3.ろっくなまよらー


 ろくろっくびといえば、行灯あんどんの油を舐めることで有名だ。

 なぜ油を舐めるのかはよくわからない。ろくろっくび自体のモデルは遊女という説が有力だが、油舐めは病気のためだったとか、貧しさを表現していたとかいろいろある。ただ少なくとも、好き好んで主食にしていたのではなさそうだ。


「だいじょうぶ?」


 わたしの額に《伸びるヘッドバット》を命中させたろくろっくびその人が、ソファの背もたれ越しにおそるおそる覗き込んでくる。


 とりあえず買い出し荷物を一時冷蔵庫にしまうよう彼女に指示を出し、わたしはリビングのソファに横たわって額に氷まくらを当てていた。風船を指で押し込んだようなかたちに頭蓋骨がへこんでいるんじゃないかと思えるくらい、頭全体がガンガンしている。意識まで刈り取られなかったことはたぶん奇跡に近い。

 妹の側にはたんこぶ一つできておらず、姉の復讐を恐れて縮みあがっている以外はへいちゃらな様子だった。それは、防ぎようのない日常茶飯事として家の壁や戸棚とよろしくやってきたことからのタマモノで、そうとわかってはいるが、いささかそれで納得したくない気持ちもある。


「延々とくらくらする」

「ケーキ、わたしがしてもいい?」


 心配してくれるのならこの際とことんまでさせてやろうと容態を打ち明けてみたが、妹は姉の代行を買って出ながら声がはずむのを隠し切れていなかった。つくづく理不尽だが、時間も押してきているので渡りに船と言えなくもない。

 今晩食べるものは、来訪者二名が分担して用意すると申し出てくれていた。が、さすがに任せ切りは気がとがめたため、ケーキはうちで焼かせてもらうことになっていた。

 すでにスポンジは前の晩に仕上げて冷蔵庫に入れてある。今日下校ついでに買ってきたのはデコレーションの材料。


「やったこと、あったっけ?」

「ないけど、たぶんできる」


 妹の専門分野は試食だ。

 いつも家にいるなら料理を趣味にすればいいとでも考えるところだが、自分で材料を買いに行けないとあってはそううまくもいかない。昼食をしばしば余りものでなんとかしているため、なにかを炒めたりする程度ならこなれているはずだが。


 しかし、思い直す。妹はいつもわたしや母の隣で料理の様子をじっと眺めつづけてきた。漫然と完成を待ちわびるだけだったにせよ、幾度となく目で追っていたのなら工程が記憶に焼きついていてもおかしくはない。そもそもクリームをホイップして、デコペンを湯煎で溶かすくらい、一度見たことがあればわけはないだろう。よし。


「じゃあ、お願いしようか。わかんなかったら、すぐに呼んで」

「はーい」


 意気揚々、辞令をもらえた妹はダイニングへ飛んでいく。実は常日頃からやってみたいと思っていたのではないだろうか。言ってくれればいつでも参加させてあげたというのに。残念ながらこの姉は過保護なだけでなく、気も利かないのだ。


 軽い自虐に浸りながらソファで寝返りを打った瞬間、得体のしれない悪寒が背筋を走り抜けた。


 恐怖とよく似た異様な感覚。もやもやとした絶望のきざし。

 わたしはソファから弾かれたように体を起こし、居間と一体になっているダイニングの方を見た。


 昨晩焼いて冷蔵庫で保存しておいたスポンジが、ラップを剥かれた状態でテーブルの上に出されている。そのそばの椅子に妹が膝立ちで乗っている。紡錘形ぼうすいけいのチューブを逆さにして両手で捧げ持ち、スポンジの真上で絞ろうとしている。すでに出かかっているチューブの中身はホイップクリームと似たような粘度ではあるものの、うっすらと黄色味がかかっていて、見ただけで酢の香りを彷彿とさせられたから、


 叫ばずにはいられなかった。


「そこのマヨネーズ、ストォォォォォォォォォォッッップ!!」

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