」
女は川に向かって静かに手を合わせ、次にここへくる人を迎える準備を始めた。
川べりの男 オレンジの金平糖 @orange-konpeito
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