ママ2年

あべせい

ママ2年



「ママー、ママー」

「はいはい、お水ね。ゆっくりごっくんするのよ」

 わたしは、和室に駆けつけ、ベビーカステラを頬張っていたみつぐの卓の前に、グラスに入れた水を置いた。いままでは、娘の口にグラスをもっていって飲ませてあげたが、前回みつぐは自分で飲むとアピールしていた。

 わたしは娘の成長がうれしくて、多少不安があっても、娘のアピールは積極的に受け入れている。

 みつぐはこどもには大きすぎるグラスを両手で持ち、あぶなっかしそうな手つきで口に運ぶと、なんとか一口二口、飲むことができた。

 昨日、娘は2才の誕生日を迎えた。それなりに彼女の人格は認めてあげたい。娘が2才になったということは、わたしのママ歴も2年になる。

 でも、近頃のみつぐは要求が多すぎ、手に負えないことがしょっちゅう。

 1日おきに出かけるスーパーでは、まずアイスをねだられる。

 アイスクリームは高いものではないから買ってあげたい。しかし、娘の体を思うと、無添加のアイスにしたい。無添加アイスは、通常の倍以上もする。だから、いつもとはいかない。それに、その場で食べさせるのには抵抗がある。こぼして服を汚してしまうからだ。

 買う買わないが治まると、アイスを家に持って帰ることを納得させなければならない。

 それを乗り越えても次に、1個だけ買うことに、こんどはわたしが引っかかる。

 スーパーから自宅まで徒歩で10数分かかるから、冬でもドライアイスが欲しい。ドライアイスは無料だが、1個の250円のアイスにドライアイスを求めることに気が引けるのだ。

 お店に申し訳ないといえば聞こえはよいが、わたしはなぜ遠慮するのか、自分でもよくわからない。生い立ちのせいか、27年間生きて身に着けた、くだらない価値観なのか。

 だから、どうしても、親子3人分買うことになる。夫はアイスが好きだが、わたしは……、

 ピンポーン。だれか、来たッ。

 わたしは、このチャイム音が大嫌いだ。こちらの都合を全く考えずに鳴る。電話も同じだが、電話は夫からもかかるから、無視したくない。

 玄関チャイムは無視したいが、家が小さいから音は外にも響く。近所の手前がある。わたしは重い腰をあげた。

「なんでしょうか」

 ドアの外に見たことのない老人が立っている。頭髪が真っ白で、顎一面の無精ひげも真っ白。素足にサンダル履きだから、この近くの人だと想像はつくが、見かけたことがない。もっとも、わたしは買い物以外、滅多に出歩かない。

「私はこの地域の班長しとる古場(こば)だけど、来年度から班長をやってくれんね」

 エッ!? わたしの口は、何か答えようと開きかけたまま、凍り付いてしまった。開いた口が塞がらない、ということばがあるが、呆れてものが言えないという意味らしく、この場にはふさわしくない。このときのわたしは、呆れてというより、藪から棒の申し出に、思考停止の状態に陥った。

 黙っていてはいけない。早く返答しなければ、という思いはあるものの、うまい言葉が出てこない。

 で、焦った末に、

「できません」

 と、言った。

 わたしたち家族の家は、アパートとの仕切りのブロック塀を取り囲むように、「コ」の字型に並ぶ4戸の建売住宅の一軒。表通りから数えると、2軒目になる。

 私道から石段を二段あがって、我が家の玄関ドアがあるから、玄関の敷居に立つわたしは、私道の古場老人を半メートル近く下に見下ろす形になり、優位に立っている気がする。

「できません? 決まりなンだけどな」

 決まり? なに言ってンのッ、このジジィ!

「こちらに越してきてまだ半年です。何もわかりませんから」

「簡単なことだよ。町内会費を集めて、あとは町内掃除のときや祭りのとき……」

「決まりってなんですか。何も聞いていません」

「一度は班長をやる決まりだよ。みんなやっとる。新しいひとも半年たったらやってもらっとる」

「できませんから。お帰りください」

 わたしは何か言おうとしている古場老人を無視して、ドアを閉めた。

 そして、思った。この4戸の建売住宅の中で、うち以外は全員、班長たらをやっているのだろうか。

 右隣のKさん、表通りに接している唯一のお宅だが、越してきてまだ3ヵ月だから、あの老人のいう規則、半年には達していない。班長の義務から免れているのだろうか。

 しかし、左隣の2軒、МさんとTさんは、うちが越してきたときすでにいたから、規則からすると、すでに班長をしていなければならない。

 確かめてみるか? しかし、うちと接しているМさんは何をしているひとなのか、全くわからない。Tさんは、我々建売住宅の私道と平行に立つアパートとの間を、1メートル弱の低いブロック塀をまたいで行き来する、女の慎みを知らないバカ女だから、余計な話はしたくない。

 夕方近く。

 夫が帰ってきた。

 わたしの夫は、きょうが初出社。新聞の求人広告でみつけた東銀座の会社に面接即採用されたというから、あまりたいしたところではない。仕事は営業。セールスだといっている。

 二流の私大出だから、わたしはもともと期待はしていない。もっともわたしも高校中退。学歴をとやかくいえる立場ではない。

 ただ危険な仕事は困る。給料は安くても、規則正しく出社して、帰宅してくれることだけが望みだ。

 夕食後、夫に班長を頼まれたことを話してみた。

「あァ、あの家か」

 夫は古場家を知っていた。駅に行く道とは反対方向に数分行った角の古い大きな家だという。

 わたしは滅多に歩かない道だから知らなかったのだろう。この一帯は10数年前住宅地として開発されたのだが、古場家は元々の住人に違いない。

「怒って帰ったのか?」

 わたしが頷くと、

「ほうっておけ。また文句を言ってきたら、おれがあの家に行ってくる」

 頼もしいことを言うが、本当だろうか。

 夫は俗にいう優男だ。体もわたしと同じ小柄だし、ケンカのできる人間ではない。第一、夫がそんな暴力的な男なら、つきあってはいない。

 ケンカなら、むしろわたしのほうが……。やめておこう。昔のことだ。夫も知らない……。

「会社、どう? うまくやれそう?」

 わたしはそれほど心配はしていない。合わなければ辞めればいいのだ。親子3人食べるくらい、わたしにだってやれる自信はある。

 夫と知り合ったのはウクレレ教室だった。週に1度通い、ウクレレバンドを率いているという60代の先生の指導で、初歩から教わった。

 わたしは当時、お客の間では「美人喫茶」と噂されていた喫茶室のウエイトレスをしていた。ウエイトレスが10数名いて、全員が「美人」ではないだろうが、それなりに化粧をほどこし、各人素顔がバレないように気を遣っていたことは確かだ。わたしを含めて。

 なぜウクレレだったのか? 時間をもてあまし、何か趣味を持ちたいと思っていた。田舎から単身上京するとき、たった一人の兄から餞別代わりにもらったウクレレが、アパートの押し入れにあった。

 それと、ウクレレ教室が、職場と自宅の最寄り駅を結ぶルート上の乗換駅から、徒歩数分の距離にあったことも大きい。

 しかし、1ヵ月通ってから失敗だったことに気づかされた。

 習っても練習ができないのだ。ウクレレはギターほどではないが、音が出る。当たり前のことだが、狭いアパートで窓を閉めて弾いても、ウクレレの音は外に漏れる。

「いま何時だと思っているンですかッ!」

 ベッドに入り譜面を広げ、習ったところを弾いていると、隣の学生から注意された。

 彼は、わたしの部屋のドアをノックして、それだけ叫ぶと引き下がった。

 時計を見ると、午前一時を過ぎていた。自宅で練習したのは、それが4度目だったろう。彼もそれまで我慢していたのだと思う。

 楽器の練習はアパートではしてはいけないのだ。注意されて初めて気が付くのだから、わたしも能天気といわれても仕方ない。

 ウクレレは好きで始めたわけでもなかったから、決断は早かった。

 翌月にはやめようと決心して、最後の講習を受けた帰り道、いきなり夫から声をかけられた。

 夫はわたしが通うより前から教室にいたが、わたしはそれまで彼のことは全く意識になかった。生徒は5、6名いて、男は夫1人。珍しい、変わったひとだなと思っていた程度。

 それがいきなり接近され、正直戸惑った。

 夫の誘いは、ありふれた「お茶でも……」だった。

 わたしは1度は拒否するものと決めていたので、「これから予定があります」と言って断った。

 すると、

「きょうで最後でしょう。もう会えなくなります。ぼくもきょうで教室はやめます」

 と、夫は一気に言った。

 わたしはその日でやめることは講師以外にはだれにも言ってなかった。親しい生徒もまだできていなかったから。

 夫はどこから知ったのだろう。わたしはそんなことを考えながら、次の夫のことばを待った。

「じゃ、明日。でなければ、明後日はいかがですか?」

 わたしはもったいをつけるのは嫌いだ。

 で、このひと悪いひとではなさそうと感じながら、

「お茶だけなら……」

 と、承知してしまった。

 それからデートを重ね、3ヵ月後に結婚。2人で見つけた隣県のアパートの2DKを新居とした。

 一年後にみつぐが生まれたが、その頃夫の父が亡くなり、その相続で夫にまとまったお金が入った。

 夫は一軒家がいいと言い出し、夫のお金を頭金に、15年ローンを組み、いまの建売を買った。

 わたしは不満だった。一軒家で3DKしかなく、田舎の広い家で育ったわたしには狭さばかりが目立った。しかし、夫のお金をもとに買ったのだと思うと文句も言えない。

 夫は隣県から転居するにあたり、それまで勤めていた隣県の会社をやめてしまった。仕事は、なんでもよければ、いくらでもある。わたしは反対しなかった。

 いまの会社に入るまで夫は半年ほど無職だったことになる。雇用保険とわずかな貯えで、生活には困らなかった。

 わたしも夫も、お金にはあまり頓着しないほうで、なければないで我慢して乗り切ればいいという考えだ。この点が一致しているから、わたしは夫と一緒になったのかもしれない。

 わたしは夫を、俗にいう「愛している」のだろうか。言葉では言えても、その中身だ。「好き」だと思ったことはある。しかし、好きということでいえば、夫より娘のほうが何百倍も好きだ。危機に陥ったとき夫と娘のどちらかを選べとなれば、わたしは迷うことなく娘を選ぶ。

 元々、わたしは、結婚や恋愛に対して、好ましい形やイメージを持っていなかった。好きな男のタイプはあるが、それが現実的ではないことも知っている。

 こういう私の性格は結婚にはふさわしくないかも知れない。が、いまは世間並みの結婚生活を送っている。

 いま隣の布団で寝ている夫は、わたしのこんな気持ちを知らないでいるだろう。わかって欲しいと思うが、わからなくても仕方ないという思いも、どこかにある。

 あっ、みつぐだ。隣の四畳半で寝ているみつぐがうわごとを言っている。3人で川の字に寝てもいいが、それだと独立心が育たないと夫も言ったのでかわいそうだが、ひとりで寝かせている。

 早く、行ってようすを見ないと。ひきつけを起こしたことがあるのだから。

 わたしは、布団を跳ね上げ、隣に急いだ。


「ママーッ、イヌさん、イヌさん」

 みつぐが駆け出した。どこかのひとが犬のリードを離したらしい。小さなテリアが公園から飛び出してきた。首からリードが伸びている。

 みつぐは表通りに向かって駆ける犬を、追って走る。夢中だ。いまにも転びそうなほどぎこちない動きだが、懸命に手足を動かしている。

 あぶないッ。わたしは咄嗟にみつぐを追っていた。

「みつぐッ!」

 表通りの歩道で娘に追いついたわたしは、あとに続けることばを飲み込んだ。

 歩道では、2匹のテリアがうれしそうにじゃれあっていた。1匹は、娘が追っていたリードをひきずったままのテリア。もう1匹は、先日までリフォーム工事をしていた家の前で、若い女性がリードを引いていたテリアだ。

 リフォームをした家の門扉には「樫原」の表札がある。

「ママ、ママ」

 みつぐは2匹のテリアを指さし、満面の笑みを浮かべている。

 と、リードを離したと思われる学生風の男性が現れ、

「ジョージ、勝手に走ったらダメだろう」

 と言い、リードを拾い上げると、スマホを見ながら立ち去った。わたしや樫原夫人には、全く関心を示さないで。

 みつぐは残されたテリアに一歩近寄り手を差し伸べているが、テリアが激しく吠えるので、手を引っ込めたり伸ばしたり。

「マミィ、ダメでしょ。ごめんなさいね。慣れないひとには警戒心が強くて」

 樫原夫人はそう言ってリードを短く持ち、門扉を開いて、テリアを中に入れた。

「こちらに越して来られたのですか」

「先週。よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 互いに会釈して、わたしは樫原夫人と別れた。わたしより10才ほど若いから、新婚かもしれない。家は、うちのような建売ではなく、表通りに面し、門扉から玄関まで3メートルほどあり、一面に芝生が植わっている。

 でも……、わたしは不思議な気持ちがした。社交的でないわたしがどうして声をかけたのだろう。樫原家は先月までリフォーム工事をしていた家だ。入居者がいるのだから、転居してきたことは見ればわかる。

 夫人はテリアを抱き上げると、玄関ドアを開け、中に消えた。

 わたしは彼女の顔に親しみを感じたのは確かだ。それで言わずがもがなのことを言った。しかし、それだけだろうか。

 みつぐは、彼女とテリアが入った玄関をまだ見つめている。

 このところ、みつぐの犬好きは異常なほどだ。犬だけではない。猫も小鳥も。見かけるとあたりかまわず駆け寄り、触ろうとする。

 うちではペットは飼っていない。夫もわたしも、犬猫は苦手だから。でも、小鳥ならいいかも。わたしはこんどの日曜に、ペットショップに行こうと考えた。


「ピーちゃん、ピーちゃん!」

 みつぐがケージのなかの白い小鳥を指さし、夫に訴えている。

 白い十姉妹で、値段も手ごろだ。しかし、小鳥だけを買うわけにはいかない。鳥かご、餌、水や餌を入れる容器なども購入すると、かなりの出費になる。それに第一、だれが世話をするのだ。餌の補給や水の交換はわたしでもやれる。しかし、手間のかかる糞の始末は? 

 昨晩、それで夫とひと悶着あった。

 わたしは餌の補給と水の交換は承知した。みつぐが喜んでくれるのなら。わたしから言い出したことでもある。仕方ない。でも、糞の処理はわたしはやったことがない。

 夫はこどもの頃、生家で小鳥を飼っていたと言った。

「だったら、あなた、やって。わたしは家事が忙しいから」

 夫は、

「それくらい、やるよ」

 と、簡単に請け合った。

 そのとき、わたしの脳裡に不安がよぎった。

 浴室の掃除も4度に1度しかやらない夫が、本当にやってくれるだろうか。

「あなた、信用しないわけじゃないけれど、もし約束を破ったら、どうする?」

「どうすると言われても……」

「土日はわたしの代わりに掃除機をかけてよ」

「エッ、土曜と日曜? 続けてやる必要があるのか?」

「なに言ってンの。わたしは毎日やっているの!」

「そうだろうけれど、2日続けてやるのは……」

「いやなら、明日、みつぐに怒られるわよ。小鳥を飼うのはキャンセルだって、あなたから言って」

 夫はそれで折れた。

「みつぐ、雄と雌のつがいで飼ったほうがいいから、もう一羽、お店のひとに選んでもらおう」

 素人に十姉妹の雄雌の区別はできない。

 夫は店員を呼ぶため、ケージの前を離れた。

 ショッピングモール1階のペットショップだ。

 このモールに来るのはどれくらいぶりだろう。昨夜、夫が、ペットショップなら、このモールにしようと言った。車で20分ほどかかるが、夫がこのモールにしたわけは、いろいろ買い物ができる、久しぶりに見たい店もあるから、と。

 わたしに反対する理由はなかった。ふだん行くスーパーより広くて、みつぐも喜ぶ。自宅の最寄り駅の前にあるスーパーにも小鳥を扱うショップはあるが、どうせならモールのほうが、と決めた。

 半年以上来ていなかった。わたしは車の免許を持っていない。車は軽のワゴンタイプ。夫は普通車を欲しがったが、狭い家の一階に車庫があり、狭い私道を通るため軽でないと車庫入れができないのだ。

 フードコートでお昼をすませ、あとは夕食の食材を買って帰るだけ。きょうは時間がないから、みつぐの好きなハンバーグに、わたしと夫はお刺身にしよう。

「イヌさん、イヌさん!」

 みつぐがペットショップの棚の間を走り出した。このショップには犬も猫も扱っている。犬を見せれば、みつぐが犬がいいと言うに決まっている。だから、犬が見えないほうの入り口から入ったのだが……。

「みつぐ、待ってッ、小鳥、買うのでしょッ」

 わたしは角を曲がった娘を追った。

「イヌさん、パパ、パパ……」

 エッ、犬にパパ? わたしは通路の角を曲がってそこに広がる光景に唖然となった。

 犬のケージのまえで男女が並んでしゃがんでいる。そこへ走り寄るみつぐ。男がみつぐを振り返り、その視線が娘からわたしに来た。

 男の目は明らかにうろたえている。

 わたしは男の隣にしゃがみ、犬に釘付けの女を見る。樫原夫人だ。男は、無論、わたしの夫。

 わたしを見て、夫は立ち上がる。夫人は夫の動きは無視して、犬に夢中だ。

「この犬がかわいくて……」

 夫はぎこちない笑顔をみせて、そう言った。

「イヌさん、イヌさん、パパ、パパ、かおう!」

 知らないわよ。みつぐがヒステリーを起こす。

「あなた、どうするの?」

 わたしは穏やかに言った。夫人の手前だ。

 夫人がようやく立ち上がり、わたしを見た。そして、驚いた顔をして、

「あら、こんにちは。こんなところで……」

 夫は夫人からわずかに離れた。それでも、2人の間は50センチほど。

 2人は偶然居合わせた知らない者どうし?

 わたしは、

「この前は。うちの夫です。あなた、こちらご近所の樫原さん」

 わたしは2人を紹介した。

 すると、夫は、目を見開き、心底驚いた表情で、

「ヘェーッ、そうだったンですか。それは失礼しました」

 何が失礼なのか。

「わたしのほうこそ、存じ上げませんで……」

 2人は、互いにちょっと会釈した。

 しかし、わたしの脳裡には、2人が肩を寄せ合い、親し気に話をしていた姿が焼き付いている。 

 たまたまこの店で犬に引き寄せられた男女が、ケージの前で語りあっていた、って? 第一、夫はこどもの頃、犬に太腿を噛まれて以来、犬は大の苦手だとわたしに話してくれた。あの話は、ウソなの?

「奥さん、テリアは?」

 夫人は犬を連れていない。

「病気で、いま病院に預けています」

 彼女は運転ができるのだろうか。彼女の夫は?

「ご主人は、ほかでお買い物ですか?」

 わたしは踏み込んだことを尋ねた。ここははっきりさせておく必要があると思ったからだ。

「夫は……」

 夫人はわたしの夫をチラッと見てから、

「きょうは仕事で、出かけています」

「日曜もお仕事ですか。それはたいへんですね」

 わたしは彼女のやさしそうな瞳を見つめながら思った。男なら、声をかけずにいられないだろう。スタイルもいい。胸のラインも魅力的だ。

 夫が留守だから、ひとりでショッピングモールに出かける。わたしには出来ないことだ。みつぐと一緒ならいいが、たったひとりで、モールのひとごみはごめんだ。買い物なら、もっと近くですます。

 でも、彼女はそうではない。それとも、約束があったのか。わたしに、このモールにしようと言ったのは、わたしの夫だ。夫はペットショップに来るまで、腕時計をよく見ていた。その理由がわかった気がする。考えすぎだろうか。

 その夜。

 寝室で鏡に向かって顔の手入れをしていると、パジャマに着替えた夫が後ろから来て、鏡の中のわたしに話しかけた。

「ピーコもピーちゃんも元気にしているぞ」

 ピーコは雌の十姉妹、ピーちゃんは雄だ。鳥かごに入れ、とりあえず1階和室のチェストの上に置いた。

 みつぐは、ペットショップで夫と樫原夫人が仲良くしゃがんで見ていたテリア、正式名称は「ジャックラッセルテリア」を飼いたいと言った。しかし、わたしは値段をみてしり込みした。夫の1ヵ月の給与とほぼ同じ。

「このワンちゃんを買ったら、みつぐのアイス、なしになるよ」

 わたしはそれで、娘を納得させた。

 そのとき、樫原夫人のテリアも同種だと気が付いたので、

「会いたくなったら、マミィがいるでしょ」

 と言った。マミィは、夫人が飼っているテリアの名前だ。この前、聞いたばかり。

 すると、

「エッ、わたし?」

 と、樫原夫人が敏感に反応した。

 夫人の名前が「樫原麻未」といい、彼女の夫が愛犬と同じ名前をつけたそうだ。

「わたしはいやだと言ったのだけれど……」

 夫人はそう言い、恥ずかしそうに顔を伏せた。夫は、その彼女のしぐさに、まるで恋人を見つめるようなやさしい目をした。

 わたしはその一点で、2人が以前から知った間柄であると確信した。

 わたしが鏡の中の夫をチラッと見たきり黙っていると、

「いいから、早く、来いよ」

 夫の「来い」の意味は、わかっている。

 昼間、興奮したから? バカにするンじゃないわ。

「あなた、樫原さんとは初対面だったの?」

 布団に入り、スタンドの明かりで本を読んでいる夫は、

「あァ、初めてだった。ご近所のひととは知らなかった」

 と、淀みなく答える。

 本当かしら? 見ず知らずの男女が、ドッグケージの前で肩を寄せ合い、おしゃべりするかッ。

 わたしは、今夜は拒絶と決めた。


「どうも、よろしく」

 公園の角を曲がると、聞き覚えのあるしわがれた声がした。

 歩道に出ると、やはりあの古場老人だった。

 肩をすぼめ、腰をかがめながらやってくる。

 わたしに気が付いたが、黙っている。

「こんにちは」

 わたしはしたくもない挨拶をしたが、相手には無視された。でも、これで「班長」の件はクリアだ。わたしはそう思った。

「マミィ、マミィ」

 みつぐが駆け出した。

 樫原家の前で、麻未夫人が愛犬を連れて門扉から出てくるところだった。

 彼女は気配に振り向き、

「こんにちは」

 わたしも、

「こんにちは。先日は、娘にありがとうございます」

 と返した。モールで会った際、別れ際に彼女がバッグにしのばせていたチョコレートをわけてくれたのだ。ベルギー製の、見るからに高価そうなチョコだった。

「マミィちゃん、マミィちゃん」

 みつぐは、夫人の足元にいるテリアにこわごわ呼びかける。前回吠えられたことが気になっているらしい。

 しかし、マミィはみつぐを見知ったのか、うれしそうにじゃれつく。

「みつぐ、チョコのお礼は」

「マミさん、アリガトごじゃいます」

「どういたしまして。お利口ね。みつぐちゃんは」

「はい、ソウデチュ」

 わたしは麻未夫人と顔を見合わせて大笑いした。

 彼女も同じスーパーに行くというのでわたしは並んで歩きながら、気になったことを尋ねてみた。

「さっき、古場さんがおみえじゃなかったですか?」

「コバ!? あッ、古場さん、ええ。班長をやってくれないか、って……」

 やっぱり……。

「承知なさったのですか?」

「いいえ。とりあえず、『考えてさせてください』って」

 そうだろう。断ったほうがいい。

「わたしもお話をいただいたンです。でも、きっぱり断りました。越してきて、まだ半年もたたないンですから」

「わたしのほうは……」

 麻未夫人は、口ごもりながら、

「たいへんなンです。夫が家のローンの組み方を間違えたようで月々の返済が……」

 夫人はそこで決心したのか、堰を切ったように話し出した。

「それだけじゃなくて、夫の会社が赤字経営で、夫はリストラの最有力候補になって、そこに、夫の女性関係も……」

 エッ、うちと同じ、結婚してまだ3年のはず……。

「どなたかに相談したいのですが、だれもいなくて……」

 心細いのだろう。そこにつけこむ男がいるに違いない。

「班長なんかしている場合じゃないですよね」

 ところが、

「古場さん、困ったことがあったら相談に乗りますから、って……。あの方、このあたりの大地主なンでしょう?」

 知らない。知りたくもない。でも……。なるようになるしかないか。

「マミィ、マミィ」

 みつぐが夫人の手からリードを奪い、マミと並んで歩いていく。

「みつぐ、危ないわよ」

「みつぐちゃん、気をつけて」

 わたしは麻未夫人の顔を見て、

「ごめんなさいね。娘はマミィが大好きなンです。夫も……」

「エッ、ご主人も、って?」

 夫は麻未夫人に岡惚れしている。それをどう防ぐか。夫人は魔性の女かもしれない。いいように操られ、すべてを吸い取られかねない。わたしはこれからそのことに注意して、彼女とつきあわなければいけないだろう。

 マミと麻未、どちらも我が家にとっては、猫に鰹節……。

                     (了)

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ママ2年 あべせい @abesei

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