烏羽玉の世に浮かぶ月

天沢薫

第1話 記憶




「さま…あさま…。どこにいるの」


 闇夜に紛れて聞こえる幼子の声に、恐怖で顔を歪める。


「あさま…。かあさま!」


 母と離れた幼子の霊なのだろうか。どこから聞こえてきているのか、悲痛な叫び声が辺りに響き渡る。


 少女は、森の奥から聞こえて来るそんな声に身を震わせていた。この辺りは妖狐ようこが出ると有名な杉林で、夜中に一人歩きをする者など一人もいない。



「父様の言うことをちゃんと聞いていればよかったわ」


 小さな手をギュッと握り、息を潜め、林の奥を見据える。

 すると、杉の木の隙間を何か白い物が走ったのが分かった。もしや妖狐かと震え上がった少女は、その場から一歩も動くことができなくなってしまった。


――ばあやは心配してるかしら…。いやでも、掛物の中に布と脇息を詰めてきたから、私がいないことにも気づいていないかもしれないわ…。


 誰も助けにこない、そんな思考が頭を過った少女は、もとから青くなっていた顔を更に青ざめさせた。



 その時、ガサガサと大袈裟に揺らめく杉の葉に合わせるように、小さな足音が近づいてきてるのが分かった。段々近づいてくる足音に背筋が凍る。


 誰かがこっちに来る。


 少女は近くの大木の影にしゃがみ込んだ。強く目を瞑り、両手で頭を抱え込む。




「何してるの?」


 少し鼻にかかったような高い声が上から降ってきた。想像していたものよりもずっと可愛らしい声に思わず顔をあげる。


「え…」


 そこには月の精のように艶やかな美少年が立っていた。


 雪のように白く滑らかな肌。水晶のように透き通る美しい瞳。品が薫る細く形の良い鼻。まるで、幼い頃大和絵で見た玉貌ぎょくぼうの妖童のようだ。


 萌黄色の小狩衣こかりぎぬ姿にびんずらをしているということは、そこそこ身分のある家の子供なのだろう。裾元にちらりと見えた美しく輝く唐物の玉佩おびだまは幼い少女でも分かるほど高価な品。



 その少年は目を見開き固まる少女を見ると、不思議そうに首を傾げた。


「こんな遅くに、なんでこんなところにいるの?君はもしかして妖狐ようこかい?」


 少年の瞳は闇夜でもわかるほどきらきらと輝いており、彼が決して、妖狐というものを恐れてはいないことが分かった。


「…ち、ちがうわ。」


 少年の曇りのない瞳につい見惚れてしまい、返事の前に間が空いてしまった。


「なんだ…違うのか」


 少女の返答が気に入らなかったのか、彼は分かりやすくがっかりと項垂れた。


「あなた、妖狐に会いたいの?」


 まさかとは思いつつも、心底がっかりしている彼にそんな言葉をかける。


「あぁ。僕は、妖狐を探しにここへ来たんだから」


 彼の言葉に目を見開く。



「妖狐が怖くないの?」


――妖狐は人を欺き罠にかける妖怪だって、ばあやが言ってたわ。とっても怖い妖怪だからこの杉林に近付いては行けないって…。



「怖くなんかないさ。僕の母様かも知れないんだから」


――え?妖狐が母様?


 少年の言葉に驚いて言葉を失う。

 この子何を言っているのだろう。



「じゃあ、あなたは妖狐なの…?」


 もし母親が妖狐であるなら、この少年も妖狐に違いない。そう思った少女は月の精のような目の前の彼にそう問うた。


「いや、僕は人間だよ。…妖狐になれたらどれだけよかったか。」


 少年は遠い目をして、悲しそうにそう呟いた。少年の寂しげな瞳に、幼いながらに胸が締め付けられる少女。




「お母様に、会えるといいわね。」


「ありがとう。」



 ふんわりと笑った少年の笑顔があまりにも綺麗で…。


 その後、しばらく言葉が出なかったのを今でもよく覚えている。




 月夜に揺らめく雪白の美貌。小狩衣の裾から覗く、胡蝶結びで締められた瑠璃色の玉佩おびだまは、自らが光をもったように神々しく輝いていた。



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