スニーカー失踪事件

至 香軌

第1話

「あれ?」


 土曜参観の朝、7時45分。ぼくのスニーカーが消えた。


 学校指定のもので、サイズは24センチ。若干汚れてるけど、白地でメッシュ素材のありきたりなやつだ。そんな、中学に入学したら最初に買わされるアイツが、玄関のどこにもいない。

 

 そこにあるのは、かかとの内側が擦れて剥げている焦茶のローファー、新品の黒いウォーキングシューズ、コーナーで差をつけられそうな赤い子供靴、セールで安くなっていたネイビーの婦人靴。狭いスペースで一生懸命に陣取りゲームをしていた。いつもならぼくの色も参戦しているはずなのに。


 母さんが片付けたのか? と、シューズラックを開けてみても……ハズレ。そもそも母さんは、ぼくたちの靴を片付けてくれるタイプではない。実際に「片付けてもどうせ散らかるから」と無駄な労力は使わない発言を前にしていた。


 どうしよう、学校に行けない。


 顔が急に冷たくなって、心臓はバクバクする。壁掛けの姿見鏡には、お漏らしをした子どもみたいな顔のぼくがもう一人立っていた。


 もう一足の指定スニーカーは、昨日の雨にやられてグショグショ。ちゃんと夜のうちから風呂場で乾燥をかけておいたのに、乾かなかった。試しに履いてみたけど、体温で足全体がモワっとする。しかもツンとした酸っぱさが、嗅ごうとしなくても鼻に伝わった。次からは中に丸めた新聞紙も入れておかないといけないな。いつもより臭うかも。


 代わりに普段使いのゴツくてカラフルなハイカットスニーカーを履いていくと、生徒指導の町田先生に淡々と問い詰められるし……。でも、学校に行かないと母さんに怒られるし……。と、唇を噛んで頭をかく。


 朝の会が始まるのは8時半。家から学校まで歩きで30分はかかるから、そろそろ出ないとやばい。間に合わない。


 すー、はー、と深呼吸をし、廊下を抜けてリビングダイニングに向かう。ドアを開けると、母さんと目が合った。


「あのさ、ぼくのスニーカー知らない?」

「あんたの靴はお風呂場にあるでしょ」

「違くて、もう一つのやつ」

「えぇ、知らなーい」

 

 ダイニングの母さんは、クマさんが描いてあるお気に入りのマグカップにお茶を注ぎながら面倒くさそうに体をクニャクニャさせる。姉ちゃんのナツキはヨーグルトにいちごジャムを投入し、じいちゃんは目を閉じて静止していた。父さんと弟のタクミはリビングのソファに座って、口をポカンと開けながらネトフリでアニメを鑑賞中。母さん以外は揃いも揃ってガン無視である。


「姉ちゃん、靴知らない?」

「知らなぁい、見てなぁい」


 姉ちゃんはスプーンで『の』の字を書いている。その適当な返事に、思わずカチンときた。弟が真剣に聞いているんだから、ちゃんと答えてくれたっていいじゃないか。「大丈夫? 一緒に探そうか?」ってちょっとくらい心配してくれよ。


「……本当は姉ちゃんが隠したんじゃないの?」

 

 くしゃり、と姉ちゃんの眉間に一瞬シワが寄る。さらに深くなるかと思ったら、今度は目が細まり、口角が上がって頬っぺたの肉がふくらんだ。

 

「このわたしが、あなたのばっちい靴を触るとお思いで?」

「……いいえ」


 姉ちゃんの『死の微笑み』に負けて、ぐっと言葉を飲み込む。これ以上言うとあとが怖い。自分よりも強い相手には、すぐに負けを認める。それが姉のいる弟の宿命だ。もう話しかけないでおこう。


 母さんが「見た?」と父さんとタクミに改めて聞いても新しい情報はなく、「知らない、見てない」が重なった。


 ため息が勝手に鼻から漏れ出る。もう一回玄関に行って、シューズラックを再確認した。


 ない。やっぱりない。


 そうとわかっていても、もしかしたらあるかもしれない、見逃しているだけかもしれないと思ってしまう。みんなの靴を一つ一つ出しては入れて、出しては入れてを繰り返しているうちに、だんだんと怒りと虚しさが込み上げてくる。動きを止めたら泣き出してしまいそうだ。置く力が強くなっていって、棚の板がガタッ、ガタッと短く声をあげる。


「うるさいって母さんに言われるぞ」

 アニメ鑑賞を終えて用を足しにきた父さんが、静かにするようにと口をすぼめて「しーっ」のポーズを取り、反対の手でジャージの紐をほどく。トイレの電気をつけたタイミングで、ぼくは「ちょっと待って」と呼び止めた。


「靴をどっかにやったの、もしかして父さんなんじゃない?」


 じろりと、下から控えめににらみをきかせる。すると真っ直ぐになったばかりの紐は再び蝶々結びになった。


「どうして俺だと思う?」

「だってさ、毎朝ウォーキングに行くでしょ? その時に靴を隠したんだよね?」

 

 別に、ぼくの靴を隠して得をすることは何もない。正直に言うと、ただの八つ当たりだった。


 父さんの目線が左上に動く。


「いや、俺が今朝出た時にもなかったぞ」  

「……本当に?」と圧をかけても、「おう、本当だ」と揺らがなかった。


 どうやら嘘はついていないっぽい。人間は思い出す時は視線が左上、嘘をつく時は右上に動くって、メンタリストが何かの動画で言ってたから。


「じゃあ誰がやったんだよぉぉぉ」

 じだんだを踏まざるを得ない心理状態、最悪だ。父さんは「地震すご(笑)」と呑気に笑っている。


「実はじいさんが何か知ってるんじゃないか?」

「えー、どうせ覚えてないっしょ……」

「決めつけは良くないぜ、多分な」


 父さんはへったくそなウインクをぼくに見せつけて、ドアノブに手をかけた。


 リビングの時計が不安を煽ってくる。もう8時だ。さすがにまずい、遅刻する。


 じいちゃんに聞いてみても耳が遠くて聞こえてないみたいで、うんともすんとも言わない。だめだこりゃ。やっぱり聞くだけ無駄だったかもしれないな。父さん、マジで許さん。もう母さんにお願いして「今日は休みます」って学校に電話してもらおうかな……。「急にお腹が痛くなった」とか言えば平気かな。


「あんた、まだいたの? 靴なんて履けりゃ何でもいいんだから、さっさと行きなさい! あんたがいてこその授業参観なんだから!」


 ……残念、休めなさそう。母さん、オンラインだけど授業参観楽しみにしてるからな……。ぼく的には小っ恥ずかしくて、見てほしくないんだけどさ。


 って、それどころじゃない。


「何でもは無理だよ。学校のじゃないと怒られる」

「じゃあドライヤーで生乾きのやつを乾かせばいいでしょ⁉︎」

「やだよ、時間がかかるもん」

「それでも靴を探すより早いじゃない!」


 おっしゃる通りだ。もう諦めてそうしようかなという気持ちが、ちょっとだけ頭をよぎる。


 ……いや、さっきまでの探していた時間を無駄にしたくない。しかもモヤモヤしたまま一日を過ごすのは気分が悪い。それに、母さんはもう怒ってるようなもんだから、もっと怒られたとしても大して変わらないや。氷魔法の使い手である町田先生マチルダの絶対零度な尋問と比べたら、ヒヨコちゃんみたいなもんだし。

 

 顔をあげて、深く深呼吸をする。手のひらで両頬を叩いて決意を固めた。


 ぼくは必ず見つけ出す。失踪したスニーカーを。


 どこかに隠した犯人を。

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